第27話 僕の周り

 翌朝、僕はいつもより一時間早く目が覚めた。特に予定があってそうしたわけでなく、たまたまそうなった。それはきっと昨夜の事で、己の身に持続的な緊張感が無意識のうちに走っていたからだろう。なんとなく寝つきも悪かった。


「そう警戒しとっても無駄に体力を消耗するだけじゃぞ。程よい緊張でいいんじゃ。まあ、年端も行かぬお主にとっては普通の事かもしれんがな。相手が相手だけに」


 布団のお腹部分からひょっこりと顔を出したクコが、まだ眠たげな細目をしながら忠告をしてきた。


「なんか体が重くて寝にくいと思ったら、お前かクコ。猫みたいなことするなよ」

「昨夜は肌寒かったからの。まあ、気にするな」


 ここで二度寝したら寝坊する恐れがあるので、僕は渋々体を起こした。クコもそれに合わせて僕の首にいつものようにクルリと巻き付くと、また寝息を立てた。


 居間に行くと、いつものように父さんはお茶を飲みながら新聞を読んでいて、台所では母さんが朝食の準備をしている。


「父さん、母さん。おはよう」

「あら、どうしたのこんな早起きして? まだ朝食の準備出来てないわよ」

「いいんだ、母さん。たまたま早起きしただけだから、ゆっくり準備して」

「そうだぞ、母さん。崇はただこの可愛いお嬢さんとの時間を、出来る限り多くとりたいというだけだぞ。こういう時は分からないふりをして、いつも通りの接し方をしてやるのが親の役目だ。例え、いかがわしい本を掃除がてらに見つけたとしても、元の場所に戻していつも通りの――」

「朝から意味不明な事を言うな」


 相変わらず、この父親のちゃらんぽらんさには頭が痛い。よくこんないい加減な父親から、こんな真面目で誠実な子が生まれたもんだ。


「いくら本心を見抜かれたからって、お父様にそんな乱暴な言葉はいけないわよ。大丈夫よ、星月君。照れなくても、私はちゃんと分かってるから」


 天川がちゃぶ台に、僕と自分の分のお茶を置いて、したり顔でそう言った。


「いや、なんでそんな当たり前みたいな感じで、ここにいるの?」


 少し呆れ気味に天川に問うと、父さんがいきなり笑い出す。


「はっはっはっはっ。乙姫ちゃん。星月君だと、わしの事も入るぞ」

「あら、それもそうですね。ごめんなさい紛らわしい事を言って……崇君」

「はっはっはっはっ。初々しくていいなー! よかったな、崇。こんないいお嫁さんが来てくれて!」

「もう、お父様ったら気が早いです」


 何だ、この出来の悪い寸劇は? 天川の奴、本当に僕の私生活にズケズケと入り込んで外堀を埋めにかかってきてやがる。


「はい。崇君、温かいお茶飲んで」


 もう崇君呼びなんだ。


 ここで、何か反論とかすると朝から疲れるんで、僕はそのまま座り天川が差し出した湯呑みを受け取った。


「まあ、何でもいいや。それにちょうど僕も、天川に話したいことがあったし」


 朝食を済ますと、僕と天川は少し早めに家を出る。いつも通り、僕たちは眺めの良い長い階段を下りる。


「ねえ、さっき言ってた話したいことって何?」

「ああ、ちょっとしたお願いだけど。今日から少しの間、僕から距離を取って欲しい。あと、家にも来ないでくれるかな?」

「ええ、分かったわ」

「えっ?」

「どうしたの? ぽかんと口を開いて。まあ、その腑抜けた顔も可愛らしくもあるけど」

「い、いや。何というか、いつも僕の話なんて聞かないから――」

「言う事を聞かなくて、わがままを言うとでも思った?」

「まあ、ありていに言えば」

「崇君、あまり私を見くびらないで。私が聞かないのは聞く必要のない話だけ」

「普段の僕は、どれだけ聞く価値のない話をしてるんだよ? それはそれでへこむよ」

「でも、今度の話は真面目な話でしょ? あなたも知っている通り、私は長い間人の目を気にしてきたから、表情を見れば分かるわ。特に今は、その能力をあなたに全振りしてるからなおさらよ」


