第1章 第1部 第12話

 いま彼がこの場所にいるのは、受験前に祖母が言った、高校くらいは出ておいた方がいいという、たったそれだけの言葉からだった。尤も、祖母が死んだ直後、受験会場にも行かず、その機会をふいにしてしまったのは鋭児である。

 いや、受験はするつもりだったのだ。ただ、その道すがら、不調を来した老人を助けた事実がある。そこから全てが始まったといっていい。毎日を急ぐ者達は、老人に目もくれず、それぞれの出先に向かう。目はくれても、誰かが助けるだろうと、そんな希薄な期待だけを残し、その場を足早に去って行く。

 祖母を失った直後の鋭児は、感傷的だったのかもしれない。だが、彼は思ったのだ、そこで立ち止まらなかったことが後悔に繋がるのなら、立ち止まる方がいいと。

 鋭児が受験をふいにしてしまった事を知った老人は、翌日見舞いに訪れた鋭児に、病室だというのに、一つの手品を見せた。それは透明なカードが深紅に染まるという手品だ。

 老人は言ったのだ。

 「儂の経営する、学園に席をおかないか?」と。

 そのとき、両親とよく相談の上と言われた鋭児は、こういったのだ。

 「相談するほどの身内はもういませんよ」と。

 鋭児は孤立無援というわけではなかったが、自らの素行は彼自身も心得ているところだ。ただどうしても、彼は自分の感じる理不尽さには、ぶち当たらなければ気が済まなかったのだ。毎日がそれの連続だったのだ。

 何も知らされぬまま、教わらぬまま、彼は老人に渡された赤いカードだけで、この学園に入学したのだ。それ一枚で、全て用意されると言われた。

 祖母が「高校くらいは出ておいた方がいい」と、その一言で、せめて三年間だけでも、静かに過ごしてみようと思ったのだ。

 だが、その学園の始業式直後、騒ぎ出す生徒に釣られるようにして覗きにいったのが、高等部の中央に位置する、中央棟の闘技場だった。そこで鋭児が目にしたのが、焔と吹雪のバトルだったのだ。

 彼は理解しがたい光景に、校舎裏のベンチで、頭を抱えていた。そのときに、目の前で理不尽な出来事が起こったのだ。

 

 あれこれと、入学に至るまでの事を振り返っていると、すでに昼休みになっており、鋭児は屋上でカレーパンと缶コーヒーといった、あまりにシンプルすぎる昼食を摂っていた。

 「よ!」

 そこに姿を現したのは、厚木晃平だった。優秀そうな彼は、確かに学級を纏めるには打って付けの存在に思える。新入生を気に掛ける学級委員長といったところか。

 鋭児としては、別に彼を嫌いになる必要もなかった。ただ五月蠅くされるのは嫌いだ。

 「この学園に居る奴らは、みんな訳ありだからな。あまり多くは聞かないよ」

 厚木晃平は、そう言って春の日差しが心地よい屋上で、半ば心を失ってしまったような鋭児の横に座り、同じように缶コーヒーを飲み始める。

 「勝手に喋るけど……、普通、外からの転入生は優秀で異常だから、転入してくるんだ。だから最初からクラス1かクラス2かに、所属するんだけどね。珍しいよ……。俺らと同じクラスっていうのが……」

 鋭児は立たなかった。立ったところで、行くところがなかった。この学校には食堂があるのだが、賑やかすぎるその場所で、食事を摂る気にはなれなかったのだ。

 「時間割……みた?」

 晃平はあまりにボンヤリとしている鋭児に、これからの授業がどう進められるか知っているのか気がかりになったのだ。

 「え?ああ……」

 ボンヤリした鋭児の言葉。言われれば厚木晃平の指摘は、的を射ていた。

 「この学校、体育ねーんだな」

 鋭児は、ポケットの中で折り畳まれていた時間割を再確認する。

 「ああ、その代わり開発授業がある。俺たちの能力を高める授業さ。基礎体力なんかは、もう中学校のカリキュラムで、相当やらされてるしな。昼から二時間みっちり、学年に関わらず、全てそういう時間割になってる」

 「へぇ……」

 「ま、体力は有りそうな雰囲気だな」

 晃平は直ぐに鋭児の体格を見て、基本的なものを持っていると感じたらしい。

 「ああ」

 全校でどう行われるのかは解らないが、そう言う学校なのだからそう言う仕組みがあっても変ではないのだろう。ただ、その中で自分がやっていけるか?というのは、全く未知数である。せめてもの救いは、吹雪が自分を、逸材かもしれないという、実感出来ないその一言だった。ただ正直、抜きんでる気などは毛頭ないのだ。

 「鋭児君♪」

 と、優しい声が聞こえる。大人びて淑やかなその声は、焔に振り回されているときとは少し違う吹雪の声だ。

 「吹雪……先輩、それに、静音先輩も」

 「ふふ。この子がね。廊下を歩いていたら、校舎の三階に行くのが見えたから、私か焔のところじゃないかって。でも、鋭児君は私たちの教室なんて知らないわけだから、屋上じゃないかなって。鋭児くん、大勢って苦手そうだし……」

 「うわぁ……、凄い凄いぞ!黒野鋭児!氷皇と会話してるなんて!」

 厚木晃平は、急に興奮しだす。まるで女神でも降臨したかのような騒ぎっぷりだ。

 「俺!一年F4厚木晃平といいます!晃平でいいです!」

 「そう」

 と吹雪はにこりとして笑う。本当に静かで淑やかだ。焔と居るときは、かなりペースを乱されているのだと言うことが、このとき解る鋭児だった。

 「で……アイツ……いや、焔先輩は?」

 「焔は、一週間の昼ご飯を賭けて、昼食バトルの真っ最中よ」

 吹雪は上品でにこやかな笑顔を崩さない。焔に関してはどういう状況になっているのか、何となく予想がつく鋭児だった。そして、そう言う事を想像し、確信出来る自分が少し怖くなった。

