第二十四章:金鮎の里
鴻臚館と博多商人の話は、こんな所だ。
道真は産業と貿易の種を蒔いた。其れが育つまでには長い努力と時を要した事だろう。ローマは一日にして成らずっていう訳さ。
土師氏の拠点、つまり天神ネットワークのアジトの一つが周防の国だと言ったのを覚えているかい? そうそう、当時の国守が土師氏だったんだ。土師信貞という男さ。
伝承によれば、大宰府へ赴く途中の道真は土師信貞の許で数日を過ごしたと言う。
一族の長の来訪だ。随分と歓待したらしい。
道真は喜んで、礼の品物を置いて行った。
其れが
菅原家の家宝だったと言われる金の鮎は、防府天満宮に伝えられていたと言う。しかし、何時の時か失われてしまった。現在は再現された金鮎十二尾が保管されている。特別な機会にのみ一般公開されているそうだ。
だけどさ、流刑地に赴く途中に金の鮎なんて物を持ち歩いている訳がない。土師信貞との接触は本当だろうが、金の鮎十二尾というのは寓話の類さ。
ええ? 寓話って何の喩えかって? いいかい? 鮎は川の魚だろう? 川で生まれ、海で育ち、また川を遡って産卵する。
「
鮎っていうのは、川底に綺麗な砂が堆積した所に産卵するんだそうだ。そういう習性なのさ。で、「
砂金が採れる場所を暗示しているのさ。
最後に十二尾という数だ。十二という所に意味がある。十二と言われたら、何を思い出す?
十二支だ? 成程。良い答えだ。子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥。是は何を表していると思う?
時刻? 悪くないね。正解は
周防の土師氏が繁栄する様に、基盤と成る資産を残した訳だ。
其の外にも道真らしい痕跡は残っているぜ。防府天満宮の裏手は、
酒垂山では焼き物に使う土が採れたらしい。酒垂窯という古窯が開かれている。後には、此処で取れた土を使って萩焼が焼かれたりしたんだ。由緒正しい窯だったのさ。
其の所為か、防府は今でも窯業の町として知られている。此処にも土師の里があったんだ。
山口エリアには長門の国と周防の国があったが、其のどちらにも鋳銭司が置かれていた。秋吉台の一角にある
周防鋳銭司は道真の時代には、全国で唯一の鋳銭司と成っていた。銅が枯渇して、余所では銭を造れない状態に成っていたんだな。
周防鋳銭司が九五〇年頃まで鋳銭を行えたのは、長登銅山に支えられての事だろう。
一箇所で全需要を賄える程、周防鋳銭司の能力が高かったとも言える。周防土師氏が其れだけ力を持っていたという訳だ。
筋のいい鉱山と土師の里が近接していたのは偶然じゃあない。そういう土地だからこそ土師氏が住み着き、国司まで一族から出す様に成ったのだろう。
延喜三年(九〇三年)、道真は死んだ。
高齢でもあり、流刑同様の過酷な暮らしに耐えられず、病死した事になっている。
隙間風が酷いの、雨漏りがするのと散々暮らしの辛さを都に訴えた後、病気に苦しむ様を伝えて置いた訳だ。脚気が酷いなんて泣き言も書き送っていたらしい。
そして延喜三年二月二十五日に失意の裡に命を落としたと、そういう事にしたのさ。
道真が「死んだ」時、酒垂山に紫の雲がたなびく
空を光らせたり、紫雲を靡かせる位、梅一族にとっては造作もない。純真無垢な田舎者を騙す事等、朝飯前だったに違いない。因みに火薬の原料である硝石を燃やすと紫色の炎を激しく上げるらしいぜ?
