第7話 霧の日には温かいスープを
その日は朝から霧が深かった。私がいる牢の部屋でも、窓の向こうは真っ白でなにも見えない。山の上は天候が悪くなってくると寒くなる。この部屋は格子になっていてドアを閉められないから、寒いと結構つらい。
私は、服の上にさらに布を巻き、温かいスープを作っていた。沢山は作れないけれど、誰か来たら振る舞える。
そのくらいに考えていたが、その日は誰も牢の向こうに来ない。
「みんな霧に飲み込まれちゃったのかな」
思わず呟き格子の外を眺めると、本当にそうなってしまったように思え、私はブルブルと首を振った。
誰か来てきてくれればいいのに。賑やかしの男たちが来てくれたら、この沈んだ気持ちもなんとかなる気がする。
しかし今日はそれぞれの家に閉じこもっているのか、だれも格子の前を通らない。
スープが出来上がって、やることもなくなってしまった頃、ようやく足音が近づいてきた。高い背にフードを被った姿は、もうすっかりここでは見慣れているレオンだ。
「冷えるな」
「そりゃ寒いに決まっているでしょう」
やっと誰かと会話ができたことにホッとした。それが誰でもなくレオンだったことに、何故かさらにホッとする。
レオンは深く息を吐くと、フードを外し格子の向こう側に座り込んだ。石床でも気にせず座り込むと、俯く金の髪だけしか見えなくなり、動かなくなった。
「ちょっと、レオン? そんなところで寒いよ」
「……少し休むだけだ」
そう答え、レオンはまた静かになってしまった。
こんなところで寝ちゃったのかな。レオンがここまで疲れてやって来るなんて珍しい。男たちも来ないし、なにかあったのだろうか。
「パンとスープがあるから、食べない?」
私は作っておいたスープを温めると、パンを添えて格子のそばに置いた。
温めたスープのいい匂いが届いたのか、レオンがゆっくりと顔を上げたので、私は手が伸ばせる限り目一杯に器をレオンの方に差し出す。
レオンは器を受け取り、座り込んだまま食事を始めた。ゆっくりとした動きでスープを口に運び、パンもちぎって食べる。
しばらくそんなレオンを眺めていたが、同じパンとスープを用意した。格子の近くに布を敷いて私もそこに座る。床に座って食べるのはないかなと思ったけれども、そこで私も食事を始めた。
作ったパンや料理を味見にくる男はいたけれど、こんな風に誰かと同じものを食べるというのは久しぶりだ。
日々過ごし暮らすことは出来ても、その日は寒く私は寂しかったのだろう。レオンことはまだよくわからないけれど、彼もそうだったのかもしれない。
「おかわり、いる?」
「ああ、温かくて美味い」
誰か来ると思っていたから、スープは余分に作ってある。受け取った器におかわりのスープを入れて差し出す。
今くらいはここから出してと言えばよかったのに、私たちは格子を挟んだこちらと向こう側に座って食事を続けた。
「美味い豆だな、誰かが持ってきたのか?」
「うん、ええと、あの人だよ」
名前を答えようとして私は止まった。なんという名前の人だっけ?
どうしようわからない。こんなに美味しい豆をくれた人なのに、名前を知らないなんて私ったら失礼だ。
私はへたと眉を下げて、レオンのほうを見た。
「いつも野菜とかくれる、すごく大柄でもない人です」
「だからそれは誰だ?」
レオンも食べる手を止め、眉を寄せた。名前が出てこない私と一緒に考えてくれるらしいから、私も覚えていることをなんとか彼に話す。
「昨日は深緑の服を着て、これはいい豆だろお、って言っていたの」
「……真似のつもりか? 全然わからない」
私なりの精一杯だったけれど、確かに微塵も似ていない。深緑だって珍しい服の色じゃないからなんら手助けにならなかった。
それでも私は必死だ。本人に豆のお礼を言うためにも、名前は知らなければならない。
「いつも、あっちの下の道から来るのよ」
「ここに来るなら、大抵はそちらの下から来るだろうな」
「そう、ですが……」
確かにここは集落でも上のほうだ。来てくれる人はほぼみんな、家がたくさんある下から道を上がってくる。
私のほうを見て考え込むレオンの眉間はぐっと寄っている。だけど、如何せん私もこれといった特徴が出てこない。試しにレオンのほうから心当たりの名前を出してくれる。
「野菜だろう。コーラルドか、それともハリスンか?」
「うーん、そう、かな?」
そう言われても、そのコーラルドさんもハリスンさんもどの人かさっぱりわかりませんっ。
というより気付いてしまった、私ったらレオン以外の人の名前を、まったく覚えていない。
これはよくないわ。どんなにパンやお料理で印象を良くしたって、名前を覚えなきゃ話にならない。
「ゴルドールさん、とかじゃない?」
「……そんな名前のやつここにはいない」
そうですよねー。次に来てくれたら絶対名前を聞こう。ここのところ交流のある人も増えている。みんな怒らず名前を教えてくれるといいのだけど……。
なにしろ複数人で来て話をすることがあまりない。目の前で会話してくれれば、呼びあっていたりして名前も察するのだけど、そういったことがないのだ。最初の頃は数人で来て囃し立てたりなどされたが、その頃は怖くて名前どころじゃなかった。
名前、かなり重要な課題だわ。
私は神妙な表情で食事を再開した。
レオンも誰が豆を持ってきたのか聞き出すのは諦めたらしい。私が名前を思い出せないのではなく、そもそも知らないとわかったからだ。またスープを食べ始め、しばらくして器を傾けるとこちらへ突き出した。
「もう一杯くれ」
「え? 足りないの!」
「もう残っていないのか?」
「あるから待っていて」
明日もじゅうぶん食べられると思っていたスープだけど、もう鍋にはあまりない。それでも私は残ったスープと、それから余分にあったパンもレオンに出してあげた。
その日、私は初めてレオンと食事をした。
格子を挟みテーブルでもなく床に座って食べる食事はなんだか変だったけれど。そんな風に話をしながら誰かと食事をするのは、本当に久しぶりのことだった。
「ごちそうさま、ありがとうエミリア」
「いえ、どういたしまして」
結局、結構多めに作ったスープはレオンに全部食べられてしまった。
食べ終えたレオンは、ぽつりと話してくれた。
「今日は」
「うん?」
「霧のおかげで助かった」
「そう、なんだ」
レオンが話してくれたのはそれだけ。私はその理由をレオンに聞かなかった。
ひょっとしたら霧に紛れて悪いことをしたのかもしれない。そうは思ったけれど、格子越しにそっとしておくことしか出来なかった。
食事が済むと、レオンは座ったままの姿勢でまた動かなくなってしまった。今度は本当に寝てしまったらしい。俯いた金の髪は、微かな寝息に合わせて揺れ始めた。
誰か来ちゃったら困るな。
そう思ったけれど、牢の部屋から出られない私にはどうにもできない。毛布を掛けてあげることすら出来ないことを、なんだかもどかしく思いながら、眠っているレオンを眺めた。
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