第二十六章:怨霊猛威

 もう是以上は見つからないと確信するまで、葛彦は遺骸を拾い集めた。遺体を収めた袋を更に木箱に納めると、背負子に背負って、葛彦は山道に入って行った。万一追手が戻っても見つからない場所に埋葬する為である。


 埋葬を終えて葛彦が小屋に戻って来たのは、正午を大きく回った時分であった。背負子を下ろすと、葛彦は小屋に入った。道真が使っていた文机前に座り、小さく裂いた紙片に文字をしたためた。


 其の紙片を手に、今度は小屋の裏手に回る。


 裏には鳩小屋があった。


 葛彦は其の中に入り、一羽の鳩を選んでそっと掬い上げた。脇に挟む様にして固定し、先程の紙片を脚環に入れて鳩の脚に通す。そうしてもう一度表に出てから、鳩を空に放った。


「頼んだぞ」


 暫く上空で輪を描いている鳩に、そう呼びかける。鳩は方角を掴むと、風に乗り、西を目指して飛び去った。


 葛彦が放ったのは伝書鳩である。エジプトでは紀元前三千年頃に使われていたという説がある位、其の歴史は古い。伝書鳩に用いられるカワラバトは飛鳥時代に日本に伝わっている。


 しかし、日本で伝書鳩が用いられる様に成ったのは江戸時代の事とされる。連絡に鳩を使うという技は、最先端通信テクノロジーであり、大陸事情を深く学んだ道真だからこそ平安の時代に実践できた事である。


