第29話 父から学ぶ大人の挫折
日が少し落ち、空が暗くなり始めた時に、僕は神楽殿から出た。
母屋に向かう途中、何かが壁に当たる音が数回響いてきた。僕はその音の発信源の方を見ると、そこには父さんがグローブを付けてボールを壁に向かって投げていた。
「父さん、こんな所で何してるの?」
「おお、崇か。いやな。今、町内会の野球チームに参加してるんだが、その練習をしていたんだ。けど、ガラスを割っちまって母さんに怒られてな、一人寂しくここで壁当てしてたんだよ」
僕は、近所の怖いオヤジに怒鳴られる子供がしたみたいなそんな理由で、怒られた大人を初めて見た。
「まあ、いいや。崇、一人でやっていても張り合いがない。久しぶりに、少し付き合え」
父さんはそう言うと、足元にあったもう一つのグローブを僕に向けて放り投げた。僕はそれを受け取り、自分の左手にはめる。
「しょうがないな。でも、もうそろそろ晩御飯の時間だから、少しだけだよ」
父さんが、僕に向けてそこそこ速い球を投げてくる。
昔の僕なら、そんな球を取るにはそれなりに苦労をしただろうが、今のこの眼を持っている僕からすればそれは簡単な事だった。
「おっ、やるじゃねーか。お前も中々成長したな」
「まあね。いつまでも、子供のままじゃないよ」
僕は、この腕で本気で投げると大変な事が起きることを知っているので、それなりに加減をして投げ返す。
「で、最近どうなんだ?」
ボールをキャッチした父さんが、少し威厳がある父親の様なトーンで聞いてきた。
「どうって、何が?」
「いや、父親がこういうシーンで言うセリフって、こんなんじゃなかったっけ?」
威厳がある風な感じから、一瞬にしてとぼけた感じのオヤジへと変貌した。
「定型文として聞かないでよ」
「まあ、いいじゃねーか。で、どうよ? 学校とか私生活とか、青春はしとるのかね?」
「いや、キャラ設定ぶれぶれなんですけど。まあ、いいや。……ぼちぼちだよ。ぼちぼち。特に変わりは無いってところかな」
無論、僕の私生活は普通の高校生ではない。むしろ、近日中には最大の試練が待っているであろう。しかし、今の僕はこう言うしかないのだ。
「父さんの方こそ、どうなの?」
僕は自分の話題から逸らす為に逆に聞く。
「わしか? わしはさっきも言ったが町内会の野球に没頭しているぞ。この前の試合は勝ったが、四打数四三振だったぞ」
まるで父親に近況を聞かれた子供が、答えそうな内容が返ってきた。というか、この人は遊んでばかりで、仕事はちゃんとしているのだろうか?
「そっか。上手くいってないんだね」
僕の言葉に、父さんが首を傾げる。
「何言ってんだ? 試合には勝ったって言っただろ?」
「えっ、でも父さん自身は駄目だったんでしょ? 良くないじゃん」
「お前こそ何を言ってるんだ? もし、わしが四打数四本塁打でも、試合に負けたら意味ないだろ? ってことは、試合に勝ったことは万事順調ってことだ」
父さんが言っている事はある意味合っているかもしれないが、僕がその立場なら随分と居心地が悪いだろうな。
そんな事を考えていた僕の反応を見て、父さんは含み笑いをした。
「ったく。普段、大人ぶってはいるが、これが分からんとはお前もまだまだ子供よの」
確かに僕は未成年だが、この人に言われると腹が立つな。
「いいか。人間ってのはな、大人になればなるほど自分の無力さと、他人が持つ大きな力に気が付くもんなんだよ」
父さんが再度こっちに向けてボールを投げ、僕はそれを受け止める。
「確かに、お前みたいな年頃は、どんな事も出来てしまいそうな気持になるし。そんな、万能な人間に憧れて、自分もそんな存在になろうとするし。あまつさえ、既にそんな存在になっていると勘違いしてしまう事もあるもんだ」
「そんな。僕はそんな傲慢な人間じゃない」
僕は少しさっきより強めに投げ返した。しかし、父さんはそれを難なく受け止める。
「いや、これは傲慢だとかそうじゃないとかっていう話じゃねーんだ」
「どういう事だよ?」
「経験ってやつだな」
「経験?」
「ああ。お前の年ぐらいだと、まだ挫折っていう経験があまり出来ないんだよ。そりゃ、勉強やスポーツとかで上手くいかない事もあるかもしれない。でも、大抵はその結果でお前の周りの世界が潰れたり、お前自身の存在が全否定されたりする事もない。しかも、お前らぐらいの子には次のチャンスがまだまだ与えられるしな」
確かにあの祠での出来事を除き、今までの僕は私生活では色々な小さなミスをしてきたが、だからといってこの世の終わりだと追いつめられた事は無い。
「だがな、大概の人間は大人になればなるほど、挽回出来ない挫折っていうのを味わうんだよ。嫌でもな。そうなれば、自分の無力さがよく分かるし。実は、己には無い力を持っている他人の偉大さで、自分が生かされている現実っていうのが理解出来るんだよ」
言っている事は何となく分かるが、受け取りようによっては大人の諦めにも聞こえる。それに、挽回出来ない挫折なんて、僕は味わいたくない。
「いいか。別に、自分が出来ない事を諦めて無責任になれって言っている訳じゃないぞ。ただ、自分の周りの偉大さに気が付かないで己を見誤ったり、感謝を忘れたり、それこそ傲慢な大人になるなよって話だ」
父さんは、僕が考えていた事を感じたのか、ちょっとした釘を刺した。
そんな父さんは、続けて家の方を見た。
「まあ、わしらの身近な話になると、母さんだな」
「母さん?」
「そうだな。わしらは、母さんがいるから生きていける。母さんが毎日おいしい健康的なご飯を作ってくれるし、わしの仕事を手助けしてくれる。そして何より、わしらを誰よりも愛してくれる。だから、まずお前は母さんの偉大さに感謝しろよ」
父さんの言う通り、普段あたり前のように家事をしたり、僕の世話をしたりしてくれる。日常化していて気が付きにくいが、それはとてつもない労力だ。
駄目だな。これじゃあ、父さんの言う通り、僕はまだまだ子供だよ。
「まあ、それも経験だ。いろいろ経験して、大人になっていけ」
父さんの父親としての会話が終わった時――。
「二人ともー。ご飯ですよー」
声のした方を見ると、家から出てきた母さんが割烹着姿で手招きしている。
「よし! じゃあ、最後にこの全力投球を受け取ってみろ!」
父さんは大きく振りかぶって、思いっ切りこっちに向けてボールを投げた。
「あっ」
僕は父さんが投げた瞬間に、この眼のお陰でその軌道が読み取れたが、自分の遥か頭上に飛んだボールを取るわけにもいかないので、只々それを眺めるしかなかった。
そしてしばらくした後、後方でガラスが割れる音が響いた。
今起きた悲劇を見た母さんは、笑顔のまま父さんの傍まで来た。
「あなた。後で話がありますからね」
顔は笑っているが、重苦しい声色で母さんはそう言った。
「うっ、……うむ」
近所のわんぱく坊主の様な失敗をした父さんは、これでまた一つの挫折を経験して、大人への階段を上るみたいだ。
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