第2章 第4部 第21話

 今ベッドの上で交わされている抱擁は柔らかいものであるが、新はそのときの気持ちが忘れられず、自ら蛇草を強く抱きしめるのである。

 「ゴメンね……蛇草ちゃん……」

 「新……様」

 「ううん……新で……新……と」

 敬称はいらない。昔のように名で呼び合うことが、自分にとっての再スタートだと新は思い、その瞬間今まで胸の中に支えていた悪意が、心の中から溶け出していくのが自分でも解るのだった。

 「新……」

 姉妹のように育った彼女が無事で帰ってきた事を、心から喜ぶ蛇草だった。


 「しばらくは、イチャイチャとさせておきますか。行きましょうか、秋山君、乾風君」

 「あ……はい」

 

 更は二人を連れて歩く。

 そして、新の寝室の前から去るのである。

 

 鼬鼠は頭を下げた。霞に更に、頭を下げた。二人にチャンスを与えてほしいと、勿論重要な局面ではなく、今後何かに更が関わるとき、更を守る盾に二人を指名することを、申し出たのだ。

 

 ただそれには、もう一人どうしても、手札に加えなければならない人間がいた。

 

 鼬鼠が戻ったのは、鋭児よりも数時間遅れてのことだった。


 そんな彼の手には、厚手のファイルの収められた封書が持たれていた。

 彼と同行していた秋山と乾風も鼬鼠の帰還に時を合わせたが、彼等は帰路の分岐点で解散することにする。


 そんな、秋山と乾風の手にも封書が持たれている。

 ただ、彼等が手にしている封書の内容は、鼬鼠の期待しているものとは、若干異なるものではあった。要するに資質はあるが、飛び抜けた能力には欠けるのだ。それに経験も浅い。

 単純に即戦力として更の護衛に着けることは出来ないということだ。


 だとすれば、鋭児一人を着けてしまう方が手っ取り早い。なぜなら現状、霞には蛇草と千霧、新には、雲林院家の人間がついている。

 更にも護衛はついているが、秀でた能力者が傍らにいるわけではない。有能止まりなのだ。


 そこに今更秋山や乾風を彼女の傍らに置くだけでは、まるで意味が無い。

 彼等を連れて歩いたのは、更なりのパフォーマンスで鼬鼠の気持ちを十分に酌んだ上での行動で、自分はその選択肢を拒まないと言っているに過ぎない。

 決めるのは、霞であり、蛇草であり、東雲家の重鎮達である。

 

 部屋に戻ると、案の定灱炉環が部屋で待っていた。


 「はぁ……」


 その察しの良さに、鼬鼠はため息をつく。


 「へへへ……と、帰ってきたときに部屋が暗いのは、少し寂しいと思いまして……」


 「テメェは、オレの小間使いでもねぇだろうに……」


 灱炉環は取り繕っているが、確かに場が温まっているし、鼬鼠は座るだけで良いのだ。話が早い。


 ただ灱炉環は、自分が呼ばれる要件があると思ってはおらず、彼女がなんとなくそうしたいと思ったタイミングが、鼬鼠の帰還と重なったというだけに過ぎない。


 「コーヒー入れますね」

 「オレが入れるわ。テメェは座ってろ」

 「あ……はい」


 鼬鼠が自分のためにコーヒーを入れてくれるのだ。灱炉環は無理に遠慮することは無く、素直に席に着くのだ。灱炉環は、長掛けのソファにストンと腰を下ろす。それは普段自分と鼬鼠が並んで音楽を聴く位置である。

 そして、そんな彼女の前に一つの封書が乱暴に投げられる。


 「読んどけ」


 と、鼬鼠はそれだけであるが、灱炉環は少し、ソワソワとしながらそれが何であるのかを確認する。

 そして、灱炉環は一瞬はっとして、それを胸に抱くのである。


 「それは、間違い無く風皇たる鼬鼠が自分の力を認めてくれた証であり、これほど名誉なことはない」

 

 少しして、鼬鼠はマグカップに入ったコーヒーを二人分用意し、互いの前に置く。鼬鼠が腰を下ろしたのは、普段腰を下ろすことのない、一人掛けのソファだった。


 「赤銅家への連絡は、明日にでも姉貴が入れる。まだサインは入れるな。いいな?」

 「はい……」


 嬉しい反面、少し沈んだ灱炉環の顔がそこにある。


 「言いたいことがあるなら、今のうちに言えよ。更様がテメェを強く押してる。多少の我が儘は通るぜ?」

 「あ……それは大丈夫なのですが……」

 「……が?」

 「父が、すごく過保護でして……ですね」

 「あ?ああ……」


 灱炉環の遠慮ぶり、およびその温和な性格からして、彼女がどれほど大切に育てられてきたのかは、解ろうものだ。炎と大地の掛け合いとなれば、本来性格的には、豪胆豪傑を地で行く性格の者が多い。その反面、非常に頑固で融通の利かない人間が多く、炎のように暑苦しいときたものだ。


 普段大人しい灱炉環だが、新救出に加わったときに見せた彼女の意思は、非常に決意の固いものだった。その確固たる意思や使命感は、重要であり且つ、彼女の守備的能力は、護衛として必須である。


 赤銅家の人間は、その能力の系統と家柄故に、不知火家と高峯家との繋がりが強く、東雲家とは、どちらかというと縁遠いのだ。

 よって、灱炉環との縁は鼬鼠にとっても、東雲家にとっても、重要なものとなる。


 「テメェが軽率な女じゃないってのは、解る。オレの言っている意味がわかるな?」

 「えへへ……」


 鼬鼠が自分を理解している。それは灱炉環にとって、これ以上も無く嬉しいことだ。愛くるしく笑う灱炉環に対して、鼬鼠はふっとどうしようもなさそうなため息をつく。普段の彼なら、彼女のその緩い笑いに対して、強い拒絶反応を見せるが、何故か彼は彼女の頭にすっと手を伸ばして、その頭を撫でるのである。

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