 勿論、其の実用化に汗を流したのは葛彦であった。


 防府から大宰府まで直線にして約百二十キロ。鳩は一刻程で目的地に到達した。鳩を迎えたのは鳶丸であった。


 取り出した紙片には一文字、「急」とだけ書かれていた。其の文字の乱れから、只事でない事が察せられた。


 伝馬を乗り継ぎ、鳶丸は一日で防府に駆け付けた。


「葛彦さん、何事ですか?」


 庵に辿り着くや、草鞋を脱ぐのももどかしく、鳶丸は尋ねた。


「主様が亡くなられた」


 葛彦は、むしろ淡々と告げた。


「何と言った? 主様が亡くなられたと?」

「そうじゃ。藤原菅根からの追っ手に囲まれ、雷玉いかずちだまで自裁された」

「まさか!」


 鳶丸には俄かに受け入れ難い事であった。

 葛彦は、感情をなくした声で事の次第を説明した。


「土師様の御屋敷に、菅根の手の者が入り込んでおったのじゃ。其奴に此の庵の在処を知られてしもうた」

「まだ密偵がいたというので?」

「間違いない。儂が此の手で捕らえて、吐かせた事じゃ」


 葛彦は事件の際、追っ手に同行していた密偵の顔を確と見定めていたのだ。道真の爆死に驚いて逃げ帰っていた密偵を探し出し、前夜の内に拉致していた。


「其の密偵は何処に?」


 鳶丸は、勢い込んで尋ねた。


「土の下じゃ。儂が埋めた」


 葛彦は、事もなげに答えた。


「只の使い走りじゃが、生かしても置けまい」


 葛彦の目は以前とは打って変わり、深い闇を映していた。鳶丸は、思わず目を背けた。


「既に梅若様にも鳩を飛ばしてある。もう報せは届いていよう」


 大宰府に向けて放った鳩とは別に、葛彦は河内の土師寺に向けても伝書鳩を飛ばしていた。梅若に報せが届けば、其処から各地の天神使徒に情報が連鎖する。


 道真の築いた情報ネットワークが、皮肉にも道真自身の死を伝える機能を果たしていた。


「もう此処は仕舞いじゃ。河内に行くぞ」


 感情の消えた声で、葛彦は鳶丸に告げた。既に自らの旅支度は出来上がっていた。


「今日は休め。明日の朝、船に乗り込む」


 船も葛彦が仕立てさせた、天神配下の便船である。小型だが、船足は速い。星さえ見えれば夜も帆走は出来る。船頭は昼夜交代で船を操る事に成っていた。


 鳶丸は、尋常でない葛彦の様子を気遣った。


「河内に行ってからどうする積りですか?」

「菅根を仕置きする。其れから先は梅若様次第じゃ」


 葛彦の声には、有無を言わせない響きがあった。


「みなしご同然の儂を拾い上げて下すったのは、主様じゃった。其ればかりか、儂に文字を習わせ、菅家文庫を自由に使わせて下すった。造り物を任せて下すったのも、主様なればこそじゃ」


 道真が葛彦を屋敷裡に住まわせたのは、まだ二十歳に成るか成らぬかの頃であった。まだ頑是ない葛彦が路頭に迷っている所を拾い上げ、下女に預けて育てさせたのだ。流行り病で親を失った葛彦は、道真に拾われなければ飢えて死ぬばかりであったろう。


 下女は気立てのよい女であった。事ある毎に葛彦に道真の恩を忘れるなと教えた。御前の命があるのは、主様の御情けがあればこそだと。


 基より道真の為に身を捧げる積りの葛彦であった。物心が付くにつれ、道真の学識人格は葛彦の憧れの的となった。或いは、記憶にすらない父親の面影を、道真に求めていたのかもしれない。


 育ての親となって呉れた下女が他界してからは、道真の為に働く事が葛彦の人生すべてであった。只道真を喜ばせる事が出来れば良い。其れ以外に望みはなかった。


 道真亡き今、葛彦に生きる目的はない。死んでしまおうかと思ったが、道真は其れを望むまいと考え直した。天神の摂理を支える事を、道真は自分に対して望むであろうと考えたのだ。


 ならば、自分はまだ天神の使徒である。天神の命に従って使命を果たそうと心を決めた。


「藤家を根絶やしにして呉れようかと思うたが、主様ならそうは言われまい。藤家には藤家の役割がある。藤家なくして皇家の繁栄もないのじゃ。吾等天神は、藤家が道を踏み外した時の盾と成り、鉄槌と成る役割を果たすのみじゃ」

「分かりました。私は葛彦さんに従って、何処までも参りましょう」


 既に大宰府や鴻臚館での交易実務は軌道に乗り出していた。唐人の一部は大宰府周辺に根を下ろしつつある。大宰府側にも唐人から漢語を学ぶ役人が増えつつあった。


 鳶丸が鴻臚館を去っても、入唐貿易の灯が消えることは最早ない。鳶丸も天神の使徒として道真への恩を返したいと思った。


「仕置きと成れば、荒事もありましょう。私ならば梅の体術にて少しはお役に立てましょう」

「うむ。頼もう」


 少し所ではなかった。梅の一族の中でも鳶丸の技は飛び抜けており、一二を争う腕前であった。まだ二十歳前の若さであったが、其の動きの素早さから「風神」の異名を取っていた。


