第35話 ヒーロー天川乙姫との約束

 寒い、痛い、苦しい。


 切り落とされた右腕、吹き飛ばされた左足、貫かれた胸など、いたる所から血が溢れ出す。


 それと共に、体から熱が奪われていく事が分かる。


 この感覚は久しぶりだ。――そう、これは初めてじゃない。


 これは、あの日と同じだ。「死」という、おそらく何度味わおうと慣れない感覚だ。


 いつから降り出していたのだろうか?


 僕は葉の隙間から落ちてくる雨の雫を顔に受けながら、空を力なく見上げていた。

 

 あまりにも違った――。全てが、何もかもが、奴が上だった。


 この戦いは、最初から無謀だったのかな? だとしたら、そもそも始まりのあの時から僕は間違っていたのか?


 ふっ、いつも僕はこういう時になって色々と思い返してしまうんだな。この癖は、文字通り死なないと治らないのかもな。


 死か……。僕がこのまま死んだら、どうなるんだろう?


 クコ……あいつも、そうなるんだろうな。怒るかな? いや、きっと耳元でずっと小言を言うんだろうな。


 父さんと母さんは、きっと落ち込むだろうな。哲は……まあ、あいつは友達も多いし大丈夫だろう。


 このまま目をつぶってしまえば、どれだけ楽になれるだろう。


 この痛みから解放され、この恐怖から解放され、この全ての不安から解放され。そんな、誘惑に引っ張られそうになった時――。


「私との約束を破るの?」

 

 そこには、僕の予想外の人がいた――天川だ。


 森林の中、彼女は逆光を背に僕の足元に立っていた。その神々しい姿は、まるで絶体絶命のヒロインの前に現れたヒーローの様だ。


「天川、何でそんな所にいる? 言っただろ、僕には近づくなって。ここは危険だ」

「崇君。疑問を、疑問で返さないで。もう一度聞くわ。私との約束を破るの?」


 僕はその問いに、すぐに返答できなかった。それは、間違いなく僕の心が弱気になってたからだろう。


「あなた。一度、私が復讐を誓うほど怒らせたことを忘れたの? そんなあなたが、復讐出来ないくらいの怒りと悲しみを、もう一度私に背をわせる気?」

「天川それは……」

「いいの! もう何も言わないで!」


 天川は大袈裟に首を横に振って、手を横に広げて天を仰いだ。


「いや、滅茶苦茶質問してきたのそっちだし。まだ、何も言ってないし。というか、何でそんな演劇風?」


 雨降る天を仰いだ彼女は、再び僕に視線を向けた。


「あなたが死んだら。私も死ぬわ」

「えっ?」

「驚いた? 私ってこんなにめんどくさい女なの。でもね、あなたはそんな女と一生添い遂げなくちゃいけないのよ」


 彼女はきっと僕を奮い立たせに来たんだろうが、なんだろう……解放されたい不安がもう一つ増えた気がする。


「あら。まだその気にならないのね。じゃあ、あなた自身の話に変えるわ」


 天川は僕に向けて、人差し指を突き出した。


「崇君。今、自分の人生は辛い事が多くて、解放された方が楽だなんて思っているでしょ? でも、本当にそれでいいの?」


 いつものように、天川は僕の事を見透かした。


「どういう事だよ?」

「今、あなたが辛い事を手放して逃げたら、これから続くあなたの長い人生での楽しい事も手放す事になるって話よ」


 こんな僕に、この先楽しい事なんてあるのだろうか?


「あなたの気持ちよく分かるわ。辛い時は、どんなものよりも『楽になる』事が輝いて見えるものね。私も同じで、それに飛びついたわ」


 おそらく、天川は学校を休みだした時の自分の事を言っているのだろう。


「でもね、その後にあなたと出会って、私毎日が楽しくなった。恋って惚れたもん負けって言うけど、私は惚れたもん勝ちって思ったわ。コールド勝ちよ」


 こんな僕に出会った事で楽しいと言ってくれて、素直に少し嬉しいと思った。天川は僕にとっていつもハチャメチャな存在だが、もう一方でこんな気分にもさせてくれる存在だ。


「楽になる事と、楽しくなる事の両方を体験した私が思うに。楽しいに比べて、楽なんてカスね!」

「カスって……」


 最近、天川の言葉遣いが少し荒々しくなったと思うが、これが彼女本来の姿なのだろうし、僕にとっても気兼ねない気持ちにさせてくれる。


「だって、楽になるなんてただ薄めているだけだもの。楽しくなる為に何も生みだしてない。楽と楽しいは同じ字だけど、意味は全然違う。そんなくだらないものの為に、本当にこんな素晴らしいもの捨てちゃっていいの?」


 そうは言うけど、僕の経験上そう簡単に楽しい事なんて起こらない。


「確かに大きな楽しみなんて、そうそう来るものじゃないわ。でも、楽しみの真髄は小さな積み重ねよ。……そうね、今度何処かに食事にでも行きましょう。小さな楽しみの醍醐味を味わわせてあげるわ。あなたが私に与えてくれたようにね」


 何処かに食事って、それってデートって事かな? 自慢じゃないけど、僕は生まれてこの方、女性とデートをしたことが無い。……こう思い返すと、僕の人生って中々寂しいものだな。


 そういえば、ここ最近妖怪がらみでデートどころか遊びにも行ってない。天川の言葉のせいじゃないが、何か凄くもったいない感じがしてきた。


 僕は体が動かせないので、視線だけを天川に向けた。


「天川。本当に、こんな僕が楽しい人生を歩めるのかな?」

「崇君、私を誰だと思っているの? この世で一番あなたを愛する女よ。……最後にもう一度聞くわ。あなたは、そんな私との約束を破るの?」


 天川に魔法をかけられたのか、不思議と前向きな気持ちになった僕は、軽く口元を緩めて少ししてから開いた。


「そんなに僕の事を、思ってくれる人との約束は守らないとな。……クコ」


 すると、空を見上げていた目の前にクコが姿を現す。


「クコ。頼む」

「いいのか? 我は、お主が苦しいのなら……別にいいんじゃよ」


 考えていた事を感じたのだろうか、クコは切ない表情をする。それを見て、僕は彼女に申し訳ない事をしたと思い、すぐに返事をする。


「別に、今うだうだ考えていたのはそう言う事じゃないんだ。ただ、そうなるなって思っただけだ」

「本当か?」

「ああ。元々後悔なんかしてないよ。って言うか僕の本心なんて、お前なら分かるだろ? 文字通り一心同体なんだから」

「ふん。でも、たまには言葉にしてくれないと、不安になるんじゃ」

「お前はめんどくさい彼女か?」

「くっくっ。まあ、全てはなるようになるじゃ。それにどんな結末でも、我はお主と常に共にある。忘れるな」


 この気軽な言い合いが出来て、僕は少しホッとした。


「ああ。クコ、一緒に行こう」


 クコは笑うと、そのまま自分の額を僕の額に合わせた。

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