第二十七章:源光暗殺

 一週間後の土曜日、私は居酒屋「権太」でまた須佐に会っていた。


「結局の所、定国も時平も、天神が手を下したという訳じゃないのか?」

「定国は明らかに違うね。時平については暴力をふるった訳じゃないが、死に至らしめたのは天神だと言っていいだろう」

「安眠妨害が殺人になるならね」


 私がイメージしていた怨霊の脅威とは程遠いと言うと、須佐は鼻を鳴らして言った。


「栄養状態が悪く、普通でも短命だった平安時代だぜ。睡眠不足は、其れこそ万病の元さ」


 私とて、眠れない辛さを知らない訳ではない。徹夜続きの過労が祟り、高熱を発して寝込んだ事もある。


「其れに、天神にしてみれば時平が死ななくても構わなかったのじゃないかな。睡眠不足で心身症になり、再起不能に成って呉れれば十分だったろう」


 時平が死ぬと、藤原家の実権は弟の忠平に移った。以後、忠平の子孫が代々藤原のトップに立つ時代が続いた。


「忠平は凡庸な男で、藤原の家を任せるには丁度良かったのだろう。好調な大企業のトップにやり手は要らない。無事是名馬って訳さ」


 藤原家は権謀術数で数多ある貴族の頂点に立ったのか? そうではないと、須佐は言う。強い競争力があったからこそ、世の中のトップに立てたのだと。


「力づくやら手練手管やらで人の土地を奪い取ったとする。其れを其のまま維持出来るもんかね? 無理やり自分の物にした所で、きちんと農業経営が出来なければ農場は破産してしまう筈だ」


 藤原氏と他の貴族との違いは其処にあったのだと言う。他家が経営に失敗した土地を、藤原氏は拾い集めては「経営再建」したのだと。既に「墾田永年私財法」により開墾地の私有化が認められていた。藤原氏は次々と土地を支配下に納め、収穫物を富として蓄積して行った。


 一口に農地を拓くといっても、簡単に出来る事ではない。自ら水利を確保しなければ開拓と認められなかった。即ち、大地を掘削して用水路を作らねばならなかったのだ。


 大規模な土木工事が必要となる。元手となる資本がなければ、出来る仕事ではない。工事には高度なノウハウも必要だ。折角水路を引いたものの、水が枯れてしまったり、氾濫してしまっては元も子もない。


 だからこそ、資本を持ち、技術を有する藤原家に土地と富が集中したのだ。


 藤原家が荘園を増やす事は、同時に其処で働く農民の所得を生み出す事になり、其れは租税の元と成る。


「藤原氏の支配とは、或る意味資本主義の実践と言ってもいい。例えある年凶作でも、翌年はまた種籾を蒔かなければ農場は維持できない。藤原氏は大量の籾を蓄えて、耕作民に貸し出す資本家だったんだ」


 荘園制という貴族支配の基盤システムが崩れない限り、例えトップが凡庸であろうとも藤原家の支配は揺るがないのだと言う。


「延喜の荘園整理令という物がある。醍醐天皇の治世に藤原時平が発布した物だが、要するに違法な荘園をすべて廃止し、公地公民制の基盤を回復しようとした政令だったようだ」

「時平は藤原家の繁栄だけを目指したんじゃないのか?」


 私は疑問を口にした。


「天皇制の維持があってこその藤原家支配さ。まずは律令制の基盤である公地公民制を立て直さない事には、国家制度が崩壊してしまう事を藤原家は理解していたのさ」

「其れにしても、荘園を廃止したら藤原家自身の私有地も減ってしまうのじゃないか?」

「正当な荘園まで廃止される訳じゃない。墾田永年私財法のルールに則って、正規に開拓・・・・・し、公的に認められた私有地は其のまま追認されたんだ」


 荘園整理令の後も藤原家の支配基盤が揺るがなかった事から考えても、藤原家自身は正規の荘園をしっかり保持していた事が分かる。


 「勿論中には外見だけの寄進田もあったろうさ。潜りの地方荘園主が藤原家に寄進したと詐称して租税を逃れるといった類だ。だが、そんな物は元から藤原家にとって重要な収入源ではなかった」

「藤原道長のイメージが強いから、なかなかそうは思えないな」

「不良資産の整理だと考えれば納得できないか? 資本家としてバランスシートをスリム化して、筋肉質の経営体質を希求したんだ」

「だとすれば、時平はかなり優秀な経営者だったという事か」

「いや、荘園整理令の起案者は時平ではないだろう」


 では、誰か?


