第二十五章:魔王昇天
道真を大宰府に左遷した後、藤原時平は藤原菅根を
菅根は都を離れる事を厭い、自分の身代わりに手の者を大宰府に送り込んだのだ。其の者に道真の動向を逐一監視させる事を条件に、自らは都に留まる事を許された。
道真には、常に「影」が付き纏っていた。
「主様、都から何やら蠅が一匹付いて来た様で御座います」
任地での暮らしを始めてから数日経った頃、鳶丸は道真にそう告げていた。
道真は、面白い事を聞いたかの様に微笑んだ。
「都の蠅とな? 是は懐かしい。ようも遙々と飛んで来た物よ。良い、良い。好きにさせて置け」
「構いませぬので?」
「隠さねばならぬ事も、盗られて困る物もないわ。都の蠅を飼ってみるのも一興であろう」
道真は、己の動向を筒抜けにした方が時平は安心するであろうと考えた。
「蠅一匹追った所で、別の蠅が飛んで来るだけじゃ。捨て置け、捨て置け」
幸い影は一人だけであったので、唐商人を招く時等は囮を使って別の場所に誘き出したり、影が寝静まった事を見届けてから事を起こした。
影から時平への報告によれば、道真は館から他出する事もなく、静かに謹慎生活を続けていた事に成っていた。
其れはある意味正しかったのであり、狙い通り初めの内は時平を安心させた。しかし、時平は猜疑心が強かった。
平穏無事が半年も続くと、何もない事が却って不安に思われて来た。実は、自分の知らない所で道真は陰謀を巡らせているのではないのか?
其れは一面では真実であったのだが。
道真は時折憐れを誘う手紙を都に書き送っていたが、時平の心に立つ波風を長くは鎮める事が出来なかった。
「本当に道真は大人しく幽閉に甘んじているのか?」
遂に「影」は時平に命じられ、一夜道真の館に忍び入った。陰謀の証拠はないかと、館の裡を探し回ったのだ。無論、道真主従は此の侵入に気付いていた。気付いていたが、好きにさせた。
見つかって困る様な物等、身の回りには置いていない。気の済むようにさせる事で、時平が安心して呉れれば良かった。
そんな騙し合いが二年続いた。
「そろそろ良かろう」
道真は、予ての企て通り自らの「病死」を演出する事にした。薬師を呼んだり、夜中に苦しむ様を演じたり。
そして遂に、延喜三年二月二十五日、道真は息を引き取った。
そういう事にした。
道真の死に立ち会ったのは、鴻臚館付きの薬師玄理であった。李親子の一件を通して道真の知遇を得た玄理は、其の人格識見に心酔した。道真も又、玄理、白朝師弟の人柄を見込み、天神の構想を打ち明けて協力を求めた。
大宰府公認の玄理が脈を取り、目蓋を捲って道真の死を確認したと言う。大宰府の役人は、是を事実として都に報告するしかなかった。
後は簡単である。咎人の死であるから弔いとてない。空の棺桶を仕立てて運び出せば、其れが「遺骸」という事に成る。
「遺骸」は、味酒安行が埋葬した。
五十九歳という高齢のせいもあって、道真の死は自然な事と受け取られた。道真は密かに大宰府を離れ、別人として余生を送る筈であった。
道真に付き纏っていた「影」は、使命を終えて都へと帰っていった。最早道真の行動を邪魔する者は、最早誰もいない筈であった。
ところが、思いも掛けない事が起こった。
道真の陰謀を暴こうとして何の手柄も上げられなかった藤原菅根は、何か証拠を掴もうと、道真の死後新たな密偵を放った。諦め切れずに調査を続けたのだ。
其のターゲットは、土師信貞であった。
菅根は、言ってみれば引き際を知らぬ駄目管理者だったのだ。現代にも良くいるタイプである。会社を駄目にするのは、こういう人間だ。
しかし、事もあろうに菅根の悪あがきが大当たりを引いた。
原因は道真側にもあった。
道真の死と天神の誕生を印象付けようと考えての仕掛けであったが、周防国酒垂山の奇瑞は菅根の目を引く事にもなった。
