第1章 第7部 第27話

 「美箏。千霧先輩が来るわ、安心しなさい」

 「え?アリス……姉さん?」

 その瞬間、アリスは次のノイズと同時に消えてしまう。

 「な……なな……」

 隆史達は解放されたが、急に現れた黒神の女は、まるで聖域に拒まれるように姿を消してしまったのである。だが何も理解していない彼等からすれば、こんな場所で消えたり現れたりするようなものは、悪霊かなにかの類いに違いないと勘ぐるに十分だった。

 「逃げろ!」

 もう一人は、祟られるのはまっぴらだと言わんばかりに、腰砕けになりながら逃げ出し始め、それを見た隆史も、後を追って逃げ出す。

 それと同時に、入れ替わるように千霧が境内に掛けあがり、すれ違う彼等を横目に見ながら、若干衣服を乱して、そこにしゃがみこんでしまっている美箏を見つける。

 「美箏さん!」

 「あなたは……」

 それが千霧だということを、美箏は漸く正しく認識する。彼女は鋭児の家の受け渡しの際に、蛇草の側にいた女性である。そして、千霧の名前を聞くと、彼女が、つまり鋭児の三人目の彼女ということを理解することになるのだが、それを落ち着いて認識するまでには、もう少し時間をおいてのことだった。

 「ああ、失礼しました。私東雲不動産の……」

 「千霧さん……ですか」

 「ええ……。その、大丈夫ですか!?お一人で、彼等を?」

 「あ……その、急にアリス姉さんが現れて……その、それで急に消えて!」

 「魔女が?」

 「ま……女?」

 「あ、いえ、こちらの話です」

 千霧は慎重に美箏の回りを観察し、彼女の影に少し指を触れ、何となく納得をする。

 恐らくアリスは、美箏に近々何かが起こることを予感していたに違いない。ただし、千霧がこの近辺に姿を現すタイミングは本当に偶然だったのだ。

 ただ、そんな千霧の携帯には、きっちりとアリスからの連絡が入っていた。美箏の位置が正確に分かっていたのは、アリスが美箏を保護していたからに他ならない。

 ただ、それほど長い時間保護出来るという訳でもなさそうで、恐らくたった一度だけの切り札だったのだろうと、千霧は理解する。

 「立てますか?」

 千霧は丁寧だ。それに物静かである。だが十分に労りのある声で美箏に手を差しのばしてみるが、美箏は腰が抜けてしまっていて、立ち上がることすら出来ない。

 美箏は首を左右に振る。

 「お可哀想に……、後で、美逆様に手を貸して貰う必要がありますね」

 何故美逆なのかというと、彼はこの街にホテルを経営しており、彼の部下は能力集団だからだ、というのはもう言うまでも無い事実だ。

 要するに、美箏をこれほど怖がらせた相手を捨て置けないといったところである。

 千霧はスーツである。白いスーツだ、そして蛇草のようにシックなタイトスカートではなく、まるで男装の麗人と言わんばかりの、スラリとしたパンツルックである。

 細身で身長も決して高いとは言えないが、難なく美箏を抱える千霧は、中々様になっていた。

 「家までお送りいたしますね」

 「あ……いえ。出来れば……その、サボタージュでして……」

 「ああ……」

 それはそれで良くないことだが、美箏の経歴を知る限り、彼女がそのようなことをするような人間ではないことは理解しており、何らかの事情があるのだろうと、千霧はそれをそれほど悪いことだとは考えなかった。

 「学友にお困りでしたら。お助けいたしますが?」

 鋭児の大事な従妹で幼なじみである美箏が酷い目に遭っているというのなら、それは千霧にとってもただ事ではないのだ。

 「いえ……そうではなくって……ですね」

 鋭児の事で、悶々としていた結果だとは流石に美箏も言いづらく、赤面しながら押し黙ってしまうのである。

 「お話は、その……鋭児さんの家で……」

 なぜか、そんな言い回しをした千霧が、目を細めウットリと、恥ずかしがるのである。それだけで相当な惚れ込み具合だと、流石の美箏にも理解出来る。


 

 車中。

 「その、アリスさんが急に現れて、それで助けてくれて!突然消えて!それで!」

 自分の話は、信じられないだろうがそれが事実で、自分はその場で震えているだけだったということを、美箏は懸命に運転中の千霧に訴える。

 そもそも、千霧とアリスの関係性を知らないと言うのに、彼女の名をだしている時点で、美箏の思考は整理出来ていない。

 確かに、千霧はアリスの名を知っているようだが、なぜ知っているのか?ということを美箏は確認しなければならないのだ。

 「落ち着いてください。お話は、鋭児さんの家でと、申したはずです」

 千霧の声はそれほど抑揚のあるものではない。丁寧に感じるときは良いが、こうして冷静に諭す場面となると、その声は非常に冷淡に聞こえてしまうのだ。

 そうなると、途端に距離感を感じてしまう。

 ただ、勿論現実的に、美箏と千霧の関係は近いわけではない。鋭児の家の不動産管理をしている会社の人間という認識しか、美箏にはない。

 ただ、そんな千霧ですら、鋭児と深い関係を築いているのである。

 自分には解らないことばかりだと、美箏は急に心細くなる。ほぼ一年でこれほど相関図が変わってしまうのか?と、鋭児との距離感を感じずにはいられない。

 走行中であり、美箏自身は気がつかなかったが、車内に何かがカタカタと震え、小刻みに動く音がする。

 簡単に言えば、ダッシュボード内の小物などが、車の振動と関係の無い物音を立てているとかだ。

 「美箏さん、深呼吸ですよ。まずは自分が安全な場所にいることを理解してください」

 「あ……はい。でも……」

 「続きは、鋭児さんの家で、まずはお茶でも飲んで一息つきましょう」

 同じ事の繰り返しばかりをいっている千霧だったが、それは彼女がじっくりと時間を取ることを意味している。

 鋭児の家の管理は、普段美箏も行っているが、東雲家の所有物件であるため、彼等もまたこの家の保守管理を行っている。

 鋭児が彼等の所に就職するという事は、鋭児の好待遇ぶりを含め、美箏達も理解しており、決して縁遠い訳でもないのだ。

 ただ、千霧が直接顔を出し、美箏と接するのは、この時が初めてとなる。正しくは、家の引き渡しの時以来だ。僅かな時間で言えば、焔の件で鋭児を迎えに来たときも、顔を合わせたことになるが、その時は会話らしい会話も無ければ、互いの空気を感じる距離感でも無かった。ただ慌ただしく姿を現し、帰っただけのことである。

 美箏には、彼女とテーブルを挟み、茶を嗜むなど、想像しかねる光景だった。俄に不安は残る。

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