第1章 第1部 第5話

 会話のためか?鋭児は少し落ち着いた。いや、落ち着くように心がけたと言った方が、的確だったかもしれない。怪我を負わされた事は思い出す。ぼんやりとメガネの男性の顔を思い出し、神村という男の言葉を、微かに思い出す。保健室というキーワードも思い出した。

 「俺の怪我って……、あの保険医が治したのか?」

 「ああ。神村は優秀だからな……、怪我で困った時はまず、アイツって決めてる。あと三十分……話はそれからにしようぜ……」

 焔はそう言って。もう一度深く呼吸をしたかと思えば、再び眠りについてしまう。

 鋭児にとって、何ともいえない心地よい重さだ。体温も心地よいし、女性らしい香りも鼻を擽る。彼女は安心しきった何とも無防備な寝顔を見せる。

 何故焔がそれほど無防備で居られるのか、冷静になって考えてみれば解ることだったのだ。あの鼬鼠という男が、勝負をしないうちに負けを認めて背中を向けてしまうほどの女に手を出したとすれば、その後に地獄を見るのはどちらなのかという、単純な問題だったのだ。もちろんそれは、鋭児の推察であるが、言い換えれば、少々バカにされているとも言える。

 焔は、その根性があるのか?と、無言のウチに鋭児に聞いているのだ。完全に挑発である。と、鋭児は捉える。

 目が覚めた鋭児は、改めてその部屋の広さに気がついた。今居る部屋ですら四十畳はあるだろうし、ほかにもいくつか部屋がありそうな雰囲気だ。全体的に赤っぽい装飾で、ベッド横の絨毯には六芒星が描かれており、何気にあちこちに術式が施されている。

 

 やがて焔も目を覚まし、朝食タイムとなる。キッチンは落ち着いたライトブラウンでまとめられており、さっぱりとしている。

 

 「朝から、焼き肉……って」

 鋭児は、ジュウジュウと焼かれ始める肉達を目の前に、あるはずの食欲が、少々萎えた。

 「バーカ。お前出血凄かったんだぞ。俺がどれだけ『気』を送ってやったと思ってんだ。部屋に戻ってからも、ずいぶんお前を満たしてやったんだからな?腹減るんだぞ」

 焔は、ピンクのキャミソール姿のままで、ばくばくとホットプレートで焼かれた肉を、タレにつけては、口に放り込み始める

 「満たす……って……」

 少々猥褻がかった言い回しに、鋭児は白い目をして引いてしまうが、自分が彼女のベッドの上で、しかもあんな体勢であった理由が何となく理解できた。

 「お前……何者なんだ?」

 突然、焼き肉でだらしなく膨れた頬とは対照的に、眉毛が少しつり上がり、眉間に少々皺が寄り、目を閉じて、箸を宙でウロウロさせながら、集中力のない真面目さを見せる焔だった。

 「俺……『普通の学生』だよ。昨日までは少なくとも、そういう世界に居たつもりだった」

 「カードに、何にも履歴がねぇ。診断結果もねぇ。一年のF4組だとしても、奇妙過ぎるしよ。かといって潜りでもねぇ。転入生だとしてもだ。あるのはお前に適正があるってことだけ……」

 「しらねぇ。道でへたばった爺さんを助けたら、ここの入学薦められたんだよ。俺、受験失敗してるし……」

 鋭児も、冴えないぶっきらぼうな声で、返事を返し、匂いにつられはじめ、少しずつ焼き肉を口にしはじめる。

 「ジジイで、ここねじ込むっつったら……学長……か。にしても、お前死ぬところだったんだぞ?ここがどこだかも聞いてねぇのか?」

 そう説教し始める焔の箸は、相変わらず落ち着きなく宙を動いているし、口の中も絶えずなにかものが入っている。

 「ねぇよ。始業式直後、中央闘技場とかいう場所で、バトルしてた……、ああ、アレ、アンタだったのか。それ見て、こんな漫画みたいな、場所あり得るか!って、消化不良起こしてたんだよ」

 鋭児が座り込んで、消化不良を起こしていた理由とは、実は焔と吹雪が始業式早々に、闘技場でバトルを繰り広げていた光景を見てしまったからだ。

 それは凄まじいものだった。拳が炎で燃えさかったり、氷が地面を裂くように走り渡ったり。無差別格闘技の選手よりも派手で豪快なキックやパンチの応酬が繰り広げられ、体操選手よりも華麗な宙返りなを繰り返すなど、およそ人間とは思えないような戦いだった。

