『甘い香りの部屋』




 夢から追い出されると、ほのかな甘い香りが鼻腔をくすぐった。


 いつもの天井ではない。

 神無月の両親に住まわせてもらっている洋室とは違う、ずっと和室らしい部屋。



 光は落ちて暗いが、隣の部屋の明かりが襖の隙間から射し込んでいる。

 物音が聞こえるし、どうやら誰かいるらしい。



 酷く重い身体を起こして立ち上がり襖の隙間に手をかけようとしたところで、全身が包帯まみれになっていることに気がついた。

 どうやら、誰かが治療してくれたらしい。




「……煌?」




 隣の部屋から、オレの名前を呼ぶ聞き慣れた声。

 襖を開くと、そこには床にブルーシートを敷いて絵を描く、野崎の姿があった。




「目を覚ましたね」


「……よう、お前がオレを――――、」


「待ちなよ、その前にはっきりさせることがある。 ?」


「えっ……?」




 一瞬、聞いてきている意味が分からなかったが、彼女の睨みつけるような目を見て、何を懸念しているのかはすぐに把握した。


 記憶が正しければ……、オレはおかしくなっていた。

 何かに取り憑かれていた、と言えれば良かったのだが、あれはオレ自身であったと確信できる程の、心臓から額にかけてを揺蕩たゆたう快楽の残滓ざんし……、実感がある。


 オレはあの瞬間、本当に何もかもがどうでも良くなっていた。

 ありとあらゆる常識、社会性判断力が完全に欠落していて、ただただ溢れ出る力に溺れて……、がっていた。




「……オレは、オレだよ。 お前の"友達"で、クラスメイトで、それで……、『いつもの場所』の仲間だ」


「……分からない」




 野崎は筆を置いて、




「あの時の君は狂っていた。 殺意に塗れて、毒気に溢れていた。 今の君にそれは感じられないけれど……、まだあの姿が記憶に焼き付いて離れない。 何があった? 何がどうしてあんなことをした? どうして……、私を殺そうとした?」


「悪い。 うっすら記憶も実感もあるんだが、正直……、オレもどうしてか分かんねえんだ。 身体が勝手に動いて、普段じゃ思いもしねえことばっか口走ってさ。 止めてくれて、ありがとうな。 ……ごめん」


「……どうせそんなことだと思っていた。 君にあんなことが出来るなんて思えないからね」




 野崎は立ち上がると、半透明なビニール素材のエプロンを脱いで椅子の上に置いた。


 見慣れた男子生徒用の白シャツ……。なんでこいつ、家でもこの服なんだよ。部屋着とか着ねえのか……?




「君は鏡を見るべきだ。 私が制服を家でも着ていることに違和感を覚えているみたいだけどね、君の方がずっとおかしな見た目をしている」




 言われるがまま、近くにあった角の割れた姿見で自分を確認した。

 ひどい寝癖でもついているのだろうかと思っていたが、斜め上の現実がそこには映っていた。




「はっ……? なんだよ、この髪…………」




 頭頂部、生え際が真っ白になっていた。

 カラーやブリーチで色を抜くようなことをした覚えはないし、触った感じからして塗料が髪に塗りついているだけというワケでもないらしい。




「君を家に担ぎ込んだ時はもっと酷かった。 髪は全部真っ白で、目のクマもドス黒いペンキを被ったみたいになっていたよ。 数時間かけて元に戻っていったけどね……」


「てか、オレの制服シャツ……。 図書室で血だらけだったのに、ほとんど汚れてねえ……。 お前のスペア貸してくれたのか?」


「そんなわけないだろう。 大体、サイズが合わない。 ……カフカだよ、あの図書委員が『夢物語ラブクラフト』で元通りにした。 私たちがぐちゃぐちゃにした図書室も全てね。 確か……、『ハリーポッターと不死鳥の騎士団(2003)』の修復魔法レパアロ? だったかな」


「そうか、じゃあオレの身体もそいつの効力で治してくれたんだな」


「いいや……、それについてはまだ疑問が残っていてね」




 野崎が部屋の角から引っ張り出してきたのは黒いゴミ袋。中には、真っ赤に染まった包帯や布が山ほど放り込まれていた。




「彼女の修復魔法レパアロは物品を元の状態に戻す魔法らしくてね、人体には作用しないものらしい。 だから君の傷を治したのは私、いや、実際のところは本当に私と言えるのかも分からない……。 あの時、私は本気で君を殺し返すつもりで『オルナンの埋葬』を振るった。 そして実際、殺した。 殺したはずだった。 全身の血流が崩壊し死んだはずの君に対して、今度は崩壊の真逆……、血液の流出を防ぎ正常な血流を維持する働きになるよう、蘇生の『爆弾作りベータテスト』を使用した。 人体は30%以上の血液を失うと生命の危険、重大な障害の残る可能性がある。 あの状況で君の出血を抑えたところで、正直なところ焼け石に水のはずだった。 ……しかし、蘇生は成された。 起きるはずのない奇跡が起きたのさ」




