第二十八章:南都北嶺

 源光暗殺により、荘園制度改革に抵抗する豪族勢力は大幅に弱まった。


 元来藤原氏は天智、天武両天皇の下、公地公民制を推し進めた原動力であった。其れまで覇を唱えていた大豪族蘇我氏に代わって、日本一の豪族勢力となった。


 公地公民制の強化は、藤原氏にとって勢力伸長を妨げる物ではない。寧ろ他豪族に対して有利な立場に立てる好機であった。


 だが、私領拡大に励むのは豪族だけではなかった。


「南都北嶺」、そう呼ばれる二大勢力が存在した。北嶺とは都の北方、琵琶湖の畔にある比叡山延暦寺。そして、南都とは大和に位置する興福寺の事であった。


 基より興福寺は藤原氏の氏寺であり、朝廷から特別な保護を与えられていた。藤原との繋がりの強い寺社といえば、其の氏神を祀る春日大社がある。興福寺は春日大社を併合する事によって、藤原氏と朝廷に対して強い影響力を持つに至った。


 延暦寺は彼の最澄が比叡山に開山した天台宗総本山であるが、元々の地主神であった日吉大社ひえたいしゃを寺の内部に取り込んでしまった。是により「山王信仰」という独特の宗教伝統を生む事になる。


「豪族の次に世の中を牛耳ったのは寺社勢力だった訳だ」


 須佐は、ほろ酔い加減で自説を開陳した。


「其れにしても、興福寺は何故春日大社を取り込む必要があったんだ?」


 氏寺としての権威だけで、十分藤原氏に対して圧力を掛けられそうな物だと、私は考えた。


「詰まる所、仏は祟らない・・・・・・からさ」


 須佐は、さらりと答えた。


「まあ、仏罰という言葉はあるがね。悪い事をすると罰が当たるという事だろう? 因果応報。どうも他人行儀で、迫力に欠けるのさ」

「そんなもんだろうか?」

「其処へ行くと、神道は怖い。神は祟る・・・・からな。しかも氏神様と来れば、自分達の御先祖様だ。何の誰べえと名前が付いてる。こりゃ、生々しいわな」


 私にはピンと来ない部分もあったが、仏様より神様の方が怖いという感覚は理解出来た。仏教が哲学的であるのに対し、神道はもっと生理的で生身の部分と繋がっている気がした。


「其れは其れとして、何故興福寺が春日大社を呑み込み、其の逆ではなかったのかという疑問はあるわな」


 須佐は、コップ酒をちびりとやりながら言った。


「是は俺の個人的な見解なんだが、僧侶と神職には育ちの差ってのがあるんじゃないかと思うんだ」

「育ちって言うと?」

「神職てのは、基本世襲制だろう? そして、神に仕える身であって、自らが神に成ろうとしている訳じゃない」

「そりゃそうだ」


「一方、僧侶ってのは経典を研究する学者と言える。漢籍を読み解く訳だから、其れだけでもインテリだ」

「遣唐使の多くは学僧だったね」

「更に言えば、仏教とは人が仏に成る為のマニュアルな訳だ」


 実際に人の身で仏に成ったと認められているのは釈迦だけなのであるが、仏教とは其の教えをなぞり、自分達も仏に成る、即ち成仏しようという宗教である。其れが須佐の仏教観であった。


「平安期の僧侶ってのは、当時の先端知識を身に付け、しかも圧倒的な上昇志向を身に備えたエリート集団だったんじゃないか」


 末は博士か大臣かどころではなく、仏様に成ろうというのであるから、確かに並の上昇志向ではない。


「土師氏や渡来人とは違った意味で仏教勢力もテクノクラートであり、其の本来的な上昇志向によって権益を求め易い素地があったのだろう」


 近代に至る迄、寺が学問の中心であった事は、紛れもない事実である。寺子屋での教育風景は、小学校でも教える事だ。僧侶は時として医者であり、土木建築家でもあった。


「日本の神道を世界的な大宗教と比べると、極めてユニークな特徴がある」


 須佐は、言葉を続けた。


「本来、神道には『布教』という概念がない。信徒を増やそう、教えを広めようという考え方がないんだ」


 八幡社、稲荷神社等全国に広がった神社はあるが、神社が勢力を広めようとした物ではない。其の土地の人々に請われ・・・、祀る神を分霊し、新たな土地を護る神として分祀した物である。