直ぐに土師信貞は、松崎神社、後の防府天満宮を造営し始めるのさ。此の頃はまだ道真の祟りは、人々に意識されてはいなかった訳だが。
都合の良い事に、道真の「検死」は行われていない。味酒安行が遺体を載せた車を牛に牽かせていた所、或る所でどうにも牛が動かなくなった。是は「此処に埋めよ」という道真の御告げだと思って、其処に埋葬した。其れが今に伝わる太宰府天満宮の場所だと言うんだな。
埋めちまった物を、掘り出して確かめる事は出来ないだろうさ。「神になった」と言われている死体だからね。そんな罰当たりな事は出来る訳がない。
そして、祟りが始まった。
道真の祟りとは、天神使徒が仕掛けたプロパガンダさ。平安の時代だ。疫病だ、飢饉だなんてのは日常茶飯事とも言える。其れを捕らえては、
「どうも道真の祟りらしい」
なんて囁く訳だ。
身に覚えは痛い程あるんだから、そりゃあ気になるわな。其処此処に、道真の存在を滲ませる訳だ。夢枕に立たせたり、梅の花を残しておいたり。
そんな小細工は梅の独壇場だ。ついでにお馴染みの光物に御破裂山鳴動さ。娯楽の少ない時代の事だ。巷は噂で持ち切りに成るわな。
――――――――――
「また光物が飛んだそうやな」
「またかいな?」
「是はもう、悪い事の前触れとしか思えんわな」
辻で行きあった顔見知りの商人同士が、足を止めて世間話に興じている。夏の事、噴き出る汗を拭いながら木陰に身を寄せての事である。
「あんさん、聞いてなはるか?」
「聞いてるて、何を?」
「天神様の事ですわ」
「天神様? 何処の神さんやろ」
「大宰府で亡くなりはった、元の右大臣はんの事やがな」
小太りの男は渡りの鍛冶で、里から里へ旅をしながら鍋釜の鋳掛けをやったり、鎌や鍬の打ち直し、研ぎ直し等をして暮らしを立てていた。
「菅原様いわはるそうでんな」
尋ねた男の方は長身で、布や糸等を背負って、村々に売り歩いていた。
「そや。其の菅原様が亡うなって、天満大自在天神いう神さんに成りはったいう話やがな」
「ふーん。其の何やら天神さんがどないしたん?」
「祟りやて。謂れのない罪を着せられて西国に流された事を恨んではる言うんや」
渡り鍛冶の男は、辺りを見回し、声を潜めて言った。
「ほんまかいな。そら、御祀りせなあかんのと違うか?」
「そうやな。祟り神様は御祀りするに限るで」
道真の死後、都では天変地異や災害が続き、人々の暮らしにも影を落としていた。人心は不安に満ち、何かに縋りたいと願っていたのだ。
道真他界の翌年、延喜四年に松崎天神(現在の防府天満宮)が創建されたのに続き、延喜五年には太宰府天満宮の本となる廟を味酒安行が建立していた。朝廷は是に遅れ、京に北野天満宮を祀ったのは天暦元年(九四七年)の事であった。
約四十年を経て、朝廷は道真の怨霊を公式に認めるに至ったのだ。
そもそも、道真が天神になったと言い出したのは、
尊意は道真が死んだ直後に其の怨霊を見たと言う。自分を左遷させた者共を取殺しに行くと言う道真の霊を宥めたと言うのだ。
延暦寺は藤原家と近しい。国立寺院の様な物だ。其処の有力者が見たと言うので、道真の怨霊は「御墨付き」を得た事に成る。
勿論仕掛けはある。道真本人が延暦寺まで出向く訳には行かない。都にいる梅の一人、道真に背格好、面差しの似た者が道真に扮して尊意の夢枕に立った。闇の濃い平安の夜である。化けて出るのは簡単な事であった。
尊意に説き伏せられて内裏へ赴く事を断念した道真の怨霊は、悔しさの余り口にした柘榴を妻戸に吐き付けた。柘榴は炎となって戸板を燃やしたと言う。怨霊が柘榴を食べたというのもおかしな話である。恐らく「何か柘榴の様な物を口から吐き出した」という話が、「柘榴を吐き出した」と伝わった物だろう。梅は、口から火を吐く火炎術を遣って見せたのだ。