防府に何かあるのではないか。そう疑いを掛けたのだ。
松崎神社を造営する土師信貞の動向を、菅根の密偵が監視していた。今度の男は菅根の屋敷に下働きとして潜り込んでいた。
だが、「もしかしたら」という程度の監視である。密偵も熱意に欠けていた。其の為、天神使徒も監視に気付けなかったのだ。
信貞に繋ぎを取る時は道真側からと取り決めていたのだが、道真の「死」から三年経ち、信貞の警戒心も緩んでいた。迂闊にも家人を道真の許へと使いに出してしまった。
其の使いに菅根の密偵が偶々目を付け、ほんの気まぐれに跡をつけた。行き着いた先は酒垂山の麓に結ばれた庵であった。
其処には、何やら品の良い老人がいた。まさか其れが道真とは、初めは密偵も気付かなかった。何しろ死んだ筈の人間である。唯、周りの人間の態度から、身分ある人ではないかと思うに留まっていた。
密偵は都の菅根に、怪しい老人の事を報告した。菅根は時平に報告を上げ、謎の老人を見張る事にした。
念の為に道真の顔を知る人間を周防に送った。是が当たった。
死んだ筈の道真が周防にいる。其の知らせは、都の藤原家に激震を走らせた。
「馬鹿な! 道真が生きておると? 彼奴め、死を装って何を企んでおるか……」
時平は激怒し、そして不安になった。
殺せば祟ると言われた魔人道真である。自由の身と成って、藤原家と自分にどのような害を為そうとしているのか?
「兎に角道真を捕らえよ! 都に引き連れて参れ」
時平は、菅根にそう命じた。
防府の役人は土師信貞の部下であり、道真の息が掛かっていると考えねばならない。追手は都から派遣するしかなかった。
万に一つも取り逃がす事がない様に、二十人もの衛士を選りすぐり、一路防府に走らせた。
あっという間もなかった。早朝、道真の隠れ家に辿り着くや否や、都からの追手は小屋を取り囲んだ。
「謀反人菅原道真! 藤原菅根様の命により都への同道を命じる。神妙に縛につけ!」
屋内に踏み込んだ頭目格の男が、道真を見据えて叫んだ。
書き物の途中であった道真は、静かに筆を置いた。
「断ろう」
「何を申すか!」
道真は眉宇さえ動かさず、捕手に告げた。
「吾既に人にあらず。雷神にして天満大自在天神なり。
「何! 手向かう積もりか?!」
道真は静かに立ち上がり、懐に手を入れた。
「おのれ、動くな!」
捕手は道真を取り押さえんと、肩に掴み掛った。
道真は半歩踏み出し、体をずらしながら半身となって、伸びてくる腕を取った。すっと腰を落としながら、相手の懐に入り込む。
とん。
と、丸めた腰が相手の体に当たったかと思うと、捕手はぐるんと宙を舞った。
「ぐうっ!」
捕手は強かに背中で床を打った。道真は後も見ず、表に出た。
「逃すな!」
残る捕手が、わらわらと道真を囲んだ。
「騒ぐな!」
道真は、大音声で捕手を一喝した。
辺りを見回すと、小屋を取り巻く広場の一角に、縄で縛られ猿轡を噛まされた葛彦が転がっていた。抵抗する暇もなく、追手に取り押さえられたらしい。
主を守ろうと必死にもがいているが、縄目は厳しく、芋虫の様に地面で身を捩るのが精一杯であった。
「吾は此の世の物ならず。冥府にありては日本太政威徳天にして、十六万八千の魔縁の長なり。潜上なり、藤原菅根。不浄の身にて吾を裁かんとは」
道真は物に憑かれた様な目付きで、追手等を睨み付けた。
衛士団の頭領は道真に投げられ、小屋の中でまだ倒れたままである。残された物は、人数は多くても烏合の衆でしかなかった。道真の気魄に圧されて、遠巻きにするのが精一杯だった。
「葛彦、世話を掛けたな。吾は是より天に昇る。吾が最期、汝が見届け皆に伝えよ」
まるで幼子に語り掛ける様な優しい声で、道真は告げた。
