第2章 第3部 最終話

 数日後――――。

 

 美箏の家には、彼女と、彼女の両親、そしてたった一人、紺色のタイトなスーツ姿のの秘書らしき女性が、普段彼女の囲んでいる食卓にいた。

 そしてそこには、入学手続きのために必要な印鑑が捺印されている。

 

 この結果に至ったのは、文恵に伝えられた、彼女の務める校長からの薦めでもあったからだ。

 特殊な学園であることは確かで、一部の地位にいる教員には、通達が来ているということだ。

 ただ非常にまれな事であり、まさかその相談を自分が持ちかけられるとは、彼も思っておらず、文恵のそれに酷く動揺した様子を見せた。

 「結論から言うと。その推薦は受けた方が良い。いや受けなければならないと言うことになってしまうかな」

 と、真剣な面持ちで言葉を重く口にするのだった。

 

 とはいうものの、美箏の中では、ほぼ決断されたいた事だった。

 彼女が最も心配していたのは、両親がそれを受け入れられるかどうかということだったのだ。

 勿論文恵は美箏に何が起きているのかを知っている訳ではない。

 

 秋仁は、精気を失ったというわけではないが、娘の新たな旅立ちに、少し寂しげな表情をしていた。

 「しっかりやるんだぞ」

 と、美箏の頭をクシャリと撫でるその手が、いつも以上に父親らしいものだった。そんな父親に、美箏もなにかを告げられた気がせずにはいられなかった。今生の別れだというわけでもないというのに――――。

 

 彼女の実質的な入学日に関しては、区切りのよい二学期と言うことになり、彼女の平穏な日常が、今すぐ断ち切られた訳ではない。

 あと二ヶ月ほど、今の学友と過ごす時間はある。

 美箏は一つ、深呼吸を入れた。

 

 手続きを終えると、女性は出迎えのリムジンに乗り、美箏の家を後にする。

 

 鋭児達の耳にその報告が届いたのは、煌壮も鋭児も、順位戦の優勝を決めた日の事だった。

 経路は二つある、秋仁から鋭児に、そしてアリスから鋭児にというものだ。

 

 秋仁のメールは。

 「美箏がそちらに行く事になった。よろしく頼む」

 と、なんとも素っ気ないものだった。そしてアリスからのメールも同じようなもので――。

 「美箏が学園に通うことになった。時期は二学期からになるそう」

 どちらにしても、喜びに満ちているようなものではなかった。そこには逆らえない定めというものが、なんとも滲み出ていた。

 そして、そんな鋭児が携帯電話をとったのは、康平との一戦を終えた直後でもある。

 普段は携帯電話など、衝撃が加わって困る貴重品などは、部屋に置いてくるのだが、ここしばらくは、持ち出さざるを得なかった。

 そして、鋭児の横には焔がいる。

 彼女は学業をサボり、試合の観戦のために顔を出したというわけだ。

 「二学期……か」

 「まぁ。仕方がねぇよ。アリス先輩が怪我させられて、争奪戦みたいになっちまった以上、知らんぷりは出来ねぇしな」

 「うん……」

 