 「それに加えて、いきなり鼬鼠……か、まぁ間が悪かったな。だけど、ここが一触即発がやべぇってことは、解るだろ?お前、能力開花させてねぇし、知らんぷりしときゃよかったんだよ」

 焔はまるで、触らぬ神に祟りなしと、言っているように聞こえる。もっともその相手を追い払ってしまう力を持っているのは、焔である。

 「んなの……出来ねぇだろ」

 鋭児は、少し考えを巡らせるようにしてから、そう言うのだった。

 「なんでだよ……」

 今度はそう言いつつ、不機嫌そうに肉を焼きながら、頃合いの肉を拾い上げていく焔だった。

 「助けてほしい時に、誰かいねぇとか、誰か来たとおもったら、ソイツが逃げ帰るとか……、そんなことあったら、あの子これから何信じて生きていけるんだよ……」

 俯いた鋭児は少し思い詰めた表情をしていた。

 「100点だな。そりゃ」

 「?」

 「100点だから、もっと肉食え!」

 焔は目を輝かせて、自分の摘んだ肉を鋭児の口元に運ぶ。格好は色気があるのだが、行動がなんとも伴わない。

 「ああ、うん」

 気圧された鋭児は、素で返事をしながらも、小皿でその肉を受け取る。

 「けど、目の前で死んじまったら0点だろ……」

 と、今度はしみじみとして、肉を頬張り始める焔だった。しかし言っていることは解る。

 「逃げて後悔したくねぇんだよ」

 「そうだけどよ。お前、最善尽くしてねぇよ。なんか……俺はそう思った」

 焔のその言葉に、鋭児は言葉を詰まらせた。恐らく何かを言っても彼女は直感的ではあるが、鋭児ですらはっきりと理解していない部分で、的を射た言葉を投げてくるのだろう。

 「日が浅い今なら、お前……能力も見出してねぇし。記憶消されても平気じゃん?忘れても、学園所有の一般校に編入させてもらえるぜ。学費も公立並らしいしよ。まぁ確かに、ここは、それ以上にタダだけどな」

 焔は口をもぐもぐとさせながら、一つの方向性を口にしてみる。

 「目の前で起きたこと、都合良く忘れて生きろってのかよ……、旨かった、ご馳走様」

 鋭児は指先だけで、ピシャリとお箸をテーブルの上に置き、すっと立ち上がる。俯き加減で肩も落ちているし、明らかに雰囲気が前向きではない。

 人間の記憶なんて、そんな都合良く塗り替えられて良いはずがない。もしそんなことが当たり前に出来て、それを当然として受け入れられてしまうのなら、人間は悩むと言うことをしない。悩むことが素晴らしい人生だとは思わないが、そんな逃げ方をするのは、ちょっと違うと鋭児は思った。

 「おい!まてよ!」

 焔はテーブルに着いたまま、鋭児を追いかけることもせずに、お箸を宙で振り回していた。

 鋭児は、広いマンションとしか思えないようなその部屋を手探りで歩くように、玄関を探し、それらしき扉に手を掛ける。冷静になって考えれば上半身は、包帯がグルグル巻きで、それ以上の着衣はないし、肝心なカードも手にしていない。この部屋から出て行く準備など、何一つ出来ている状況ではなかった。

 それにしても、最後の焔の言葉は気に入らなかった。

 しかし、ドアノブを捻ってみても、鍵らしきものを開けてみても、全く扉が開こうとしないのだ。

 「あれ……」

 「まぁ待てよ。許可してないヤツがノブ捻っても開かねぇよ。んなことも聞いてねぇのか?」

 焔は箸を持ったままで、鋭児の後ろに立ち、少し学園の事を知らなさすぎる彼に対して、溜息をつくのだった。だが、見放した雰囲気はない。

 「しらねぇ……んなの」

 どうやら、苛つく話からも自由に逃げられないらしい。鋭児の目はどこを見ているのか解らなかったが、とりあえずは開く事の出来ない扉だけを、苛立った視線でジロリと睨み付けた。

 「んだよ。学長何がしたいんだ?とりあえず、朝飯食ってからにしろよ。もうすぐしたら、購買部がお前の制服届けに来るからよ」

 焔は、先にダイニングルームへと向かってゆくのだった。

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