第2章 第5部 第4話
「これは……姉貴も、鼬鼠家も、東雲家も関係ありません。俺個人の責任です」
「……ほう!?」
つまり彼女に対する責任と怒りを、甘んじてその身に受けるといっているのだ。
「つまり腕の一本や二本折られても、文句一つ溢さんと?」
そう言われると、鼬鼠は迷わず右腕を真横に伸ばし、その覚悟を決める。
「ちょ!ちょっと待ってください!この子は、これでも明日の鼬鼠家を背負って立つ身です!こんな事で!」
「こんな事?」
勿論蛇草は灱炉環を軽視した訳ではない。だが焦りは隠せない。確かに保護者としての責任は自分にもあるが、二人は傷つけ合ったわけではない。
殴り倒すというのならば、それは男同士の語らいであろうが、腕一本となると、流石にその域を脱してしまっている。
「鼬鼠さん、妻を事故で失い、漸く助かったこの子は、儂にとってまさに妻の忘れ形見ですぞ!?元気に朗らかに育ってくれればいい!ただそれだけを思い、二度とこの子を危ない目に遭わせまいと、ここまで育ててきたのです!それを、こんな事ですと!?」
逞真は、身振り手振りを大げさに、どれだけ灱炉環の身を慮り、これまで彼女を見守り育ててきたのかを、熱弁する。
子を愛し育てた親ならば、ましてやそれが女児ならば、父親として目に入れても痛くない存在である。ましてや灱炉環は、今は亡き哀妻の末子となれば、その思いは一入だ。
彼の感情は頂点に達し、振るうその手に、炎の揺らぎが灯る。
「姉貴は、黙ってくれ!オレの問題だと言った!。だが、鼬鼠家の長子として、これ以上頭を下げる訳にもいかねぇ。その代わり、腕の一本や二本……くれてやる」
覚悟は揺るがない。それが鼬鼠の気持ちだ。
逞真が完全に頭に血を上らせているのは明らかで、完全に判断の善悪を見失っている。それは二人だけの問題に止まらず、今後鼬鼠家と赤銅家は、決定的な遺恨を残す事だろう。
今ならば、自分が頭を一つ下げ、灱炉環と鼬鼠の縁を切らせることで、傷は最小限に納めることが出来る。
尤もそれでも、遺恨は産まれるだろうが、少なくとも鼬鼠家側からの悪感情が生まれることはない。鼬鼠が傷つけば、自分が姉として寄り添い彼の心を癒やしてやれば良いと、葉草は思った。
だから、彼女は前に出て彼を庇うのである。
「やめてください!」
しかしそれ以上に前に出て、二人を庇ったのは灱炉環である。
彼女は華奢な身体で、目一杯両手を広げ、怒り狂う父にも動じず、真剣な眼差しで睨み挙げ、一歩も譲らない様子を見せる。
「灱炉環!」
怒り狂った逞真が灱炉環ごと自分たちを殴り飛ばしてしまうのではないかと、鼬鼠は思ったが、敢然と父親に立ちはだかる彼女は、そこまで口を開かせた鼬鼠をも黙らせてしまう。灱炉環は、防御壁を張り、彼等を守るのだ。
そして、逞真もそれ以上何も出来なくなってしまう。
それは愛娘が自分に逆らったからではない。
その行動自身が、無駄に終わると悟ったからだ。
「退きなさい。灱炉環ちゃん……」
「否!です!」
それにしても、何と見事な防御壁だろう。
それは、内にいた蛇草も、父として子を見つめてきた逞真も、等しく思うことであった。
「お父様風皇戦をご覧になりましたか?この方の誇り高き思いを見届けになられましたか!?」
灱炉環から見れば、もうそれで十分だったのだ。
普段人見知りがちで、困った愛想笑いで、解決を図る灱炉環だが、それは相手との軋轢を生むことを避けるためだ。
そこに彼女の拘りはないのである。だから引くことが出来る。
だが今この時において、彼女は引けないのだ。
「浅学非才の身でありますが、天海風雅前皇は、紛れもなく最強世代と言われる現六皇中、群を抜いた強者だと、強く感じております」
灱炉環は、その場から一歩も前に出ない。逆にその言葉と同時に、僅かに引いたのは、逞真だった。
「だが、灱炉環ちゃん!」
「お父様!灱炉環には、赤銅家の誇りを分けては頂けないのですか!?灱炉環はそれほどまでに、足手まといなのですか!?」
「それは……」
普段穏やかな灱炉環が、これほどの思いを抱いているとは、思いも寄らない逞真であった。そんなわけではない、それはただ父としての愛でしかない。
勿論そんな思いは、灱炉環も解っているのだ。
だが、愛するがばかりに、曇る眼もあるのである。いや、寧ろ愛があるからこそ、その瞳には敢えて映したくない、現実もあるのだ。
「あの日、それでも涙を流しながらも、その壁に諦めないこの方を見たときから……灱炉環の心は……焦がれて止みません……」
灱炉環は泣き崩れ、父親に向けて張り巡らせた厚い壁を解き、額ずくように、両手を胸元で組み、ただ思いを込めて祈る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます