32話 はじめての気持ち


 わたしはアトリエの自室のベットに横たわっていた。今日はもう夕食も終え、お風呂にも入った。パジャマにも着替えて後は眠るだけの状況。


 ベットの上でひとり、これまでの日々に思いを巡らせる。


 ルーンウォルズで新生活を始めてはや一ヶ月が経過した。

 思い返すとあっという間の一ヶ月だった。そして、その間は、わたしにとって「初めて」の連続だった。


 なんと言っても彼との共同生活だ。家族でもない人と一緒に暮らすなんて、ましてやそれが異性だなんて、当然わたしはこれまで経験したことがない。


 二人暮らしを提案するときは本当に勇気がいった。

 自分のアトリエを持つことは、きっと錬金術師アルケミストにとっては特別なことだ。その幕開けをわたしが水を差すことになってしまうかもしれない。

 優しい彼のことだから、きっと拒絶はしないだろうなと思ったが、それでも多少なりとも気を遣わせてしまうだろうことが、不安だった。


 けれど彼は、嫌がることなく二人暮らしを受け入れてくれた。

 

 本当に嬉しかった。

 あの時は自然と顔がにやけてしまって、夜部屋に戻った後も一人でずっとニヤニヤしていたのを覚えている。

 

 そうして始まった、アトリエでの二人暮らし。


 朝起きればおはようと言い合える。夜寝る前にはおやすみと言える。ご飯も一緒に食べる。そんな日々。

 わたし以外のみんなにとって、それは当たり前の日常なのかもしれない。

 

 でもいつも独りだったわたしには、それがとても新鮮なことで、毎日がキラキラしていた。

 

 それに、二人で過ごす時間はいつも楽しかった。


 毎日の食事。

 彼の作ってくれる食事はとてもおいしかった。彼はとても器用で、キッチンにある、の食材であっという間に食事を仕上げてしまう。しかもそのレパートリーは豊富だ。

 ちなみにわたしは彼が作るオムライスが一番好きだ。


 そして、食後。彼はわたしの淹れるコーヒーをいつも美味しそうに飲んでくれる。二人でコーヒーを飲みながら、一日の予定を相談したり、取り止めのないことを語り合う。そのときに流れる穏やかな時間がわたしの一番好きな時間だ。

 

 その後は一緒に街へ買い物に出かけたり、街の外へ素材の採集にいったりする。


 時には二人で森の奥まで行って、珍しい薬草を見つけたこともある。


「これ、売れるんじゃない?」

「……いや、売らないほうがいいと思いますよ」


そんな風に会話をしながら森の中を歩くのもまた楽しいものだった。


 そう、彼との会話が楽しいのだ。


 今までわたしは、誰かと一緒に何かをするということがほとんどなかった。

 赤い瞳のせいで人から避けられてきたというのもある。そもそもわたし自身、誰かと一緒にいる時間というのは、どうにも落ち着かなくて苦手だった。誰かと一緒にいる時間はなんだか落ち着かなくて一分一秒がとても長く感じるのだ。


 だけど、彼とは不思議と話をしていても気が休まる。彼が側にいてくれるだけで安心できる。

 彼と話していると楽しくて、つい時間を忘れてしまいそうになる。時間の経過があっという間だ。


 この居心地のよさはなんなのだろうか。

 

 自分の気持ちをうまく言葉に表せない。この気持ちの原因を探ろうと心の中で自問自答しても、いつも途中で胸の奥に不思議な苦しさを感じてしまって、結論を出すことができないのだ。


 わたしはベットの上で仰向けになりながら、両手をお腹の上に置いて天井を見つめた。


 彼と一緒にいることで、色々なはじめての気持ちを経験してきた。


 一緒に食事やお出かけをしているときに感じた穏やかな気持ち。


 キラービーに襲われて意識を失ってしまった彼を一人で介抱しているときに感じた、不安と悲しみで押しつぶされそうな気持ち。


 彼とアリシアが二人でアトリエにいるときの、胸の奥が少しモヤモヤして、チクリとするあの気持ち。


そして、今こうして自分の部屋に戻ってきて、一人きりになったとき、ふっと訪れる寂しさのような気持ち。


 この気持ちの名前を知ってしまったら、わたしはどうなってしまうんだろう――


 自分の中にあるこの新しい気持ちの正体を知りたい。

 知りたいという欲求がある一方で、知ってしまうことを怖れている自分もいる。


 こんな気持ちになるのは初めてだから、正直よくわからない。けれど、このままだといずれ、自分が自分でなくなってしまうような気さえする。

 それはなんだかすごく怖いことだと思った。


 そんなことを考えているうちにだんだん眠くなってきたのか、まぶたが重くなっていくのを感じた。

 わたしは考えることをやめて、そのまま目を閉じて、眠りの世界へと誘われていった。

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