「古代の人間には怖い物が沢山あった。天災、疫病、怪我、獣、毒虫、夜盗等々。其れ等諸々の災いを避け、身を守りたいと願うのは、極々自然な心の動きだ。災いをはらって呉れる存在として、古代人は神を祀った。神のいないむらでは、其れを見て羨ましいと思ったんだな。自分達の邑にも神様が欲しい。そう願って、神を分けて貰った。日本の神ってのは、そういう物なんだろうさ」

「祠一つあれば神は祀れるしね。下世話かもしれないが、仏教の方が金は掛かりそうだ」


 仏教とは「教え」であり、本来的に布教を目的とする。新しい土地で教えを広める為には、其処に寺を開く必要がある。


 寺を築き、本尊や仏具を揃えるには金が必要である。勿論喜捨を募る事には成ろうが、其れだけでは資金に限りがある。


 寺を開けば開いたで、日々の維持費が重荷となる。寺を増やす為には、寺の経営を支える収入源、寺領を増やさなければならなかった。


 宗門間の勢力争いも、仏教諸宗派が競って田地を開き、財を蓄える動機となった。

 布教活動は「椅子取りゲーム」に他ならない。他宗門が先に進出してしまえば、其の土地で信者を獲得する事は難しくなる。一つの地域で複数の寺を支える程、古代の地域経済は豊かではなかった。


 新しい寺を築く為に田畑を増やし、寺領を広げる為に寺を開く。其れが仏教勢力の成長メカニズムであった。


 とはいえ、何処の寺もが広大な寺領を保有した訳ではなかった。朝廷の特別な保護を受けた東寺、東大寺、そして南都北嶺の両寺等限られた寺のみが、豪族を凌駕する程の荘園を支配するに至った。


 是に対して神社の在り方は違っていたのだと、須佐は言う。


「元々神は民の暮らしの中に存在していた。公地公民、班田収受の法の実践と神社の存在は切り離せなかったんだ」


 往古、農耕は極めて不安定なビジネスであった。旱魃かんばつ、大雨、冷害、低日照、害虫、獣害。作物の実りを妨げる要因はいくらでもあった。


 種を蒔き、苗を植えたとしても、満足のいく実りを得られるかどうかは分からない。正に神頼みであった。


 ビジネスの継続に不可欠なもの、其れはリスクへの備えである。不作の時にどうするか?


 古代の民は、其の答えを神に見出した。


 収穫の一部を種籾として神社に納める。是は収穫をもたらした神への礼であり、現実的な側面では不作への備蓄・・・・・・でもあった。


 春になれば農民は種籾を神社から借り出し、秋の収穫後、利息分を付けて収穫した籾を神社に返す。此の原始的な金融制度を「出挙すいこ」という。其の名残は現在でも新嘗にいなめ祭や、初穂料という儀礼に残っている。


 出挙は借りた物に利子を付けて返すという金融活動であり、本来年貢とは異なる。しかし、やがて宗教的な側面が薄れるにつれ、租税と出挙の境界は曖昧になった。


 元々は神との取引であった出挙は、やがて国衙が行う物と成り、更に有力豪族が私的に行う事も広がった。是を私出挙しすいこという。税を課すのは天皇だけに許された特権であったが、出挙は金融取引として私的に行う事が認められていたのだ。


 布教と寺院維持に費用のかかる仏教勢力は、資金獲得の手段として荘園経営と私出挙運営に精を出した。其れは僧侶が強欲であったという事ではなく、宗教団体を維持発展させる為に必要な活動であったのだ。


 豪族と寺院が荘園拡大に励んだ結果、本来朝廷の租税収入になる筈の収穫物が其の割合を減らしていく事になった。頭を痛めた朝廷が編み出した対策の一つが、荘園整理令であった。


 醍醐帝治世下に行われた新制度は、他にもある。


「延喜年間には従来の租税制度に代わって、土地に対して年貢を課すという制度が支配的になったんだ。其れまでの戸籍を基にした人頭税は管理が難しく、徴税実務的に無理があった。醍醐天皇は社会の実態に合わせて、実効性のある税制改革を行ったのさ」


