第2章 第5部 第5話
これほど悲しげな灱炉環の顔を見たのはいつ頃だろうか。幼さが少しずつ消え、人としての気持ちがある今の灱炉環の涙は、幼くして母を亡くした彼女の涙とはまた異なる。聞き分けることの出来ない子供の涙とは、その意味が酷く異なる事を、逞真は理解している。
そして、何よりそんな涙を流させてしまったのは、けじめを付けさせようとしている男ではなく、自分自身なのだ。
なんと言うことだろうか。誰よりも愛を注いだはずだった娘に泣かれてしまった。
父親としてこれほど、胸の内が張り裂けそうなことはない。
「解った。だが、男を見せて貰わねばならん。儂は子の胸に届かぬ拳は認めん!よいな!」
そう言って、僅かに出来た灱炉環と蛇草の隙を割って入り、彼女達をかき分け、ずいと、その顔を鼬鼠の前に突き出す。
そして、鼬鼠は決して目を逸らさないし身動ぎもしない。
「ほう……流石は鼬鼠家の長男。強いな……だが……」
そういった瞬間、逞真は思いきり鼬鼠を殴り倒す。当然鼬鼠は、大きく吹き飛ぶが、幸い風皇の間は広い。それに手加減もある。部屋が壊れることもなかった。
「許せ。取りあえず、父としての怒りだ!」
そして、彼は蛇草の方を見る。
「後日。見定めさせて頂く。先ほども言いましたように、この胸に届かぬ拳は認められませぬ故!」
逞真は、その厚い胸板をドンと叩き、踵を返し出て行く素振りを見せる。
「行くぞ。灱炉環ちゃん……」
逞真は振り返らず、灱炉環に声を掛ける。
「ごめんなさい。お父様……」
だが、灱炉環は首を横に振り、座り崩れたまま、その場から動こうとはしない。
「解った。好きにしなさい」
それは決して認めたわけではない。一つは、鼬鼠が灱炉環に相応しか男であるかの試練までを課すまでの猶予だ。
そしてもう一つは、愛娘を泣かせてしまった自分への罰である。
逞真の去った風皇の間に残されたのは、まさに台風一過の心境である。
一難は、去ったというのに、片付けなければならない問題が山積と言った状態だ。何より疲弊したのは、蛇草である。
新の問題も治まっていないというのに、今度は実弟の不始末だ。
ただ、当人達は十分に納得しており、決して鼬鼠が一方的問題を起こしたわけではない。
「まったく……」
「済みません。お姉様には迷惑をおかけ致しました」
灱炉環は、振り返りシュンとして頭を下げるのである。
「何をいてるの……こういうのは、全部男の責任でいいの!」
そう言って蛇草はソファに座り直した鼬鼠の頭頂部を、遠慮無く殴り倒すのだ。
「って!」
そんな鼬鼠の左頬はすっかり、腫れ上がってしまっている。
「待っててください」
灱炉環は、小走りにキッチンにまで走り、タオルを水で濡らして、すぐに鼬鼠の頬を冷やし始める。なんとも甲斐甲斐しい姿である。
「悪かったな……」
それは醜態という意味でも、自生しなかった自分の愚かさに対しの意味もあった。それでも灱炉環は首を横に振り、自分たちの情熱を肯定する。
「わりぃ、アレ取ってきてくれ」
そう言われると、灱炉環は、冷蔵庫から一つのドリンクを取ってくるのである。
鼬鼠は頬を冷やしつつ、勢いよくプルタブを引き、勢いよく解放される、炭酸の音と共に、それをぐいっと飲み干す。
「っつ!くしょう……なんて堅ぇ拳だ……」
鼬鼠が飲んだのは、例の強炭酸ドリンクである。口の中に弾ける炭酸が、染みて仕方が無い。
敢えてその制裁を受けるため、鼬鼠は力を抜いていたが、それでも逞真の拳は、鍛え抜かれた一つの武器である事を実感する。
そして灱炉環は定位置であるかのように、鼬鼠の膝上に治まり、彼の首元に頭を納めるのである。
「もう……見てられないわ……」
あれほど、逞真が激怒した後だというのに、灱炉環はその感情を諫めるため、鼬鼠との距離を置くどころか、漸く手に入れることの出来たその場所から、離れる事は無かった。
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