第1章 第7章 第30話

 鋭児の部屋に招かれた千霧は、少しキョロキョロと彼の部屋の様子を伺う。

 彼女自身が鋭児の部屋に踏み入れたのはこの時が初めてになる。

 鋭児の部屋に案内した美箏の気持ちは少し複雑であるが、千霧のその様子は、部屋を見回すため視線ではなく、明らかに何かの目的を持っての動作である事に気が付く美箏だった。

 そして、千霧はその部屋に一つの洋服ダンスを見つけるのだ。

 タンスは閉じられており、中は窺えないが大凡それなのだろうと千霧は目星を付けると、それをおもむろに開くのである。

 扉は開いた扉が、折りたたまれ横にスライドするようにして開かれるタイプだ。

 すると、タンスの上部の棚には、鋭児の帽子が幾つも並べられている。いくつか重ねられてはいるが、形が崩れないように丁寧に置かれている。

 「あ……」

 この時美箏は、千霧が何を探していたのかを知る事になる。そしてなるほどと思う。

 鋭児の帽子は、何となく皆持って帰っている。知る限りは焔と吹雪だが、それ以外に一つ無くなっているものがあった。

 千霧の行動からして、それは千霧ではないのだろうと言うことも理解出来る。

 なくなったと思われる帽子は、蛇草が持っているのだが、恐らく鋭児が現時点で、形にして何かを分けられるモノと言えば、その帽子だけだ。

 他人には大したことはないが、その帽子の大半は彼の祖母が彼に買い与えたものだ。

 理由は鋭児の額にある酷い傷がその所以なのだが、それと同時にその帽子は祖母との思い出の品でもあるのだ。

 鋭児がそれを丁寧に扱っているのは、当に感謝の意以外なにものでもない。

 彼がいなくなったこの部屋で、帽子を管理してくれているのは美箏で有り、美箏はその帽子の所以も確りと知っている。

 そういえば、アリスは鋭児の帽子を持っていく事は無かったと、美箏は思うのだった。

 「焔さんも吹雪さんも、持ってらっしゃるとのことですので、是非にとお願いしたのです」

 千霧は水色の野球帽を手に取り、胸の前で大切そうに抱くのだった。実際鋭児の帽子の大半はこの類いである。

 そうなると、美箏もタンスの前にやってきて、少しダメージの入ったコットン素材のものを選ぶ。一見してダメージジーンズのような色合いが、他の帽子と少し印象が異なる。

 それは、他の帽子の間に挟まれており、少し見分けにくいものであったのだが、整理している美箏だからこそ、知っていた一品でもあった。

 「そういうのもあるんですね」

 千霧はそう言うに止まった。美箏の行動の所以を何となく理解していたからで、それが際立つから、それがほしいなどとは言わなかった。そしてそんなつもりもない。

 「私てっきり、鋭児君のベッドに、ダイビングとかするのかなって思ってました」

 それは何となく吹雪がしそうなことだと思った。何故か焔にはそんなイメージはない。ただ、それ以上に過激なイメージであり、彼女の場合を想像すると、鋭児を押し倒している情景しか思い浮かばない。

 ただ、それを聞いた千霧は、又もやソワソワとし始めるのであった。

 

 「そ、そんなことしても……いいんですか?」

 恐らく美箏のその言葉を聞くまで、千霧はそれを想像していなかったに違いない。何故かこわばった笑いを浮かべながら、視線を美箏に合わせないようにしている。

 それを実行した自分を想像してにやけた顔を、どうにか引き締めようと必死なのだ。

 「ひょ……雹堂さんもやってましたし、いいんじゃないでしょうか?」

 その一言を聞くと否や、千霧はスタスタと歩き出して、鋭児のベッドにごろりと俯せに転がり、頬をシーツに当てる。

 「ふふ……鋭児さんの香り……」

 ただ美箏が思うに、そのベッドは自分の知る限り、尤も汚れたベッドでもある。それ自体に嫌悪感を感じているわけでは無かったが、焔も吹雪もこのベッドの上で鋭児と密な一夜を過ごしたのだとおもうと、それは純粋に鋭児の香りだけではないはずだという、ある意味なんとも現実的な思考が脳裏に浮かぶのである。

 「美箏さんも如何ですか?」

 千霧はそんなことを言い出す。そんな千霧の視線は若干恍惚としている。当然彼女の中で反芻される何かがそこにはあるのだ。それは甘味で感覚的で情熱的な夜の事であり、それがありありと伝わってくるのである。

 恐らくこれまでの美箏なら、その一言に反発した理性がまず先に立つことだろう。

 「え?」

 と、応えた美箏は、若干モジモジとし始める。途端に心拍数が高まり始めるのである。千霧の意味深な表情が、静まっていた美箏の衝動を揺さぶるのだ。

 「誰も問題にしませんよ」

 少し高飛車な言い方をすれば、美箏にはその資格があるという意味で、寧ろ昔から鋭児を見てきた美箏には、誰よりも先んじて鋭児とそうなる権利があったはずである。

 千霧のその一言は、美箏のもう一つの理性の柱を完全に砕いてしまう。

 文恵から見れば、異性のベッドでその残り香を求めるなど、破廉恥極まりなく、知性と理性の欠片もない行為である。

 ただ美箏は、熱に魘されるようになり、朦朧となり、スルリと千霧の前に、同じようにベッドに頬を着ける。

 「鋭児……君」

 「皆で鋭児さんを幸せにいたいのです。焔さんも吹雪さんもそう思われています」

 そう思っている千霧の表情は非常に満足げである。同時に美箏を説得するかのよな言い回しである。

 「そう……だね」

 美箏は、目をつぶる。

 自分にはその先が見えているわけではないが、確かにその中に自分がいるのは悪くないと思える美箏だった。ベッドに潜った動機は不純であれど、千霧のその一言で、妙に気分が落ち着いてまうのである。

 千霧が目を瞑ると、美箏も自然に目を閉じてしまう。

 そして、すっかり日が落ちた頃に目を覚まし、その言い訳に若干慌てふためく美箏の姿があるのだった。

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