第2章 第3部 第20話

 その一週間後の月曜の朝、美箏は校長室に呼ばれることとなる。しかも本来学生が全うすべき授業中にである。

 そして美箏に渡されたのは、転入の推薦書である。

 

 美箏は確かに成績優良であり、私立の進学校に通っているが、それは彼女が自分の目指す道に進むための道程に過ぎない。

 だがそれと同時に、彼女の進んだ道であり、その代わりなど本来あり得ないのだ。

 本来転入とは、学生がその事情を抱えているからこそあり得るものであるし、スポーツ選手でも、学問で特異な成績を収めているわけでもない彼女にそういった話が舞い込むことなど、学校側からとしても、理解しがたい事なのだ。

 

 だが美箏はその理由を知っている。

 

 美箏には、転入の推薦書となっているが、彼女の通う学校からすれば、強制的な指示である。

 普段顔を合わせることのない校長と教頭だが、椅子に座った校長も横に並ぶ教頭が、冷や汗にも脂汗にもつかない異様な汗をかいているのは、美箏から見ても理解出来る事だった。

 

 そして、本来寝耳に水である美箏が、経験豊富な大人よりも、静かで理解しがたい状況において、冷静だった事も、光景としては異様である。

 詳細は明かされないが、封筒内には訪問日を含めた書類も含まれており、後日彼女の家に伺うということだ。

 そのことは、校長の横に立っていた、公務員らしきスーツ姿の女性が、美箏に伝える。

 

 美箏は一礼をし、校長室を出る。

 「アリスちゃん……」

 美箏がつぶやくと、美箏の首筋から、ひょっこりと座敷童のようなデフォルメされたアリスがひょっこりと顔を出す。

 「逃げられない……よね」

 「ええ。でも教育課程を修了すれば、アナタが進むのは表の世界よ。ただし……」

 そのアリスは、鋭児に現れた、子供じみた愛らしさはなく、どちらかというと、本来のアリスに近い話し方をしている。

 「うん……」

 美箏の就きたい仕事、そして夢は、母のように教育者となる事である。そのための最良を彼女は選ぼうとしている。

 その道が絶たれたわけではないが、彼女にはいくつかの制約があり、表と裏の二重の生活が強いられることになるというものだ。

 事実依沢がそんな状況にある。

 最も彼女にとっての教員という職行は、社会生活に溶け込むツールであるに過ぎない。

 だが、これまでは友人との生活があり、何の変哲も無い、学生としてのルーティンがあり、いわば当たり前の生活だった。

 勿論人によれば、全寮制での学生生活というのもあるだろう、しかしそこには選択肢がある。

 

 理解はしている。利口で聞き分けのよい彼女だからこその理解だ。しかし消沈した気持ちだけはどうしようも無い。両親に何を説明すればよいのだろう。

 授業をしている教師の声はまるで耳に届かない。そしてシャープペンシルを持つ、美箏の人差し指と中指の爪は、艶やかな黒色に染まっている。

 もはや彼女はそれを隠してはいない。決意の表れと言う訳ではない。しかしあの日から、彼女の価値観が少し変わった事は確かである。

 間違い無く自分には、周りにない力があるのだと、振り切れた一つの感情がある。


 やがて、その日の授業も終わる。校長室に呼ばれたこと以外は、何も変わらない日常だった。何があったのかと訪ねる友人に派申し訳ないが、美箏は苦々しい笑みを零しながら、言葉を濁すに過ぎなかった。ただそれだけだ。


 

 家に戻った彼女は、テーブルの上に、そっとソレを置き自室に戻り、日課となる人形遊びをするのだ。

 日進月歩とはいうが、美箏にはその感覚が、みるみる自分に身についてゆくのがわかるのだ。今まで不器用だった、気で練られたれたぼんやりした腕が、僅かここ数日で、しっかりとした形になっており、それは間違い無く彼女の手に近い形となっている。

 まずは自分の手を動かしている感覚を思い浮かべるのだ。その両手は幽体離脱のように、美箏の手から、すっと現れ人形を持って遊び始める。

 「鋭児……くん」

 鋭児と美箏は側にこそいたが、それほど多く遊んだわけではなかった。

 静かに隣にいることは多かったが、塞ぎがちだった鋭児は、そうしているほうが好きだったのだ。ただ、美箏は、今手にしている人形のように、もう少し無邪気に遊んでみたかったと思っているのだ。

 「美箏?」

 声とともに、扉がノックされる。


 ふと時計をみると、もうそんな時間であるのかと美箏は思う。

 文恵の帰宅は夕方の七時を回った頃であり、彼女の勤務地は比較的家から近い。この日は比較的早い帰りではあった。尤も彼女は比較的早く帰宅するようにしている。


 文恵にはすでにメールで、事の次第は話している。


 学校からの推薦状で、封筒には国立日輪学園と書かれている。それが鋭児達の通う学校の名前である。


 ただ、教育者である文恵でさえ、聞いたことのない学校である。

 ただ、開かれた書簡の一つには、現総理大臣の推薦状という、あり得ないほど仰々しいものが同封されており、だが寧ろそれがどうにも胡散臭く思える。


 しかし、それは間違い無く彼女が通う学校の校長から渡されたものなのだ。

 推薦状の文面には、美箏には人より優れた学力があるという文面が含まれているが、文恵には呑み込みがたかった。


 確かに、美箏が学力優秀であるが、それでも一級の国立大学に悠々と受かるというほどのものではない。必死の努力をすれば可能であろうが、美箏は尖った学位を求めているわけではない。


 それが進みたい道でであるならば、文恵も止めはしない。


 何より、文面の中には、現在彼女の家が負担している学費の免除まで記載されているのだ。どれほど彼女が望まれているのかということが、解りそうなものだが、聞きもしない学園の急な転入話など、認めるわけにはいかないし、そもそもまず美箏がどうしたいかということを、文恵は聞いていなかった。


 「この、学園ね。鋭児くん達も通っているんだって。鋭児くん達は、武門に優れていて、私は……多分違う理由で……」


 美箏は濁した。自分の能力を両親に伝えることはなかった。

 鋭児が通っていると言うことはつまり、焔も通っているということだ。

 鋭児は、学園に関しては、文恵に対して言葉を濁していた。そのときは、鋭児の性格を踏まえ、文恵は深く聞こうとはしなかったのだ。そして焔も、特別な学校だと言うことを、文恵に伝えており、その名前をいえなかった。


 そして、現役総理大臣の書簡の同封ときたものである。


 「校長先生は、なんと仰って?」

 「て……いうか、すごく緊張してた。でも、何も知らないという訳ではなかった……かな」


 呼び出されて、書類を渡されたが、確かに校長と教頭から、何か気の利いた言葉などかけられた記憶はなかった。


 「解りました。お父さんも帰ってくることですし、その後にしましょう」

 

 秋仁の帰宅後、夕食後に再びその書類が、彼の前に出されることになる。

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