「多分基経が発案し、良世に託した物だろう。もしかすると……」


 須佐は一旦言葉を切った。


「道真が計画立案に参画しているかもしれない」


 須佐の考えはこうだ。荘園整理令は延喜二年(九〇二年)に発布されている。道真を追放してから取り掛かった物にしては、一年後という発布の時期が早すぎる。是だけの大改革だ。発布によって、どれだけの荘園が影響を受けるか、其れによって租税収入がどう変わるか、当然綿密な調査とシミュレーション、利害関係者との調整が必要である。


 最低でも二年から三年の準備期間を必要としたであろう。当然、道真は準備作業の中心に存在した筈である。


 時平が優秀な為政者であったとしても、延喜二年の時点でまだ三十二歳である。社会基盤を覆す様な大改革を立案出来たとは、到底思えない。既に出来上がっていた整理令を、宇多上皇の意向に従って発布しただけであろう。


「そう考えると、昌泰の変の真相が全く違った姿で見えてくる」

「真相ってどういう事だ? 道真を邪魔に思った定国が讒訴したんじゃないのか?」

「其れも一面としてはあっただろう。しかし、本当の目的は荘園整理令の廃案化だ」


 基経、良世が進めようとした荘園整理令を、同族の定国が潰そうとした? 私には訳が判らなかった。


「藤原家の荘園は正規の私有地だったんじゃないのか?」

藤原家の物・・・・・はな。だが、藤原家の物とは氏の長者の物という事だ。つまり、時平の物であって定国が手を出せる物ではない」


「じゃあ、定国の財産は何処にあるんだ?」

「分家として受け継いできた資産に自分の代で殖やした土地を加えた物さ」

「其れも正規の私有地じゃあないのか?」

「違うな」


 氏の長者は藤原家の持つ技能集団を意のままに動かす事が出来るが、分家の主は単なる金持ちに過ぎない。正規の開拓を進める能力は限られていただろうと、須佐は持論を述べた。


「藤原の分家や、貴族の多くは名義貸しによる寄進地系荘園に多くの収入を頼っていたんだ」

「荘園整理令は死活問題だな」

「そうさ。政権内でトップに準ずる地位にあった定国や源光、藤原菅根達は整理令を闇に葬る為に道真を左遷したんだ」

「時平は上手く乗せられたという事か?」


 源光は元々皇族である。臣籍に降ろされた時点で大した財産は持たなかった筈だ。元皇族としての「不輸ふゆの権」(公卿や一部寺社に対する免税制度)を頼りに、寄進地を集めて蓄財に励んだ事は容易に想像できる。


 定国達は時平の敵愾心を焚き付けて、道真を追放する旗印として担ぎ出したのであった。


「だが、時平も莫迦ではない。『道真レポート』を読んで整理令の必要性と、皇室及び藤原家・・・には実害がないという事を理解したんだ」


 荘園整理令には醍醐天皇即位以降開拓された勅旨田を廃止する事が含まれている。皇室自ら私有地への制限を許容するという事だ。


 現実には勅旨田の多くは荒れ地などの名目的な物で、まともな収入源には成りえていなかったらしい。


「時平が死んだ後も、源光は荘園整理令を有名無実の物にしようと画策していたのだろう」


 公文書を偽造して、違法開拓地を正規の墾田として認めさせる。其の位は容易い事であった。


―――――――――


 天神の中枢、即ち梅若には道真の遺志が伝えられていた。源光の脱法行為は断じて許せる物ではなかった。


「懲りぬ御仁よ……」


 梅若も既に不惑に達し、天神の長としての風格を身に付けていた。土師寺境内の一隅に結ばれた小さな庵の中であった。


 天神の祟りとして光を仕置きする事により、公卿達の違法荘園拡大を抑制しようというのが、梅若の考えである。


 土地私有の拡大其の物は止める事が出来ない流れであると悟ってはいた。しかし、市場経済が根付かぬ現状で荘園制を無秩序に乱立させれば、農業システムに混乱を来たし、経済全体が崩壊する危険がある。


