第1章 第5部 第6話
その夜のことである。
鋭児は焔の部屋に呼び出されていた。そうはいっても、特に何か特別な用事があったわけではない。
焔は素肌のまま、シーツ一枚を掛け俯せになって横たわり、鋭児はその背中をマッサージしていた。それだけで焔はご満悦である。
「鋭児……オレ明日の早朝な……」
用事は無かったが告げることはあったようだ。その一言を聞けて鋭児は少しほっとしたのだ。何故かは解らないが、ホッとする。
「なんか、不知火の爺様に呼び出されたって聞いたよ。緋口って人から」
「ああ?ああ、緋口に会ったのか」
「焔サン探しに、三年のグランド行ったときにね。重吾さんと良い感じだったよ」
「お?そうか?」
途端に声を弾ませ、どうにかして鋭児と視線を合わせようと横を向くが、残念ながら視野に収まる程度で、視線を合わせるまでには至らない。
「無理にこっち向くと、痛めるよ」
「解ってるよ」
鋭児は、再び、頭の下の枕を頭の下で抱えるようにして、体をリラックスさせる。
「良い気持ちだなぁ……」
焔は本当に満足している。
実際は、赤羽の付き添いとして不知火家へ出向く事になるのだが、焔とて、何もしないわけではない。出かければ出かけたで、特別ゲスト扱いで、闘技場で一戦や二戦戦う事になるだろう。
鋭児や重吾が衛士として、招かれるなら、焔は闘士といって、いわゆる格闘家としての道を進むのだ。悪く言えば見世物だが、よく言えば平和な戦いである。
一対一の正々堂々たる戦いだ。
焔らしい選択肢である。
「なんかワリィな」
「別に良いよ」
抑もは焔が鋭児よ呼び出したのだ。特に体に異常を感じたわけでは無かった。
要するに鋭児に触れてほしかったのだ。もっとストレートな方法もあったのだが、焔は鋭児のこう言う部分も好きだった。自分の体を丁寧にメンテナンスしてくれる彼を嬉しく思っている。
足を痛めたときも、鋭児はテーピングなどを行い、彼女の体のメンテナンスをしてくれた。闘士を目指す焔として、コレほど信頼出来るパートナーはいない。
何より、こうして体を解して貰った翌日などは、体も軽いし、関節の可動範囲も一つ広がった感じがするのだ。体の反応速度もより的確に感じる。
ただ心地よいだけではない。鋭児に触れられることで、心身がフワフワとし始め、鋭児にはわかり辛かったか、枕に沈めた焔の表情はウットリとしている。
本当に、そのまま眠ってしまいそうだった。
だが、焔は同時に思い出す事もあった。
「鋭児……」
焔はゆっくりと、体を反転させ仰向けになる。シーツが開け、焔の半身が見える。体に絡まったシーツは、掛け直す事を許さず、見えざる部分が、より際どく思わせた。
焔を見慣れている鋭児だが、思わず生唾をゴクリと飲み込んでしまう。
マッサージに集中していたとしても、焔の見事なボディーラインと、その質感で、気持ちが浮ついていたというに、施術が途切れ、尚且つ自分を迎え入れために両手を真っ直ぐ伸ばしている焔の目尻が、すっかり下がっており、瞳も潤んでいる。
唇もぽってりと、非常に艶やかになっている。
鋭児も言葉を発することが出来ず、ベッドの上に這い上がり、引き寄せられるように焔の上に四つん這いになる。
鋭児がキスを求めようとした瞬間、焔は鋭児を引き寄せ、自分の胸元にギュッと抱きしめるのである。
解れて血流の良くなった焔の体に、高鳴る鼓動がより脈を速くするものだから、いつも以上に彼女の体温が熱っぽい。
柔らかく、暖かく、僅かな発汗とボディソープの香りが混ざり、鋭児の気持ちをよりとろけさせ、焔の胸元で大人しくさせる。
爆発しそうな鼓動とは、まるで裏腹の行動である。完全に思考停止させられてしまっている。
「痛かったろう?ゴメンな……」
焔はそう言って、抱きしめていた手で、鋭児の背中をさする。
本当は脇腹なのだが、その態勢ではそこを撫でるほか無かった。
「スゲー音したもんな」
焔は本当にそこをずっと撫で続けるのである。
「何ヶ月前の話……してんだか……」
少しだけツンとした、鋭児だったが、発せられる言葉はゆっくりとし、完全に焔という存在に墜とされてしまっている。
焔はあの時の鋭児を思い出す。
自分の蹴りなど痛くないと言ったのだ。気持ちの入らない自分の蹴りなど何の力もないのだと。肉体的な破損など、彼女――、焔の心中の蟠りに比べれば、なんと言うことはないという、鋭児の言葉が、今になって心の中から、勢いよく溢れ出すのだ。
今日それを実感した。緋口との何気ない会話が、それを実感させたのである。
「スゲー痛かったよな」
焔は、鋭児をギュッと抱きしめた。感極まってしまったのだ。両腕で、そして足を絡め、鋭児を感じた。感謝してもしきれない。
鋭児は少しだけ意識を戻した。震えながら泣きじゃくる焔の頭を両手に取り、そして撫でる。
孤独から解放された焔が其処にいた。鋭児はそれが何より嬉しかったし、焔の涙がその証拠である。
「明日の朝まで……いいだろ?」
焔はそう言って、もう一度だけゆったりとした力加減で、鋭児の頭を胸の中に収めるのだった。
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