 その後、鋭児は表彰式を終え、炎皇の部屋に戻るのだ。

 だが、その道中二人は散歩がてら、校舎の周囲をぐるりと散歩をするのだ。特に手をつなぐこともなかったが、歩みは自然と焔のそれに合わせられることになる。

 夕方にさしかかりつつあるものの、五月の陽気とはよくいったもので、日差しも温度も肌に心地よいもく、自然と肩の力も自然と抜ける。

 焔は、背筋を伸ばし頭の後ろで手を組み、背伸びをしたりして歩いている。

 彼女のリラックスぶりが窺えようものだ。

 「まぁ……ちょっとズレちまってるが、一年前か……」

 「そう……ですね」

 鋭児は、落ち着いた丁寧な言葉遣いで、少々気が立っていたり、ツッコミ口調の時は、若干乱暴になるものの、普段はなんだかんだと言葉は丁寧だ。

 焔が目上であるという事も含めてだが、一年経ってもそれは変わっておらず、焔はクスリと笑う。

 「鋭児」

 「なんすか」

 「俺の名前言ってみ」

 「え?何突然……」

 「いいからよ」

 「焔……サン?」

 そういうと、焔はやはりクスクスと笑い出してしまうのだ。

 鋭児からすれば、何がおかしいのかがまるで解らない。

 確かに自分は二つ彼より年上だが、自分の彼女だというのに、鋭児は未だに彼女に「サン」付けなのである。

 「いい加減それ……取れよ」

 「はい?」

 「サン……だよ。サン!」

 「ああ……えっと。なんか染みついちまってさ。アダナ?」

 「アダナかよ!」

 焔は白い歯を全開にして、少し腹を抱えるようにして、快活な笑みを浮かべ、肩を揺らして笑う。

 「まぁいいけどさ」

 「何なんですか……」

 鋭児は不服そうにするが、焔の機嫌はすこぶる良く、それ以上何かを言うことは出来なくなる。

 「びっくりしたよ。校舎裏に顔だしたら、一年がいきなり、悪童鼬鼠に、ハラかっさばかれてるんだもんよ」

 「ああ……」

 そこには吹雪もいたし、鋭児は当事者だった。鼬鼠に絡まれている静音を守ろうと鋭児が鼬鼠に喧嘩を売り、制裁を食らったという場面だ。

 「なんか信じられないよな。なーんにも知らねぇ一年坊が、今や炎皇だぜ?」

 「まぁ自分でも何が何だか解らないうちに、こうなっちゃいましたけどね」

 それに対しても、焔はクスクスと笑うのだ。

 そういう焔は鋭児も嫌いではない。元気な彼女も好きだが、やはり自分よりもここでの生活も長く、こうして少し先から自分を道いてくれるような彼女の、静かな笑みは、また違うのだ。

 「なんで、あんな校舎の裏に顔を?」

 鋭児は自分を整理したく、そのために、人気の無い校舎裏に移ったつもりだったのだ。当然鼬鼠も、人目につく事を嫌い、静音をそこに誘い込んだのだ。

 「あー……」

 確かに、それまで焔は吹雪と校舎の中央にある、武道館で吹雪と闘っており、今なら思うのだが、一服をするなら食堂だろうと思ったのだ。

 寮に戻るにしても、なんとも中途半端な場所だったのである。

 「なーんか。アリスセンパイがよ。面白いもん見れるからって、メールくれててよ。まぁあの人の話だから、なんかあんだろうと思ってさ」

 「そう……だったんですね」

 偶然ではなかった。鋭児と焔はアリスによって引き合わされたのだ。がっかりという感情ではなかったが、物事にはそう偶然はあり得ないのである。当然必然としては、あまりにあざといセッティングであるが、だとしたらアリスは、どこまで何を見通しているのだろうと思う。

 だが、少しすっきりもする。

 「まぁなんだ。オマエはあんなザマだったけどよ。オレの中でも、こうさ……『嗚呼』って、妙に腑が落ちちまって」

 そう言うと焔は弾むように一歩前に出て、鋭児の方へと振り返る。

 そしてそれは今では、完全に確信以上のモノとなって返ってきている。非常に充足した笑顔になっており、勝ち気な焔の目尻が、キュッと下がり、口角も柔らかく上がり、少しだけ陰りはじめた陽光の陰影が、より情緒的に映し出す。

 

 「んだよ。顔真っ赤にしてよ」

 

 焔は言う。

 鋭児は何も言えなかった。自分が惚れに惚れた焔の表情の全てがそこにあったからだ。

 「あ……うん」

 漸くだった。冴えない返事をしたのは――。

 

 「煌壮のヤツつれて、祝勝会といこうぜ」

 本当は祝勝会など、もうすべきではないのかもしれない。自分が認め炎皇となった黒野鋭児という男が、たかだか学年の順位戦で負けるはずがないのである。そしてそうなることは、すでに焔の中で、約束された歴史でもあったのだ。

 だがしかし、何かと皆で盛り上がれる口実がほしいのだ。

 

 「そうですね。早く戻らないと、五月蠅そうですし」

 それに対して、鋭児もクスクスと笑うのである。二人は煌壮を迎えに行くために、炎皇の部屋へと向かうのであった。

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