第2章 第4部 第22話

 それは、灱炉環にして見れば思いもよらぬことだったが、彼が自分の頭を撫でるのは二度目である。


 おそらく初陣であろうあの場面で、しかも高等部に上がってまだ二ヶ月も経っていない少女が、普段張り詰めた鼬鼠の空気を持つ、秋山と乾風ですらも、息を呑んでいたあの場面で、迷い無く的確な動きを見せていた。


 その度胸は十分買えるし、彼女が選んだ選択肢は、まず鼬鼠であり、そして仲間であり、その一番外に自分を置いたのである。

 

 それから、鼬鼠はカップを持ち、普段座りなれている灱炉環の横に腰を下ろす。普段は一人分とはいわないものの、それほど近い距離に座る訳ではない鼬鼠が、いつもより気持ち、一つ二つ、自分に近い位置に座ることで、灱炉環は少し脈拍が早くなる。


 「静音のヤツは……」


 そして鼬鼠がそんな事を語り始める。

 静音が誰であるのかは知っている。それは、現在厚木康平のフィアンセである。そして水の能力者で、次期水皇と噂される人である。


 「いや……ワリィ……」

 「いえ……私でよかったら」


 鼬鼠の言い草に、心が不安に揺れたのは確かだった。だが灱炉環はすぐに気持ちを立て直す。


 鼬鼠もそれを察したのである。チューニング不足による僅かな不協和音が、二人の空間を乱した瞬間でもあった。だが――。


 灱炉環はすぐにそれに対して、アジャストしてくる。彼の心をくすぐるのは、その賢明さだ。

 鼬鼠は、自分の膝上を一つ二つ軽く叩く。


 「え?」

 「言わせんな……」


 そう言われると、灱炉環は少し怠惰に開かれた鼬鼠の膝元に、するりと入り込み、彼の膝上に腰を掛ける。すると、鼬鼠は灱炉環の頭を引き寄せて、自分の胸元に少し抱くようにして、彼女の頭を撫でる。


 灱炉環は、それが何を意味しているのか、十分に理解をしている。そして、鼬鼠は、彼女の心が十分に落ち着いたのを知る。互いになんとなくその関係性が腑に落ちたのだ。


 「静音は、将来鼬鼠家の……つまり、オレの女になるために、教育されてた。アイツもそれが当然だと思ってた。別にそれが気にくわなかった訳じゃねぇ。けどよ、まるで人形みたいに振る舞うアイツが俺は大嫌いだった」


 嫌いではないが嫌いではない。それに対して灱炉環はこくりと頷く。

 寧ろ感情としてはその逆だった。


 「水ってのは良くも悪くも柔軟でよ。けど、その反面流されれば、ズルズルと流されちまう。もう気持ち悪くてよ。吐きそうだった……、意味も無い不協和音のフレーズを、何百回もリピートしろって、狂ったオスティナートみてぇに……」


 それは鼬鼠と自分でしか出来ない話し方だが、それはさぞ苦しかったのだろうと灱炉環は思う。聞きたくもないフレーズを延々と聞かされ続けるのだ。

 気に入らないアルバムなら、デッキから引き抜いてしまえば良いが、柵はそうはいかない。


 「けど、そんなアイツがついにいいやがった。『オマエなんか大嫌いだ!』って……」


 灱炉環は、はっとして目を開き、もう一度目を閉じる。


 「それまでは、抵抗することはあった。けど、アイツは人形みたいに黙りこくって耐えるだけだった。それが、なんだ……一年前の新学期でよ」


 とたんに鼬鼠はホッとした声を出すのだ。

 

 「っは……。なに緩い話してんだか」


 途端に灱炉環を自分の膝上から下ろそうとする鼬鼠だったが、今度は灱炉環が離れない。揺すっても離れそうにない。何より膝上のその温もりが、鼬鼠にとっても心地よい。情けないほどに、腕に収まったその感触と重みが、しっくりくるのだ。


 「後悔は……されてないですか?」

 「後悔……か……」


 そう言われてしまえば、未練が無いわけではない。だが今更な話である。鼬鼠は、天井を眺め、深いため息をつく。


 だがこれで良かったのだと思う。

 今更ついた悪童癖は、もう彼の性格と紐付いている。それも変わらない。

 

 「何か掛けますか?」

 「ヴァンヘーレン……かな」

 「When It's Love……ですね」

 

 灱炉環は、慣れた様子でCDのジャケットを確認しにゆくのであった。

 

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