第1章 第7部
第1章 第7部 第1話
鋭児は放心状態になる。
それは重吾から、焔が倒れたという連絡をうけたためだ。試合直後に退場口に姿を消したところで倒れたらしい。
何がどうであるのか鋭児には全く解らない。焔は単なる不調ではなかったのかと、冬休みに入る前に交わされたあの会話は何だったのかと、彼女の異変に気がつけなかった自分にショックを受けたのだ。
何を手放しに喜んでいたのだろうかと。
「鋭児!確りなさい」
今までヌルリと人をからかうような事をしてこなかったアリスが、彼の両肩を掴み、彼を揺さぶり、彼を現実に引き戻す。
「姉ちゃん……俺……」
焔が倒れた。逆に言えば、それだけの事だというのに、彼は思考が定まらない。
「千霧さんが、明朝迎えに来てくれるそうよ。私も同行するわ」
「う……うん」
鋭児はただ頷くことしか出来ない。焔に何かあった。その不安だけで鋭児はこれほどもろくなってしまうのかと、アリスは思う。
しかし同時に、それは仕方の無いことなのだと思うのだ。
鋭児の運命が好転し始めたのは、当に日向焔という一人の少女が彼の目の前に現れたその時からなのである。それを失ってしまうのかと思うと、彼は不安でならない。
「焔さんが、倒れたのですか?病気なのですか?」
文恵も気がかりでならないのだ。
「うん……、九月くらいから……なんか違和感があって。でも勝負した時は、何時もの焔サンで……でも、帰ってきたら、一寸調子崩してて……そしたら、倒れたって……なんなんだよ!」
「落ち着いて!大丈夫だから!焔は消えたりしないから!」
アリスはもう一度鋭児の肩を強く掴み、自分を確り保つように、促すのである。
「うん……」
その言葉は強かった。鋭児は意気消沈したまま、頷くしかなかった。
何となくふんわりとしていた、黒野家の空気が不安に溢れた瞬間でもあった。漸く焦点を取り戻した鋭児を見守る美箏の表情も、不安に溢れている。
焔という人間が鋭児にとってどれほどの存在なのかを知る瞬間でもある。
「大丈夫。焔は大丈夫だから」
今度は美箏の方を向いて、アリスはそう言う。得体の知れない所のある彼女だと思っていたのに、その時のアリスほど、誰よりも頼れる存在に思えた美箏だった。
アリスは鋭児の携帯を手にする。
「千霧先輩ですか?アリスです……」
そう言うものの、アリスと千霧が先輩後輩などという関係であったのは、小学部の頃程度で、それ以上の関係はない。ただ、六皇である黒夢アリスと言う存在は知っており、黒野家に彼女がいる理由などは、鋭児から聞き及んでいる。
だから驚きはしないのだが、鋭児の携帯からいとも容易く連絡を入れてくるアリスに対して、千霧は少々ヤキモチを焼くのである。
ただ、状況が状況なだけに、千霧もそれを表だっては出さない。
「今夜は、鋭児さんの従妹の家に泊まります。そちらへ迎えに来てもらえませんか?はい……お願いします」
短い連絡を入れると、アリスは電話を切るのである。
「叔母様、済みませんが……」
「解ったわ」
兎に角焔の様子が気になるのだ。そして鋭児を一人にしておく訳にもいかない。鋭児はこの日美箏の家の客間に泊まることにするのだった。
側にはアリスもいる。
「眠れない?」
明かりの消された客間で、二人布団を並べて眠っているのだが、鋭児は眠れない。夜の時間がこれほど長く、苛立つ夜もない。
「まぁ……うん」
客間の空気が妙に静かである。
ついでにいうと、鋭児はアリスと布団を並べて寝ている訳ではない。鋭児の布団にアリスが入り込んでいるのだ。
美箏の家で大胆だとは思っているが、そこはアリスである。全員に暗示を掛けているのだろう。仮に知っているとしても、秋仁くらいなものであろうが、彼は二人の時間を邪魔することはないだろう。
「鋭児……ありきたりだけど……」
「ん?」
「人生なんて、籤なんて紙切れ一枚に左右されるほど、弱いものではないのよ」
「んなの……解ってる。つもり……だったんだけどな」
アリスも鋭児がそういうものに、一喜一憂するような、底の浅い人間ではないとは思っている。そう言うものは、はしゃいで楽しいからこそ、価値があるのだ。
悪い言葉を聞けば、身を引き締める教訓にしてもよいし、良い言葉が出れば、晴れやかになればよい。そう言う遊びなのだが、しかし人間は一つの物事に大きく蹴躓くと、何かを心の支えにしたくなものなのだ。
学園に入る前の鋭児は、失ってばかりだったが、彼はそれを受け入れていた。前向きではないが、鋭児はそれと付き合ってきた。
焔と出逢ってから、全てが上手く回りすぎていたのだと、一つ遠い視点から捉えれば、人生そう上手く出来ているわけではないと、思えるのだが、それでは昔の自分と同じである。
焔を失いたくないという彼の強い感情は、彼にとって重要であり、それだけに今はその不安に押しつぶされそうになっている。どうしても自分を確り保つことが出来ないのである。
「大丈夫。何も失ったりはしないわ……」
何かを見透かしたようなアリスがそう言うのである。その言葉は安心に値するものだったが、ただそれだけに、彼女のその一言が、どれだけ周囲に大きな影響を与えるのかということを、鋭児には理解出来ていなかった。
本来アリスは、それに対して確信を持って答えてはいけないのである。
普段なら、半ばからかうようにして鋭児の腕枕を要求するアリスだが、この日は鋭児の頭をそっと自分の胸元に引き寄せて、彼を眠りに誘うのであった。
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