足音

尾手メシ

第1話

 扉が開いて、圭吾は電車を降りた。クーラーの効いた車内から出たことで、むっとした暑い空気が押し寄せる。八月も間近に迫った今日この頃、夜の九時を回っていても暑さは衰えない。クーラーで冷やされていた体からは途端に汗が吹き出てきた。

 汗で張り付いてくるシャツの不快感に顔を顰めながら、圭吾は改札機にICカードをかざして改札を通り、ホームと改札しかない小さい駅から出てきた。駅の斜め向かいにあるコンビニエンスストアにちらりと視線をやるも、そちらとは逆方向に向かって圭吾は歩き出した。


 駅から一分ほども歩けば、もう住宅街だ。日中はそこそこ賑やかだが、今はすっかりと静まり返っている。そこを街灯の明かりを頼りに、圭吾は下宿先のアパートへ向かって歩いていた。圭吾の他に歩いているものは無く、静かな住宅街に圭吾の足音だけが響いている。

 二年前、大学への進学でこの町に越してきた当初は、この暗い慣れない夜道が苦手だった。駅からアパートまでは歩いて一五分ほどなのだが、少しでも早く帰り着きたくて小走りで帰ったこともある。思えば、暗闇に対する心細さだけではなく、初めての一人暮らしに対する心細さもあったのだろう。二年経った今では、暗い帰り道はすっかり日常の一部になってしまった。暗闇への心細さは無く、ただただ熱帯夜になりそうな蒸し暑さへの不快感があるばかりだ。


 住宅街を五分ほど歩いた頃、アパートへの帰り道を半分ほど過ぎた頃のことである。圭吾はふとコーラが飲みたくなった。汗をかいているからだろうか、本当に唐突にコーラが飲みたくなった。アパートにコーラの買い置きなどはないため、コーラを飲みたければどこかで買わなければいけない。

 駅前のコンビニまで戻ろうか。一瞬そんな考えが圭吾の頭を過ぎるが、すぐに否定した。この蒸し暑い中、また駅前まで戻るのは億劫だ。ではどうするのか。コーラは諦めようかとも思うが、飲めないとなると益々飲みたくなるのが人情だ。やはり駅前まで引き返すしかないだろうか。そう考えていた圭吾は、そういえば、と思い出した。

 帰り道から少し逸れた所に、小さな公園がある。滑り台とブランコ、小さな砂場があるだけの公園だが、確か一台自動販売機が据えられていたはずだ。あそこならばコーラが買えるだろうし、駅前まで戻るよりもはるかに手間は掛からない。いつもは通り過ぎるだけだった角を曲がって、圭吾は公園へ足を向けた。


 辿り着いた公園も、やはり静まり返っていた。砂場のそばに建つ街灯の明かりに、遊具が闇の中にぼうっと浮かび上がっている。目的の自販機は滑り台の隣、正面を公園の中に向けて設置されていた。入口から公園に入って自販機の前に立つ。目的の五〇〇mlのコーラのペットボトルはちゃんとある。

 肩から斜め掛けにした鞄から財布を取り出して小銭を投入してボタンを押した。ピッという電子音の後にガコンっとペットボトルが落ちてくる。それを自販機から取り出して、キャップを捻った。プシュッという音の後に甘い香りが広がった。口をつけてコーラを飲み込むと、喉を通る炭酸の刺激が心地良い。

 三口ほど飲んだところでキャップを閉めた。残りはアパートでゆっくり飲もうと、コーラを鞄にしまう。圭吾は公園を出て、アパートへ向けて歩き出した。


 公園を出ていくらも行かない時のことである。自分の後ろから音がするのに気がついた。


 ひた、ひた、ひた。


 何の音だろうかと立ち止まって後ろを振り向くが、街灯の明かりが届く範囲には圭吾以外には誰もいない。気のせいだろうかと歩き出すと、また音が聞こえてくる。


 ひた、ひた、ひた。


 再び立ち止まって振り向くが、やっぱり圭吾以外には誰もいなかった。しかし、歩き出すと音が聞こえてくる。


 ひた、ひた、ひた。


 足音のようだ、と圭吾は思った。それも靴を履いた足音ではない。汗をかいた素足でアスファルトの上を歩いているような、湿った足音である。その足音が圭吾を追いかけるようについて来る。

