第1章 第1部 第6話

 緊張感のない焔のスリッパの音だけが、ズルペタと絨毯の上を擦ってゆくが、途中で止まった。

 「悪かった!取り消す!辛い事が多いほど、ちょっとしたイイことでも、人一倍嬉しいかもだしな。解るよ、そういうの」

 焔の言葉は一瞬だけ軽いように聞こえた鋭児だったが、彼女の言葉尻は、少し噛みしめた人生観が表れていた。芝居が上手でない限り、そのシンミリとした言葉尻は、少々表現できそうにないほどの実感がこもっていたのだ。

 鋭児は、ドアノブから手を離した。

 焔が開かないというのなら、彼女はまだ、鋭児をここから出す気がないのだろう。先ほど彼女もいったのだが、鋭児の新しい制服がこの部屋に届くらしい。

 「ん~美味い美味い!吹雪のヤツは、朝から焼き肉なんて食えるか!って怒るんだぜぇ?付き合いわりぃよなぁ?」

 語尾を上げて鋭児に話しかける。何らかの同意を求めているのがはっきりと解る。だが、そうやって肉を頬張っている焔は何とも幸せそうだ。

 「アンタほどキレイなら、どんな男でも付き合ってくれんじゃねぇの?朝の焼き肉くらい……」

 「お前それは、俺が目当てで、焼き肉の味なんてどっちでもいいってやつだろ?肉がもったいねぇよ。0点だ0点!」

 何か焔の視点がずれているような気がする鋭児だった。

 「でも、今のセリフは80点……肉が美味くなる」

 「どっちなんだよ……」

 自分が褒められている事に関しては、なんの謙遜もなく受け入れる焔だった。一見した彼女のキャラクターから考えて、否定するようなタイプには見えなかったが、此処までアッサリ受け入れられると、溜息をつきたくなる。

 「今日は!鼬鼠二年筆頭にぼろ負けした、一年坊に景気付けしてやるための焼き肉なんだ!喜べよ」

 焔は行儀悪く、今にも鋭児の鼻先を摘んでしまいそうなほどの距離で、その言葉を強調してしながら、箸でつつく。

 焔の元気の良さは見ていて楽しいものがある。だがそれでも鋭児が活気づいた表情を見せる事はなかった。それに鼬鼠の名前に反応することもなかったし、負けという言葉にも、闘争心を燃やすような雰囲気もない。

 「んだよ。いつまでも不景気な面しやがってよ。そういや、吹雪んとこの、あの女子生徒、お前に感謝してたぜ?吹雪もお前を高く買ってたなぁ。お前、年上の女に好かれるタイプか?」

 今度は、鋭児を囃し立ててみるが、鋭児は焼き肉を少しずつ口に運ぶだけで、焔のそれには反応を見せなかった。だが一つだけ、ふっと安心したような笑みを零した。

 焔はそんな鋭児の緩んだ表情を逃さない。

 「良かったじゃねぇかよ」

 「あん?」

 「お前が生きてるから、そうやって喜ぶヤツが一人いる。助けられた奴も喜べるんだぜ」

 焔は箸を握ったまま、その拳をゆっくりと、鋭児の前につきだしてきた。鋭児はすこし躊躇した様子を見せながら、それでもその拳に自分の拳を軽く当てた。

 焔の笑った顔が眩しすぎて、正面を向くことが出来なかった。だが正面からこれほど、暑苦しい言葉を平然と投げかけてくる女は、そう滅多にいない。彼女の心の熱さを感じて、つい調子に乗せられてしまう鋭児だった。

 「うっし。食べるか!」

 その拳から、焔が持っている元気が伝わって来るような気がした鋭児は、急にその気になる。いや、その気にさせられてしまったのだろう。

 「お?エンジン掛かるのオセぇよ!って、もう肉がねぇわ」

 空っぽになったトレイを見せる焔だった。

 どれだけ食べる女なのだろうと、鋭児は一瞬引き気味になった。それにキャミソール姿で、男の前をウロウロするのも問題行動だ。最も彼女を強引に襲ったところで、返り討ちに遭うのは目に見えている。その挑戦を受けることの出来る男が、果たしてこの学園にいるのか?

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