 夢の中の男が言っていた。

 ADAMSアダムスの接続、太宰治の能力による死の回避がどうとかって……。


 きっと、それが関係しているんだ。




「あれは蘇生ってより、引きちぎれた蜥蜴トカゲの尻尾が急速で再生するみたいな……、自然治癒に近い異常だった。 全身の包帯を取って見れば分かるだろうけれど、既にほとんどの傷口が塞がっている。 本当に君って奴は、不思議な男だよ。 理解不能だ、全く」


理解不能わかんねえって点じゃ、もういっこ聞きてえことがある。 カフカの使ってた顕現アナザーってやつ……、あれ、お前も使えんのか?」


「いいや、私には無理だ。 無理どころか、見たことも聞いたこともなかった。 権能の、あんなおぞましい使い道はね……。 どうやら『少数派ルサンチマン』の上層部には、下の者まで情報が落としていない秘密があるらしい。 あんなものを見てしまった以上、私は上層うえに対して不信感を感じている。 私たちの願いを叶えるとのたまってはいるが、いざとなれば秘匿していた力を使って有耶無耶うやむやにしようとしているのではないか、強力で押さえつけようとしているのではないか、とね」




 ……野崎からしたら、そう考えるのも仕方がないのだろう。

 テロリスト集団の内情なんて想像できないが、話を聞いてる限りじゃ、そこまで統率がとれているとは思えない。


 ここまでの規模の事件を起こせるわけだし、きっと中核となるメンバー達はラヴェンダーのような狂信徒たちで構成されてはいるのだろうが、全体で見れば一枚岩とは言い難い。

 そう考えると、『分派』ってのが出てくるのも当然と言える。




「……秘密裏に、情報を集める必要がある。 権能を知り、それでいてこちらの動きを『少数派ルサンチマン』に知られぬよう組織から隔離された者と協力する必要がある。 そう思わないかい?」


「オレ達だけで権能の界隈のこと調べるってことだよな? そりゃあ……、そんなこと出来んなら学校のやつらとか巻き込まねえように対策できるかもしんねえし、危なくねえならやってみてえけど……、きっと今まで通り、ほとんどお前に頼りきりになっちまうぜ?」


「いいんだ、煌は自分の権能について知ってること、感じたこと、憶えてることを話してくれるだけでいい。 それに恐らく、最も重要な情報源になるのは君でも私でもなく、顕現アナザーを知っているあの図書委員と、『少数派こちら』では手に入らない情報を持っているであろう『分派』の奴らだろうね。 彼女らも引き入れる必要がある……」




 野崎は話しながら廊下へ出ていき、




「そのあたりのことについては私の方で話をつけてある。 今日はゆっくり休みなよ、風呂も冷蔵庫も好きに使ってくれ。 ……それと、君の妹が心配していた。 今日は放課後に遊び疲れたから私の家で泊まるらしい、もう寝てしまったよと伝えてある。 明日帰る時には口裏合わせておくれよ」


「……ありがとな、野崎」




 フン、と残して野崎の背中は暗闇に消えていった。


 部屋にはまだ、描きかけの絵がアルミ製のイーゼルに乗せて残されている。

 それが初めて見る、彼女の作品だった。




「……スゲー上手えな」




 精巧に描かれている、街中の風景画だ。

 中心には大きく西洋建築の美術館が置かれ、その手前に噴水と広場、催事を広報する街灯に提げられたフラッグ。未完成とは思えないほど美しい、白い絵だ。


 ただし、気になることがひとつ。

 晴天の下、フラッグまで出ていて、どこか華やかな雰囲気が描写されているというのに……、




「……人が描かれていない」




 オレはあまり芸術に詳しくない。

 絵を描いた経験も、記憶上はない。

 故に実際は分からないが、聞いた話によると絵を描く時は薄い色から先に塗っていくものらしいので、人間は後から描かれる予定なのかもしれないが……、それでも現状はかなり不気味な見た目となっている。

 窓外の白い月明かりが、その違和感を更に助長させる。


 部屋に薄く漂う甘い香りはこの絵の塗料、シンナーの香りだと鼻で分かった。

 しばらく、布団に戻っても眠れなかった。




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