第26話 白面金毛九尾弧の何か

 ゆきのはそう言い、少し寂し気な目で、己の胸に抱いているものを見た。そこには、いつもゆきのの傍らにおった犬の妖怪が、小さく丸まって目を閉じておった。


 奴の状態を見た我は、すぐにその妖怪がもうすぐ息を引き取ることが分かった。


「ほんとにバカだねえ。あたしの事なんか放っておいて自分の身を守ればよかったのに。……でも、ありがとうね。あんたの事は一生忘れない。あんたはあたしの中で生き続けるよ。だから、安心してお眠り。ハナ」


 ゆきのがそう言うと、ハナという名の妖怪は少し尻尾を振って、全身を光の粉に変えて空に散り消えていきおった。


 光の粉を名残惜しそうに見つめていたゆきのは、空を見上げながら口を開きおった。


「あの子はね、あたしが子供の時から一緒にいた子なんだよ。まあ、姉妹みたいなもんだねえ。こんな仕事をしてるからさ、いつかはこんな日が来るとは覚悟はしてきたつもりだけど、それが今日とはねえ……」


 空を見上げたゆきのの目尻から、重力によって一滴の涙がこぼれ落ちおった。それは、我が初めて見たゆきのの泣き顔じゃった。しかし、いつの日かと待ちわびたその顔は我が望んだものではなかった。


 しばらくして、ゆきのは我に視線を向けて、いつもとは違う我の胸に一突きの刀を差す様な声色で言葉を発しおった。


「白面金毛九尾弧。あんたは何の為に生きている?」


 その問いに、我は即答できんかった。というか、そもそもそんな事を考えたことも無かったのじゃ。何故なら、我はそれまでただ己の欲のままに生きてきたからじゃ。


 しかし、ここで口籠っては格好がつかんと思った我は、それらしいことを言った。


「ふん! 知れた事よ。我の恐ろしさを世にとどろかせ、この我の存在を人間どもに知らしめる為よ」

「それで?」


 我なりに威厳を示して、それなりに壮大なことを言ったつもりじゃったが、ゆきのは冷淡な目で我を見て、再び問うた。


「それであんたはさ、皆を怖がらせて、皆に知られてどうなるのさ?」


 口先から出ただけの言葉じゃった。そんな言葉の先の事なんて勿論なかった。


「あんたさ。もちろん恐怖なんて感情は、相手に自分を知らしめさせる為に有効なもんだよ。でも、命なんてものはさ、いつか必ず終わりが来るもんさ。それは、あんたももれなくね。そしたらさ、人間なんてものは生きる為に悪い思い出なんて邪魔なもんはさ、すぐに忘れてしまうもんなんだよ」


 そう言ったゆきのは、憐みの表情を我に向けた。それは、大妖怪である我がこれまで誰にも向けられたことの無いものじゃった。


「だとしたらさ、あんたが残したもの、あんたに残されたものは、結局は『無』なんだよ」


 ゆきのの発した「無」という言葉が、今まで我が生きてきた中で一番大きくのしかかった気がした。


「最近、子を持って思った事だけど。あたしが今までしてきた、妖怪を倒して相手に恐れられた事なんか簡単な道だったんだよ。そんな事なんかより、相手に愛され思われる存在になる事の方がとてつもなく難しい道なんだ。でもさ、その道をたどれた後はさ、きっとあたしは『何か』を残して、あたしに『何か』が残るんだよ。そしてそれが、あたしが生きた証になるんだ」


 初めて我にちゃんとした会話をしたゆきのは、戦いを挑んだはずだった我に背を向けた。


「じゃあね。もし、あんたがそんなこと関係ないって言うんだったら、いつでもかかってきな。そんなあんたに、あたしがしてやれることは、やっぱり無に帰してあげる事だけなんだから」


 悲し気にそう言ってその場を去るゆきのの後姿を見た我は、この日まで持っていた奴と戦うという中で得た楽しいという安っぽい感情が消え去っている事に気が付いた。 

 