「梅若様が何と言うか分らんが、菅根だけは其のままに済ませぬ。下種の根性で主様を追い回し、縄目に掛けようとした恨み、晴らさずにはおれん」

「御許しがなくとも菅根様を討つという事ですか?」

「そうじゃ。儂一人でも菅根を討つ覚悟じゃが、御前が手引きをして呉れれば助かる。一緒に働いて呉れるか?」

「勿論です。此の体お預けしましょう」

「主様も喜ばれよう。雷玉で自裁される前、主様は御前の名を呼んでおられた。きっと、筑紫まで付いて来た御前を吾が子の様に思われていたのじゃろう」


 鳶丸は瞼を抑え、亡き主を偲んだ。

 話が成ると、二人は夕食を取り、明朝の出立に備えて早々と眠りに着いた。


――――――――――


「葛彦、急いては成らぬぞ」


 土師寺の下人小屋で、梅若は言った。道真最期の様子について、葛彦から話を聞き取った後の事である。


「天神の祟りがある事を十二分に知らしめてからでなければ、菅根を討ち果たす意味がない」

「へい。分かっておりやす。只の仇討にする積りはございやせん」


 葛彦は素直に頷いた。直ぐに菅根抹殺の許しが出るとは思っていない。菅根を討つ、其の事さえ決まれば充分であった。


「うむ。ならば菅根を討つ仕事は、御前達に任せよう」


 梅若は、葛彦と、其の後ろに控えた鳶丸に告げた。


 其れから二年。天神使徒が祟りの噂を広める中、葛彦と鳶丸は菅根討伐の準備を進めた。


 菅根の屋敷を探り、寝所の場所を含む絵図を認める。鳶丸は更に体術を磨き、葛彦は侵入や戦いに用いる武器や道具を拵えた。


 或る日二人は梅若の許に呼び出された。


「永らく待たせたな。いよいよ菅根を討つべき時が来た」

「お許しを頂けるので?」

「うむ。此の二年、只祟りの噂を流していた訳ではない。主様左遷の事を含めて、藤家の内情を探って参った」


 其れは延喜六年の藤原定国ふじわらのさだくにの死が切っ掛けだった。四十一歳という若さでの死に不審を覚えた梅若は、其の死に裏がないかどうか調べ始めたのだ。調べを進めるにつれ、藤家内部の権力争いが浮かび上がってきた。


 藤原定国は藤原高藤ふじわらのたかふじの長子である。父高藤は醍醐天皇の外祖父であり、源維城みなもとのこれざねとして臣籍に生まれた醍醐天皇が皇太子に返り咲いたのは高藤の後ろ盾による物である。是は、藤原基経の力によって臣籍から皇族に復帰し天皇の座に着いた父宇多天皇のケースと瓜二つであった。


 基経-時平という世襲権力構造に対立して、高藤-定国という勢力が覇権を争っていたのだ。


 高藤は晩年大臣の位に昇ろうと望んだが、左大臣は時平、右大臣は道真に占められており、大臣の空きがなかった。勿論いきなり太政大臣に着く事は出来ないので、此の二人が動かない事には高藤は大臣には成れなかったのだ。


 道真が異例の出世を遂げて右大臣に昇り詰めた背景にはは宇多天皇の恩寵もあったが、高藤の大臣就任を阻もうとした基経の画策があった。当然道真は、高藤、定国に恨まれる事に成る。故に昇進を遠慮し、再三離任を願ったのだ。


 しかし、宇多上皇は道真の離任を許さなかった。其れは基経の遺志を引き継いだ良世の力による物だった。高藤は止むなく、内大臣という約百年もの間途絶えていた役職を復活させ、是に着くしかなかった。内大臣就任後僅か二カ月で、高藤は此の世を去っている。死して後漸く、正一位太政大臣の官位を賜ったのは、此の世に恨みを残さぬ様にという配慮であったかもしれない。


 定国は是を恨んだ。


 時平を憎んだのは勿論の事、右大臣の座を渡さなかった・・・・・・道真を其れ以上に恨んだ。そして、藤原菅根を引き込み、道真を讒訴したのだ。


 延喜四年(九〇四年)醍醐天皇の第二皇子保明親王が僅か二歳で立太子するや、定国は春宮大夫とうぐうのだいぶとして其の後見に着いた。宇多天皇の外戚として地位を築いた基経-時平ラインに対して、醍醐天皇の外戚としての権力構築に励んでいたのだ。因みに娘の和香子を醍醐天皇の女御として後宮に送り込んでもいた。


 一方、時平は妹の穏子を醍醐天皇の女御としていた。其の間に生まれたのが保明親王である。


 定国と時平は、保明親王を巡って覇権を争っている真っ最中であった。


 定国が春宮大夫に就くと、流石に時平も定国の野望に気付いた。せっかちな時平は、最も手っ取り早い解決策を選んだ。即ち、定国暗殺である。


 定国の唐突な死は、時平が仕組んだ謀殺であった。


 是で時平の邪魔をする者はいなくなった。後は時期を見て娘の一人を保明親王の女御にすれば、外戚政治の基盤を安泰にする事が出来る。しかし其れは時平と其の子孫のみの安泰を目指す政治であって、天神の目指す皇国の姿ではなかった。


