第二十一章:遠の朝廷

「里の民、つまり農耕民にとっては迷惑な事だったろう。水源を奪われる上に、濁った水を流される。時にはダムが決壊して洪水になる事だってある」

「其れで八岐大蛇か。娘を喰われるというのは?」


「相手は山の民である鉄穴師だ。里に下りてきて食い物を奪ったり、娘を連れ去る事もあっただろうさ」

「だけど、只の洪水じゃなくて鉄穴流しがヲロチの正体だという決め手はあるのかい?」

「あるさ。娘の名前を見れば一目瞭然だ」


 娘の名は櫛名田比売くしなだひめである。


「『奇稲田姫・・・・』、日本書紀ではそう書くんだ。鉄穴流しを行った後には水路とダムが残される。つまり棚田が出来るんだ。昨日まで荒れ山だった所が田んぼになる。其りゃあ里人にとっては不思議な事だったろう」

「『奇稲田(くしいなだ)』とはそういう意味か」


 ヲロチは鉄穴流しの被害を表し、其の尾は水路の下流を表すのだという。


「ヲロチの尾から剣が出たろう?」

草薙剣くさなぎのつるぎか?」

「あれは下流で鉄が取れたという暗喩さ」


「スサノヲの剣が欠けてしまったのは?」

「里側の武器は精々銅剣位しかなかったんだろう。争いが起こった時、山人が持つ鉄製武器には太刀打ち出来なかったという事を示している」

「成程ね」


 人口が少ない内は山人と里人が出会う事も殆どなかった。しかし、耕作地が広がり里人が山の奥まで進出して行く様に成ると、山人との接触機会が増えて来る。当然利害は対立し、水利を巡って争いも起きた事だろう。


「俺の考えではスサノヲとヲロチは一つの物なんだ。『スサ』とは暴れる事、荒れる事を表し、『ヲ』は男または尾を表す。スサノヲとは『荒ぶる男神』であり、『鉄穴流しの下流で暴れる力』を表している」

「だとすると、スサノヲは自分自身を退治した事に成らないか?」

「其の通りさ。だからスサノヲは、旅立たなければならなかった。平穏を乱す嫌われ者、つまり穢れとして祓いの対象であり、常に放逐される存在なんだ」


 八岐大蛇を退治したという事は、山人と里人の争いが収まったという事になる。


「最初争っていた二つの勢力は、やがて共存する道を選んだという事さ。鉄穴流しの後には水田が出来る。山の民にとっては不要な物だ。だが、里の民にとっては貴重な開拓地となる。山人は棚田を里人に引き渡し、里人は農作物や衣類等の生活資材を山人に提供する。そういう共存共栄の道が生まれたんだ」


 出雲系製鉄民はヤマト系農耕民に飲み込まれる形で古代ヤマト社会に同化して行った。其の逆でなかったのは人口差による。農耕社会の方がより多くの人口を支える事が出来るからである。


「そして土師氏は朝廷に使役される様に成った訳か」

「土師氏には国を治めるノウハウは備わっていなかった。為政者に仕えるテクノクラートとして働く事が、国の繁栄に通じる事だと弁えていたんだろう」


 民の幸せの為に身を投げ出す。其れこそを今道真は為そうとしていた。其れが土師氏の血脈に生まれた者の宿命であったのかもしれない。


 複雑な思いを胸に、道真一行は大宰府に到達した。


「着いたな」


 大宰府の屋敷を前にして、道真は静かに言った。


 是から余生を送る筈の屋敷は、大宰権帥だざいごんのそちの住まいというには余りにも粗末だった。実態は流罪であり、大宰府での執務権限がないのであるから、当然の扱いではあった。


「今日からは此処が住処となる。荷を下ろしたら、先ずは掃除をしようか」


 道真は落胆の色も見せず、供の一同に呼び掛けた。


 屋敷とは名ばかりの其の家は、小屋と呼ぶ方が相応しい代物だった。柱は傾き、屋根も波打っていた。内部には殆ど調度らしいものもなく、外から小さく見えた割にはがらんとした印象であった。


「主様、先ずはすすぎを」


 何処から探してきたのか、濯ぎ桶を用意した葛彦が道真を促した。旅の埃を払い、冷たい水でさっぱりと足を清めると、道真の心持ちも清々すがすがしい物になった。


「何もない所から始めるのも良かろう。いささか歳は取っているがな」


 存外に明るい主の声に、従者達も気を取り直して新しい暮らしの支度に飛び回った。自分も掃除に加わろうと思ったが、家人達がそうさせてはくれない。一人取り残される格好となった道真は、夕闇の迫りつつある庭に出てみた。


 戸口を出てみると、跪き、頭を垂れる人影があった。


「そちは誰か?」


 道真は静かに尋ねた。


「梅の者にて鳶丸とびまると申しまする。御無事の到着、御慶び申し上げます」

「鳶丸とな。先駆けて参ったか。大儀であったな」


 鳶丸と名乗った若者は、道真の言葉に身を小さくした。


「滅相もございません。当地はひなにてございますれば何の支度も出来ませんでした」


 二日前に博多入りした鳶丸は、夜具や什器を調え、当座の食料も準備していた。総勢四人の道真一行を受け入れる支度など、何程の事もなかった。


 しかし、調えるには調えたが、是で良いのか? 鳶丸には割り切れぬ思いがあった。従二位に列する道真を迎えるには、余りにも粗末な支度ではないか?