 今度は足を止めずにちらりと後ろを振り向いた。やっぱり圭吾以外いない住宅街に足音だけが耳に届く。

 姿の見えない何かが自分の後をついて来ている。そう思うと、途端に薄気味悪くなった。暑さではない汗が背中を冷たく流れる。我知らず足が早くなる。

 足早に進む圭吾の後ろを、ひたひたと足音だけがついて来る。思いきって走ってアパートに駆け込もうかとも考えたが、もし足音を振りきれなかったら事だ。アパートまでついて来られてしまえば、いよいよ進退窮まってしまう。

 どうしようか、と圭吾が迷っていた時だった。


 ひたひたひたひた。


それまで一定間隔を空けてついて来ていた足音が唐突に早くなった。圭吾と足音の距離が近くなる。何かが近づいて来ていると思うと、もう堪らなかった。恐怖に追い立てられるように、圭吾は走り出した。そんな圭吾を追いかけるように足音も早くなる。


 ひたたたたたたたたた。


 圭吾と足音の距離がみるみる縮まっていく。必死に走る圭吾のすぐ真後ろにまで足音は迫ってきていた。駄目だ、追いつかれる。暗い絶望が圭吾の背中に触れようとしている。もしあの足音に追いつかれてしまえばどうなるのだろうか。殺されてしまうのではないか。そんな恐怖に包まれる圭吾の横を、しかし足音は駆け抜けて行った。圭吾を追い抜いた足音は、そのまま住宅街の闇の中に駆けて行ってしまった。

 呆然と、圭吾は立ち止まった。足音はもう聞こえず、圭吾の荒い息遣いだけが住宅街に響いている。よく分からないが、どうやら助かったようだ。力が抜けて、思わずその場にしゃがみ込んでしまった。


「はあ」


大きく息を吐いた、その時である。突然背中に重みが掛かった。耳元に湿った息がかかる。


「また遊ぼうね」


耳元で、声がした。甲高い、まだ声変わりを終えていない男の子の声。身を固くする圭吾を余所に、背中から重さが消えると、


「ははははははは」


男の子の声は住宅街を駆け抜けて行った。やはり姿は見えなかった。しゃがみ込んだままの圭吾の背中に、子供特有の少し高い体温だけが残っていた。


 アパートに逃げ帰った圭吾は、部屋の電気を点けたままでガタガタ震えながら一晩を過ごした。朝になり周囲が賑やかになってきたことで、ようやくカーテンを開けて窓の外を見る。そこには、出勤する会社員や登校する子供たち。何てことはない、平和な日常があった。それを見て、今度こそ助かったのだと実感したのだった。


 圭吾は大学在学中の四年間をその町で過ごした。あれから一月ほどはビクビクと怯えていたが、結局、それ以後足音が圭吾の前に現れることはなかった。あれは現実だったのかと思うこともあるが、実は、次の日に気付いたことがある。鞄に入れていたコーラのペットボトルが無くなっていた。どこかで落としたのかもしれないが、圭吾には、あの足音の男の子が持って行ったとしか思えなかった。


 大学卒業と就職を機にあの町を離れてしばらく経ち、足音のことなどすっかりと忘れていた頃のことである。夕食の席で、六歳になる息子が機嫌良く話してくれた。


「パパ、今日新しいお友達と遊んだよ」


「へぇ、どんな子?」


圭吾の質問に、息子はあっけらかんと答えた。


「分かんない。その子、足音がするだけなの。その子と駆けっこしたんだよ」


「そ、そう。良かったね」


にこにこと話す息子とは対象的に、圭吾の顔は引き攣っていた。忘れていた恐怖が背中を戦慄かせる。そんな圭吾を妻は不思議そうに見ていた。

 そんな両親の様子に頓着せずに、息子は


「あっ、そうだ」


そう言って、ポケットに手を突っ込む。何かをポケットから取り出すと、それを圭吾に差し出してきた。


「はいこれ。あの子がパパにって」


そう言って渡されたのは、一六〇円分の硬貨だった。案外、幽霊というのは義理堅いらしい。

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