 荘園整理令の実施により土地の所有者をまず確定させる。そして、人頭税に代わって土地に対して租税を課す。其の二つを結びつける事によって確実な税徴収を目論んだのだ。


「納得がいかないのは仏教勢力さ。整理令で支配下の荘園を減らされた上に、手許に残った荘園には所有者として租税を負担させられる事になった。経済的な大打撃だ」

「其れで強訴か……」

「寺院だって必死だったのさ。現代でいえば新店オープンを基盤として業績を伸ばしてきたチェーン店が、突然ごっそり支店を奪われた上に、残った売り上げからロイヤリティを取り立てられる様なもんだ。経営破綻の瀬戸際に追い込まれるわな」


 ならば、朝廷も豪族も僧侶も神職も、取り立てて強欲だった訳ではない。限られた収穫物を争って利害が対立していただけで、善悪は視点によって変わる事になる。


「強訴の引き金が税制改革であったと考えれば、僧侶達が御神木や御神像を担ぎ出したもう一つの理由が浮かび上がる。寺と神社が一体だと言い張る事で、土地の所有者は寺院という団体ではなく、『神』なのだと主張したかったのさ。朝廷は神から税を取り立てる積りかと」


 強訴が盛んになり、文書に記録が残る様になるのは十一世紀中盤からであるが、延喜年間から朝廷と仏教勢力と対立は表面化していたに違いない。


「大織冠御神像破裂は強訴の起源と言ってもいいだろう」


 皮肉な事に、天神勢力が引き起こした騒動が寺社勢力にヒントを与え、先例として活用される様に成ったのかもしれない。


 醍醐帝は行き過ぎた勢力を持ち始めた南都北嶺を牽制する方策を立てた。其れが醍醐寺である。


「醍醐寺の創建は貞観十六年(八七四年)で、醍醐帝自らが開いた寺ではない。だが、其の法統には明らかに宇多、醍醐二代の天皇の色濃い関与が見られる」


 醍醐寺を開いたのは、理源大師聖宝である。聖宝は空海の実弟真雅の弟子と伝えられ、宇多天皇の深い帰依を得たとされている。一説には東大寺で宇多天皇に受戒を授けたのが聖宝であったとも言う。


 宇多法皇、醍醐天皇体制の下、僧正にまで上り詰め、東寺長者に任ぜられている。


 一方、醍醐天皇は醍醐寺を自らの祈願寺とし、此の寺への肩入れ振りを明らかにした。其れ迄醍醐寺は上醍醐と呼ばれる山の上部に開かれた修行場の様な物であり、醍醐帝の後ろ盾で開かれた下醍醐を加えて漸く大伽藍を備える一流寺と成ったのであった。


「宇多、醍醐の親子が厚く保護した事により、醍醐寺の権威は否応なく上がった筈だ。当時仏教界の頂点は、官営寺である東寺の長者だったが、其の地位を醍醐寺の座主が兼ねる様に成った」


 伝教大師最澄が開いた比叡山延暦寺は、宗勢拡大に積極的であり、また其の経営が巧みであった。結果として空海を祖とする高野山系密教は孤立し、比叡山と比較すると外界に対する影響力は小さかった。


 空海の死後、同じく密教の中心寺院であった東寺と密教界の頂点を争う時期があり、真言密教は内部崩壊の危機に晒されていた。


 此の時、東寺長者と金剛峰寺の座主を兼任して宗派を再統一したのが、観賢であった。観賢は聖宝同様空海の実弟真雅の下で出家し、伝法潅頂を聖宝から受けている。


 観賢は、空海が唐より持ち帰った記録「三十帖冊子」を東寺に納め、真言宗内での序列において東寺を本山とする体制を固めた。是により、真言宗は比叡山の天台宗に対抗し得る一枚岩の勢力と成ったのである。


 勢力拡大に先行した天台宗においては、最澄死後四十四年を経た貞観八年(八六六年)に伝教大師の諡号を天皇から送られている。是に対し、空海が弘法大師の諡号を送られたのは没後八十六年後、延喜二十一年(九二一年)の事であった。


 同時に唐に渡った最澄と空海、其の扱いが是だけ違うという一事を見ても、如何に真言宗が勢力拡大に出遅れていたかが分かる。


 弘法大師の諡号は、観賢によって奏上され、醍醐天皇により贈られた。其の観賢が聖宝から醍醐寺を引き継ぎ、二代目の座主と成っているのだった。


 醍醐寺第五代座主が、彼の貞崇であった。

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