 その能力、もっと他の事に生かした方がいいだろと思ったが、あえて言葉にはしないでおこう。


「その能力、他に生かせよって顔してるけど――」


 スゲーなこの人。


「私は私なりに考えて、一番自分が幸せになれる為にしていることよ。それに、あなたの幸せもね」


 以前の天川は自分が不幸にならない為に生きていたが、今の彼女は幸せになる為に生きていられるようになった。これは似ている様で、全然違う。


 何はともあれ、彼女自身が掴んだその生活の手助けが出来たのなら、僕のしたことは意味があったのだろう。


「そんな事は置いといて。あなたが、私の事を思ってそう言っているってことぐらい分かるって事よ。それに、少しの間だけでしょ?」

「まあ、そうだけど」

「あえて詳しくは聞かないけど……無事に私の所に帰って来るって約束して」


 ここで初めて天川は不安気な顔をした。


「付き合ってもいないのに、天川の所に帰るっておかしいけど。……でも、天川が僕の話をちゃんと聞いてくれたお返しに、その約束は必ず守るよ」


 僕が約束の了解をすると、天川は不安げな表情が少し和らぎ、小さな微笑みを浮かべた。


 その日、天川は僕の願い通り全く会話もせず、帰りも目線一つ合わせないまま教室を出て行った。


「おいおい。最近はムカつくくらいべったり一緒だったのに、今日はどうした? 喧嘩でもしたのかよ?」


 前の席にいる哲が、何故か少し嬉しそうな顔をしながら聞いてきた。


「別に喧嘩なんてしてないよ。それに、普段も向こうが勝手に引っ付いて来てるだけだ」

「それを聞いて、またムカつくぜ」


 これでいい。普段なら、僕の近くにいた方がいざという時に助ける事も出来て安全だが、今は話が違う。おそらく近いうちに会うであろう相手を考えると、逆に僕の近くにいた方が危険だ。とても誰かを守るという意識を持ちながら相手なんて出来ない。


 そんなシリアスな事を考えていた時。


「はーあ。この世界が一妻多夫制にならないかな」


 いきなり哲が、溜息を吐きながら不思議な願望を打ち明けてきた。


「えっ?」

「ん、何だよ?」

「いや、こういうのって、男は一夫多妻で、女は一妻多夫を、それぞれ自分にとって都合のいい方を望むんじゃないの?」


 哲は、僕の疑問に対して、呆れた様なそぶりをしながら顔を横に振った。


「やれやれ。ほんと、お前は何も分かってねーな」

「えっ、違うの?」

「お前、よく考えろよ。この世が今みたいな一夫一婦制なら、俺みたいな普通の男は、姫様みたいな美女に選ばれる可能性は、宝くじに当たるくらい難しい事なんだ」


 宝くじって、お前にはそんなに可能性が無いものなのか?


「だけど、一妻多夫制なら俺みたいな男でも、ワンチャン奇跡みたいな美女に見初められる可能性があると思うんだ」


 僕はこんなにも自分にネガティブで、この世にポジティブな人間を見たことが無い。


 いや、これは不健全だ。ここは哲をちゃんとした道に戻そう。お前は、自分が思っているほど悪い男じゃない。


 僕は、哲に自分の知る常識を伝える。


「いや、でもやっぱり、自分が好きな人には、自分だけを好きでいて欲しいのが普通じゃないのかな?」

「お前は一人しか入れない超名門校と、複数人入れる超名門校。同じレベルなら、どっちの受験を受ける? 入学した時の名声は同じなんだぞ?」


 なんだろう。このままこの話を続けると、変に納得させられるかもしれない。僕は、自分が逆に変な思考に陥らない様に、この話題に深入りするのは止めた。


「そっ、そっか。名門校に入れるといいな。じゃあ、僕は用事があるから、もう帰るよ」

「ああ、また家の手伝いとかだろ? えらいねー」


 別に違うが、そう言う事にしといた方がいいだろう。


「ああ、じゃあまた来週」


 こういうくだらない会話を時々哲とするが、こんな取るに足らない平凡な生活が、僕にとってはかけがえのない思い出になるのかな。これから自分の身に降りかかるのであろう危機を考えると、そう僕は思った。

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