第2章 第4部 第23話

 翌朝のことである。

 灱炉環は目を冷ます。それは今まで彼女が目覚めたことのない場所、そして、初めての朝でもあった。素肌の温もりが心地よい、なんともアンニュイな朝だったが、そんな彼女が目を冷ました理由は、特に何の変哲も無い、スマートフォンのベルだった。


 メガネを掛けていない彼女は、手探りでそれを探す。


 「あん?」


 気怠い声を出しながら鼬鼠が目を冷ます。


 「スミマセン……電話です……」

 「ああ……」


 灱炉環は、胸元の乱れを期しながら、漸く頭の上のスマートフォンをつかみ、目を懲らしてその相手を確認するのだ。


 「灱炉環です。どうしたのですか?こんな早くから……」

 「え?もう八時……半?」


 灱炉環はスマホの片隅に表示されている時刻を漸く確認して、自分がどれほど心地よい時間を過ごしていたのか、漸く気がつくのである。

 学校に行く準備をしなくてはいけないと思い、慌てふためくがそれは後の祭りである。


 「え?ああ、はい。き!今日!ですか?はい。夕方ですね!?はい」

 「騒がしい……な」


 鼬鼠は慌てる灱炉環の後ろから抱きついて、その心地よさを求めるのだ。


 「先輩……その……お父様が……ですね」


 灱炉環は鼬鼠の腕の中で、彼に向き直し、求めに応じながらも、それを説明し始める。


 「そ……それに、遅刻しちゃいます……けど……」


 そう言いつつも、鼬鼠に組み敷かれるまま、灱炉環は言葉を失う。


 「もう……遅いです……よね」


 彼女が選んだ選択肢はそれだった。甘美なる時間には逆らえないと言うことだ。

 

 それでも、十分に午前中の時間の過ごし方を割り切った二人は、朝食の準備をする。

 

 まず、整理しなければならないことがある。


 灱炉環の今回の参戦は、赤銅家に断り無く、彼女の独断でそして鼬鼠の判断で行われたことであり、まず鼬鼠家としてその謝罪をしなければならないと言うことだ。


 そして、本日の夕方、灱炉環の所へ、彼女の父が顔を出すことを、鼬鼠としては葉草に連絡を入れておかなくてはならない。


 「え?」


 というのが、蛇草の第一声である。蛇草はその事を知らないのだ。


 ただ、それは当然とも言え、父親が娘に会うことに対して、他家に断りを入れる必要などないのだが、なぜそれを鼬鼠がこのタイミングでそれを知っているのか?ということに、盛大な指摘が入るのである。


 「いや……その……あぁ……」


 鼬鼠はそれに対して言葉を詰まらせた。

 そして、夕べの情熱を思い出すだけで、灱炉環は顔を真っ赤にして、大いに照れてしまっている。

 

 鼬鼠は、蛇草との電話を終え、急に疲れたため息を吐き出し、天を仰ぐ。


 何をのぼせて、感情の赴くままに動いてしまったのかと、彼は今頃ながらに、自分の置かれた状況を知るのである。


 言葉には出さなかったが、まず蛇草に顔の形が変わるほど殴られ、説教されることはまちがいないだろう。


 そして当然、二人の距離感を悟られてしまうと、彼女の父親の前で、更に殴り飛ばされるのだろう。そして彼女の父親にも、力一杯殴り倒されるのだろう。


 とにかくそんな未来しか見えない。


 「あぁ~……」

 「先…………輩?」


 腕の中の灱炉環が心配そうに自分を見上げてくる。


 「いや……何でもねぇ……」

 「灱炉環も……今日はお父様と、全面対決します」


 灱炉環はもう一度鼬鼠の胸に頭を擡げる。


 確かに、彼女と父親の事については、赤銅家だということ以外何も知らない。最も大抵は彼が鼬鼠家の嫡男であるということだけで、それが名刺代わりになってしまうため、あえて色々と口にする必要もなくなってしまうのだ。


 そして、鼬鼠家に見初められ、東雲家に支えるということは、それだけで誉れとなる。


 しかし、それは傲慢で怠慢である。


 「しゃぁねぇ……、気ぃ失ったら、バケツで水でもぶっ掛けてくれ……」

 「え?」


 灱炉環には意味がわからなかった。

 

 ただ一つ言える事は、午前中はこうして、彼の膝の上に抱かれて、幸せな時間を過ごすということだ。

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