 「厚木君……だっけ。」

 「あ!はい!晃平です!」

 晃平は、相当緊張している。確かに吹雪ほどの美人に声を掛けられたなら、大抵の男は緊張してしまうだろう。特に外見からして普通に思える晃平ならば、吹雪という女性はあこがれの先輩といっても、過言ではないだろう。

 「始業式の事件しってるわよね?」

 吹雪がにこやかな中にも、一つ曇った陰を見せる。

 「あ……はい」

 「鋭児君もそうだけど、この子も事件の当事者なの。もし鼬鼠二年とこの子達が、接触しそうになったら、すぐに私か焔にまで、知らせてくれるかな」

 「はい、解りました」

 吹雪と会話が出来たことによほど満足したのだろう。晃平は今にも天に昇りそうな、至福の表情をしている。

 「でも、水系のクラスって、ウチの校舎と反対なのに、よく黒野が、階段を登っていくとか解りましたよね?」

 と言われると、静音は顔を真っ赤にしてしまう。そう言えば先ほどから気になっていたのだが、静音は後ろに手を回したまま、その姿勢を崩さない。と、吹雪がさっと、静音が後ろに隠している物を取り上げるのだった。取り上げられた静音は、高い位置に釣り上げられた弁当を取り返そうと、オタオタとし始める。

 「鋭児君にお礼だって。ウチには食堂があるんだから、もう食べてたらどうするの?って言ったんだけど」

 吹雪は取り上げた弁当を、右へ左へ振り回して、静音で遊び始めるのだった。

 「へー……」

 と晃平が、可成り勘ぐったよこしまな視線を、鋭児に送りつけてくるのだった。その間も静音は、もじもじとして、全く言葉に出来ない様子である。

 「鋭児君凄かったです。無茶だったかもしれないけど、鼬鼠君に向かっていった時の鋭児君は、凄かったなって……」

 「ふふ。幸せ者♪」

 吹雪は、鋭児の前に静音の弁当をぶら下げる。鋭児としてはそれを受け取らないわけにはいかなかった。受け取らないことは静音の行為そのものを無駄にしてしまうからだ。吹雪は冷やかしているが、全くイヤミがない。まるでパウダースノーのようにサラリとして、すっきりしている。

 それが、吹雪の良いところだった。

 「ちゃんと洗って返します。静音先輩」

 鋭児はむず痒かった。環境の変化なのだろうか、妙に素直な自分がそこにいることに気がつく。多分それは上辺だけの興味で接する事のない吹雪達が、鋭児の心を無理矢理こじ開けないせいだろう。有りの儘を見てくれている、温かい目だ。

 そう言う意味では、晃平の目もそう言う目に見える。

 「じゃ、また明日ここでね」

 全く会話が出来なくなってしまっている静音に変わって、吹雪が代弁をするように、翌日の段取りまで仕切ってゆく。

 「はい」

 教室にいるとき、そしてボンヤリ空を眺めながらカレーパンを食べているときの鋭児と、吹雪や静音と会話しているときの表情は、全く違っていた。戸惑っているが、素直な部分の彼が見え隠れしている。少なくともも晃平にはそう見えた。

 「なんだ、この女誑し!」

 晃平がヘッドロックを掛けて、鋭児の頭を殴り始める。

 「ってぇな止めろよ!」

 鋭児は晃平を引き離す。鋭児の力が相当強いのか、晃平は少し弾き飛ばされるように、転げた。

 「わ……ワリィ、けど、あんまこう言うの苦手なんだ。それに……」

  鋭児は自分の右の額を押さえる。確かにそこには訳ありの大怪我の後がある。

 「スマン……、今の黒野ってなんか、距離感ゼロだったから……悪かった」

 晃平は素直に自分の非を認めた。そういう風に謝られてしまうと。鋭児は何も言えなくなった。少しだけ緊張した空気で、晃平を近寄らせない鋭児だった。

 「はぁ、入学して数日で、吹雪先輩と会話して、あんな美人に弁当もらうって、黒野って大物になるんじゃ?」

 と、距離を感じつつ、様子を見つつ、晃平は鋭児の方を見ると、鋭児は何も言わず、弁当の包みを開けて、それを黙々と食べ始めるのだった。そういう鋭児には律儀さがある。

 「はぁいいな。ウチの焔先輩も活発でいいけど……吹雪先輩とか、和服が似合いそうでさ」

 と、晃平は勝手に喋り続ける。だが鋭児は、静音の弁当を黙々と食べている。

 「はぁ、じゃ昼は体育着で、Fクラスの第1グランド集合な。マジで悪かったな」

 「いや。気ぃ使ってくれて、サンキューな」

 立ち上がりながら鋭児の様子を気にしている晃平の方を見ることはなかったが、それは、冷淡でも平淡でもなく、鋭児なりに精一杯社交的に接したつもりだった。

 「こう見えても、結構人望有るんだぜ。困ったら相談してくれよ」

 「ああ、多分色々そうなると思う」

 それは鋭児の正直な気持ちだった。おそらく晃平が、場所や服装の指示をしてくれなければ、昼一番に誰もいない教室に戻ってしまう所だったに違いない。

 「着替えは自分の部屋で済ませてくるんだぞ」

 そう言って晃平は、鋭児に手を振って、先に戻って行く。

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