 国家全体の生産力が向上し、貨幣経済が行き渡るまで、一定の私有地統制が必要だと道真は考えたのだ。


 荒事を避けようと、梅若は光の屋敷に忍び、天神として夢枕に立って警告を与えたが、光には効果がなかった。既に六十九歳の高齢であったが、光は豪胆だった。


 夜毎の囁きや光物も意に介さず、酒を喰らって眠りに就いた。


「怨霊が何じゃ。下らぬ。どうせ吾が余命など幾らも残っておらぬわい。取り殺したくば、殺せばよかろう」


 そう言って、素知らぬ顔であった。


「右大臣があのような様子では、他の公卿達も荘園集めに熱を上げよう。まともな開拓をする者が莫迦を見る」


 本来公田である土地を不当に占有して私有地化し、其れを開拓地として届け、公卿に寄進して「不輸・不入の権」を悪用する地方地主が横行する有様であった。


「御高齢にも拘らず、鷹狩等に興じてまだまだ壮健であるらしい。放っておけば八十、九十までも生きられて権勢拡大の亡者と成るやもしれぬ。気は進まぬが、祟りに遭うて貰うとしよう」

「畏まりました」


 今や梅の特殊部隊を率いる立場となった鳶丸が、命に応じた。


「相手は老人じゃ。血生臭い事は避けよ」


 梅若は、鳶丸に注文を付けた。鳶丸は無言で頭を下げた。


 延喜十三年(九一三年)三月十二日、源光は自ら馬を駆り、鷹狩の先頭に立っていた。此の日は獲物が多く、光は上機嫌であった。


「白鳥ばかりか鶴まで仕留められるとはな。吉兆、吉兆」


 変事が起きたのは、水鳥を求めて沼のほとりを進んでいる時であった。突如愛馬が棹立ち、大きく暴れた。轡を取っていた小者が鎮めようとしたが、馬は光を載せたままバランスを崩し、沼の水面に倒れ込んで行った。


 堪らず、光は大きな水音を立てて沼に転げ落ちた。


「大変じゃ、誰か! 誰か!」


 従者たちは動転して右往左往するばかりであった。だが、光の乗馬を牽いていた小者がいち早く立ち直り、着衣を脱ぎ棄てると身を躍らせて沼に飛び込んだ。


 岸に残された者達は、固唾を飲んで成り行きを見守っていた。


 小者は鳶丸であった。前もって光の屋敷に入り込み、馬の世話に長けた所を見込まれて轡を取るまでに信用を得たのだった。


 沼に差し掛かった所で隠し持った馬針で馬の鼻面を刺し、鎮める振りをして沼に落としたのであった。


 濁った水中を五、六尺潜ると、光の体に手が掛かった。落馬した衝撃で強かに水を飲み、既に光は気絶していた。帯紐を掴むと、鳶丸は沼底を目指して更に深く潜って行った。


 沼の底で適当な大きさの岩を見つけ、光の足首を帯紐で縛りつける。是で暫くは、死体が浮く事はない。


そうしておいて、鳶丸は一人沼底を進み、其の場を離れた。従者達がたむろする岸から半町程離れた物陰に鼻先だけを出して、息を繋いだ。


 後は騒ぎが静まるのを、辛抱強く待つだけだった。


 後から飛び込んだ鳶丸さえも上がって来ないのが判ると、従者達は更に慌てた。屋敷に知らせに走る者。裸に成って水に入る者。竹竿を探しに行く者と、てんでに拙い努力を始めたが、一刻が過ぎると諦めの空気が皆を包んだ。二刻過ぎ、夕闇が落ちると、一同は肩を落として引き揚げて行った。


 鳶丸は更に半時水中に身を潜め、戻って来る者がいない事を確信した後、水から上がった。


「天神の神威を疑わねば、今少し長生き出来た物を……」


 迫り来る冷気に身震いを一つすると、鳶丸は夜の闇に溶け込んで行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る