「どうも、祀られるというのは気持ちの良くない物だな」
周防の国、土師信貞の許に身を寄せた道真は愚痴を零した。
「そう申されますな。祀るべき神がなければ、天神の仕組みが成り立ちませぬ故」
土師信貞は道真を慰めた。
自らの「死」を演出した後、道真は信貞に身を預けていた。陰の存在となって、天神ネットワークの礎をより強固な物にする為であった。葛彦に指導させて、米作り、製塩、製紙、焼き物、鍛冶、機織り等の産業を根付かせようとしたのだ。
米、塩、紙の「三白」は、後に長州藩の重要な収入源となった。時に蝋も加えて、「防長の四白」とも言われる是等の名産は、幕末期長州藩富国強兵策の原資となった。天神の政策が日本の夜明けに繋がって行ったのだ。
長州は天神信仰の厚い土地でもあった。奇兵隊を立ち上げ、長州藩を倒幕に
其処には菅原道真に対する独特の尊崇がある。自らの身を虚しくして、後の世の繁栄に尽くす。高杉達の天神信仰には、其の思いが込められている。
道真自身がそういう存在であったという事が、伝わっていたとしか思えない。単なる学問の神等では、決してないのだ。
着目すべきは、北野天満宮が藤原家の守護神社とされている事である。藤家に祟りを為した道真を祀った神社が、藤原家を守る守護神と位置付けられている。逆さまな話ではないか。
是は藤原家内部に、天神は皇国と藤家とを守る盾であるという申し送りが為されていた事を示している。藤原良世の深慮遠謀が脈々と息づいていたのだ。
道真の祟り振りに目を戻してみる。藤原家に最初の犠牲者が出たのは、延喜六年(九〇六年)の事である。大納言藤原定国が此の世を去った。享年四十一歳。定国の死因は特に伝わっていない様だ。寿命の短い当時としても、早世であったとは言える。死因に不思議な所はなかったのであろう。
定国が道真の祟りに遭ったと考えられたのには理由があった。昌泰の変に当たって道真左遷の原因を作った一人とされているからである。即ち、
問題なのが藤原菅根である。昌泰の変に際して、道真の左遷を止め様とした宇多上皇の参内を阻止したとされている人物だ。
其の死因が只事でない。延喜八年(九〇八年)十月、菅根は何と
菅根の死が余りにも劇的であったが故に人々は道真の祟りを確実な物と信じ、是に先立つ定国の死もさては道真の仕業であったかと考える様になったのだ。
菅根を殺したのは、葛彦であった。
深夜、菅根の屋敷に入り込んだ葛彦は、眠っている菅根を蹴り起こし、床から引きずり出した。
「手を離せ! 何をするか?!」
菅根は抵抗したが、所詮肉体労働等した事のない公卿の細腕である。葛彦の腕力に逆らう事は出来なかった。
無言で菅根を濡れ縁まで引き摺り出すと、葛彦は菅根を庭に蹴り落とした。
「ああっ! 誰か……」
腰骨を強かに打ち、菅根は苦痛に喘いだ。
「人の行い天道を犯せば、天神是を撃つと知るべし……」
予め持参していた火器を、葛彦は濡れ縁から取り上げた。
「……何者じゃ。何故此の様な狼藉を為す?」
「藤家の輩、畏れかしこむべし」
葛彦はもがく菅根を冷たく見据えながら、火器を構えた。
「天満大自在天神の神威、思い知れ!」
眩い光条が闇を裂き、菅根の腹を貫いた。轟音と共に更に強烈な閃光が、夜の庭を一瞬昼の様に照らし出す。
菅根の体は真っ二つに裂けた。
「主様、お許し下せえ!」
顔をくしゃくしゃにして呟くと、葛彦は天龍を抱いて菅根の屋敷を飛び出して行った。
道真が他界したといわれる延喜三年から五年後の事であった。
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