 その夜、我は久しぶりに思いにふけった。何度も頭の中を「無」というゆきのの言葉が駆け巡り、その都度恐怖を覚えた。


 その恐怖とは、身に迫る危機に感じるものではなく、今まで体験した事のない感覚じゃった。その恐怖とは、胸の奥深い所を締め付ける様な、口では説明出来ないものじゃった。


 そして、我は思い知った――。周りから言われ、自分自身も誇ってきた大妖怪という名の真実は、中身が空っぽな何者でもないものだったことを……。


  この真実は、確実に我を変えるものとなった。


  数日後、何処かへ行こうとするゆきのの前に、我は再び姿を現した。


「おい、お前」

「やあ、シロ。あんたかい。どうした? あたしはこれから色々と行かなきゃいけない所があるんだ。暇じゃないから、手短にしてくれるとありがたいんだけどね」

「あのハナとかいう妖怪の敵でも討ちに行くのか?」

「あら、名前覚えていてくれたんだ。でも、敵を討ちに行くとか、そんなもんじゃないよ。それに、そんな気持ちじゃ、あの子に逆に失礼だよ。ただ、あの子が望んだ世界にする為に、一働きするだけさ」


 話を聞くに、どうやらゆきのは全国に散らばる七体の凶悪な妖怪を退治する為に、旅に出るところだったらしい。


「ふん! お前はこの我が倒すと決めたんじゃ! 他の奴にやられるなんて許さん! だから……」

「だから、今ここで決着を付けようってのかい?」

「だから……その、なんじゃ……我が付いて行ってやって、その雑魚共を倒した後に、我ともう一勝負じゃ!」


 我のその言葉を聞いて、ゆきのは少しうつむき体を小刻みに震わせだしおった。次に上を仰ぎ見たと思えば、大きく口を開いて笑い出しおった。


「……ぷっ! くっ、くくくくくっ。あははははははは!」

「なっ、なんじゃ! 何が可笑しい!?」

「あはははは! ごめん、ごめん。あんたを笑ったんじゃないよ。嬉しかったんだよ」


 ゆきのは笑いながら目尻に浮いた涙を拭いだし、我の思ってもみない己の感情を口にした。


「嬉しい?」

「ああ。初めてあんたを見た時、やっぱりあたしの目に狂いがなかったんだって。それが分かって、嬉しかったんだよ」


 初めてゆきのが本当の笑い顔を見せて、不思議と我も嬉しいと思った。


 楽しいじゃなく。嬉しい……。頭で分かる事じゃなく、先日苦しめた胸が柔らかく解される様な感覚。我はその時、生まれて初めて嬉しいと思ったんじゃ。


「そうかい。あんたも『何か』を残したくなったんだね」

「そっ、そんなの我にはよく分からん」


 ゆきのは、今まで見せた事が無い優しい顔を我に向けて告げた。


「もう、大丈夫だよ。もし、あんたが死んじゃっても、あたしがあんたを忘れない。一生あんたを思いやって生きてやるよ。だから、安心しな」


 そう言ったゆきのは、七体目の妖怪を封印した時に命を落とした。


 まったく。我の事を忘れんと言いながら、お主やハナの事を覚えているのは我の方ではないか。怒と楽しか知らんかった我に、喜と煩わしい哀という感情を覚えさせおって。

 

 昔の思い出をなぞり終えた我は、横に視線を移す。そこには崇が変わらず寝息を立てている。


 初めてこやつとあの洞窟で出会った時、顔かたちは微妙に違うが、漂う雰囲気からゆきのの生き写しと再会したと思った。


 それが、ゆきのが去った後に長年一人であそこを守ってきた我にとってどれほど嬉しかったことか、お主には分からんじゃろうな。


「崇。お主は我がいなくなっても、いつまでも我を覚えていてくれるか?」


 もし、こやつの身に危険がせまったら、我はこの命を差し出す事に躊躇しなんだろう。


 何故なら、我はもう「何か」を残せたはずじゃから……。


 さて、夜も更けて肌寒くなってきた。儚いが、我にとっては光り輝く思い出に幕を下ろして、そろそろ寝るか。


 しかし願わくば、あの時と同じこの眩い時を、もう少し長く味わいたいものだ。


 そう思い、我は寝床に入った。

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