懐に右手を入れて、鉄の玉の様な物を取り出す。其れを見た葛彦が、一層呻き声を大きくして身をくねらせた。
「命を惜しむ者は下がりおれ。是より雷を呼び、天に帰る。吾が精霊は天に満ち、地を蔽いて祟りを為さん。藤家の輩、畏れかしこむべし。天道に背く事是あらば、吾雷神と成りて飛び来たり、たちどころに是を討つべし。おんあぼきゃあ、べいろしゃのう、まかぼだら、あにはんどま、じんばらはらはりたや、うん……」
真言を唱えながら、道真は鉄丸から出ている紐を引き抜いた。すると、しゅっと音を立てて何かが燃え始め、鉄丸から細く炎が噴き出した。
「さらばじゃ、鳶丸!」
其の場にはいない鳶丸に一声掛けると、鉄丸を胸に抱いて眼を閉じた。
どどーんと上がった大音響と、体を打つ爆風とどちらが早かったであろうか。道真を取り巻いていた衛士達は、大半が爆風に吹き飛ばされて大地に転がった。
爆心に近かった数人は、鉄丸の破片に直撃されて血だらけになっている。頭や胸を撃ち抜かれた者は、即死の状態であった。
皆、爆音と爆風に度肝を抜かれ、何が起こったか事態が把握できない。無理もない事である。此の時代に火薬という物を知る人間はいないのだ。
正に魔力であり、雷が落ちたとしか言い様がない。
何が起きたかを正確に知るのは、芋虫の様に打ち捨てられた葛彦のみであった。身を捩る力さえ最早なく、ぼろ屑の様に転がり、猿轡から嗚咽を漏らしていた。両眼からは涙が溢れて、泥だらけの顔に黒い筋を付けていた。
涙を流しながらも、其の目は先程まで道真が立っていた場所をしっかりと見続けていた。其の場所には主の姿はなく、抉れた地面と空に向かって立ち上る黒煙が見えるだけであった。
道真の体は肉片となって辺りに飛び散った。怪我のない衛士達にも道真の血肉が降り懸かり、血みどろの姿の者が多い。互いの姿を見ては驚き、恐怖の声を上げ始めた。
「うわわわわ。御助けを、御助けを……」
「何事が起きたのじゃ? ああ、血が、血が! おおお」
一人が逃げ出すと、後は止め様もなく我先にその場から駈け出して行った。葛彦の事等、顧みる者もいない。
「ううう……」
葛彦は一人残されて、尚も主が立っていた地面を見つめていた。
結局葛彦が縛めを解かれたのは、他出していた婢が帰って来た一刻程後の事であった。
「主様……」
よろよろと立ち上がると、葛彦は道真が爆死した場所に近づいた。
「こんな馬鹿な事が……。何で主様が死なねばならんのか……?」
立ち止まっては、今は亡き主の肉片や骨の欠片を拾い上げ、懐に入れる。
「儂が付いていながら、こんな事に……。嘘じゃ、嘘じゃ……」
遂に爆発の跡まで辿り着くと、葛彦は爆発を受けて抉れた地面の土を両手に握り締めた。
「ああ……。主様……」
葛彦は両手の土塊に顔を埋めて、咽び泣いた。腸を絞られる様に、呻き、身を捩る。
一頻り、涙が枯れるまで嗚咽を上げた後、葛彦は両手の土を捨て、立ち上がった。其の目に最早迷いはない。
「おめは土師信貞様のお屋敷まで走り、夕刻に酒垂れ山の葛彦が伺いたいとそう言って来い。そしたら此処には帰って来んでええ。家に帰れ」
「へい」
婢は辺りに飛び散る肉片を見て怯え切っていたが、葛彦に命じられるまま走り出して行った。
葛彦は小屋の裏手に回ると、大きな葛布の袋を携えて広場に戻った。
懐に納めていた肉片と骨片を取り出し、葛袋に入れる。更に広場を歩き回って道真の遺骸を拾い集め、葛袋に納めた。
頭部が最期まで見つからなかったが、木立の中まで捜した所、落ち葉に埋もれる様に転がっていた道真の首を発見した。
「主様」
葛彦は道真の首にそっと呼び掛けると、手拭いで丁寧に其の面を拭き清めた。
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