 梅若は菅根の成敗だけでなく、時平の暗殺も決意したのであった。


「主様は、定国と時平の争いに巻き込まれたのだ。政を私し、罪なき者を犠牲にする。時平を其のままにすれば、藤原は是からも他者の血を流して己の利を貪るであろう」

「相分かりやした。定国の走狗菅根は、吾ら二人の手でしかと始末致しやす」


 闇夜を選び、鳶丸の手引きで菅根の屋敷に忍び入った葛彦は、自ら製作した小型の火器「柘榴筒ざくろづつ」を以って菅根を討ち果たしたのだった。柘榴筒とは言わばショットガンであり、鉄の散弾で敵を引き裂く近接対人兵器であった。


 死体と現場に残された散弾を見て、人々は道真の怨霊が柘榴を吐き付けたかと連想した。


 菅根の死に様は、誰が見ても異常死である。定国の早世と結び付けて、道真の祟りは動かせぬ事実として宮人の信じる所と成った。


 時平は、怨霊の影に怯えた。何しろ道真は自らの命によって殺した様な物である。次は自分が狙われると思うのが当然であった。


 其の怯えに拍車を掛ける様に、天神使徒は祟りを仕掛けた。夜な夜な時平の寝所の床下から呪いの言葉を囁いた。時平は家人に床下を見張らせたが、何度探しても床下に人影はなかった。どれだけ用心しても囁きを止める事は出来なかった。


 葛彦は、時平の寝所に伝声管を仕掛けさせていた。銅管を地中に埋め、ラッパの様に広がる開口部を地面すれすれに設置した上で、布を張って巧みに擬装したのだ。鳶丸は時平達の警戒を他所に、寝所から遠く離れた物陰に身を潜め、呪詛の言葉を囁いた。


 鳶丸が潜む物陰に衛士が近付きそうな時は、別の仲間が彦玉を放って敵の目を引き付けた。


 夜毎眠りを妨げられ、時平は体力を失って行った。昼の間に浅い眠りを貪ろうとするものの、風の音にも怯え、眼を覚ましてしまうのだった。頭痛と下痢が続き、胃が食物を受け付けなく成って行った。


 藁にも縋る思いで醍醐寺の貞崇に加持祈祷を願ったが、道真が死んで怨霊と成った今、最早自分の法力ではどうにも成らぬと言う。代わりに紹介されたのが天台僧浄蔵であった。三善清行の子であり、此の時若干十九歳であったが、既に密の奥義を極め祈祷に霊験あらたかであると言う。


 だが、三善清行は道真の盟友であり、天神の盟友であった。其の子浄蔵は、時平の寝所近くに祈祷所を設け、七日七夜の祈祷を行った。


 既に憔悴し切った状態の時平である。昼夜を問わぬ読経の声明に鳴り物まで加わり、転寝うたたねさえ出来なくなった。うわ言を口走り、昼でも悪夢にうなされた。


「道真じゃ! 彼奴が其処におるぞ! 吾を取殺しに来たか?」


 突然、時平は蒲団から跳ね起き、叫び出した。空を見詰めながら、よろよろと部屋の中を歩き回る。


「はははは。迷うたか、道真。吾を誰と思うか? 左大臣にして藤原長者。卑賤の身で触れる事叶おうか! 下がれ、下がれ!」


 時平はぐるぐると回り出し、壁にぶつかって倒れ、起き上がっては走り回った。


「はははははは……。うあああ!」


 部屋の中央で雄叫びを上げると、時平は頭を抱えて朽木の様に倒れ伏した。

 其れが、左大臣時平の最期であった。

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