 其れ故の詫びであった。


「左様な事はない。夜具もあれば、食物も備えてあるそうな。是以上の支度があろうか。良うしてくれた」


 長旅を終えたばかりの一行にとって、汲み置きの水、薪の支度があるだけでも有り難いことであった。


「鳶丸は、梅若様の子飼にごぜえます」


 何時現れたか、葛彦が傍らに控えていた。


「左様か」

「最前の濯ぎ水も鳶丸の気働きでごぜえます」

「うむ。何よりの心遣いであった。鳶丸、重ね重ね礼を言う」

「はっ」


 道真と直に接するのが始めてであった鳶丸は、親しい言葉に感激の色を隠さなかった。


「そう畏まるな。此処は都ではないからな」


 そう言って、道真はすっと瞼を閉じた。何かあったかと、葛彦達が様子を窺っていると、程なくして眼を開いた。


「鳶丸が都の風を運んでくれた様だ。都の梅が匂うた様な気がする」

「御庭の梅でございますか」

「うむ。懐かしい香りがした」


 道真の顔に明るい色が戻っていた。


「今日は皆ゆっくり体を休めて、明日から此の地の事を知る事にしようか」


 一同は質素な夕餉で腹を満たすと、早々に床に就いた。


 大宰府は「とほ朝廷みかど」とも呼ばれ、遠国に置かれた行政機関の一つであった。諸国の国衙も遠の朝廷と呼ばれたが、大宰府は其の中でも最も重要な拠点であった。


「其処にいたのは朝廷直属の官吏であり、概念的には都の延長と言えたろう。しかし官吏達の身分は低く、其の数も限られていた。実際の仕事は筑紫の民によって行われていたんだ」

「国衙の機能と言えば税を徴収したり、紙や布を生産したりといった仕事が基本だな」

「そう。勿論治安の維持や訴訟処理等も重要な機能だった。だが、大宰府の場合は何といっても外敵への防備と外国交易が重要な役割という事になる」


 道真の時代、民間交易は公に認められていなかった。朝鮮や唐からの交易船が博多に入港すると鴻臚館こうろかんと呼ばれる外国人の接受施設に受け入れ、都に指示を仰ぐ事になっていた。


 朝廷は唐物交易使という役人を大宰府に派遣し、必要とする商品を買い上げさせた。「余り物」は有力貴族や商人達に買い取らせた。


 博多と朝鮮半島との間には商品流通を担う「海の道」ができあがっていたのだ。


「道真の死後間もなく唐物交易使が廃止され、外国貿易は大宰府の役人に任される様に成った。是は偶然ではない」


 須佐は道真が大宰府内部に天神の使徒を送り込んだのだと主張した。


「薄給で働く優秀な人間がいれば、どんな組織でも仕事を任される様に成る。コンビニだって、律令制の役所だって同じ事さ」


 まあ其れはそうだろう。使える人間には仕事が集まる物である。


「できる部下が無能な上司を操縦するのは簡単な事さ。特に上司にとって得な話であれば尚更な」


 新居での生活が落ち着くと、道真は味酒安行と鳶丸を大宰府に送り込んだ。安行には醸造の技術があり、鳶丸は漢語を使いこなすばかりか算術にも長けていた。


「此の身は都を追われた身であれば御役に就く事は適わず。代わりに此の者達の能を役立てて貰いたい」


 俸給は無用だと言う。道真の申し出を都に伺ってみると、家人を大宰府で働かせる事は御構い無しという返答であった。


 安行と鳶丸は良く働いた。氏を持つ安行は其れなりの格を以て見られ、酒造りの技術を高く買われた。しかし、其れ以上に重宝がられたのは素性の知れぬ鳶丸の方であった。


「鳶丸と申す者、良う働くのう」

「菅家から遣わされた若い男か?」

「そうじゃ。只働きでは碌な働きはすまいと思っておったが、中々どうして」


 大宰府の下役人達は、鳶丸の事を噂しあった。


「若いだけあって、良う動くな」

「其れよりも漢語を遣いこなすのに驚いたわ」

「流石に菅家の家人よな。読めるばかりか、漢文を見事に書くものよ」

「其れよ其れ。素直に言う事を聞くものだから始めは掃除や片付けなどやらせていたが、書物整理をやらせてみたら実に速い」

「文字が読めるのかと感心しておったら、其れ所ではない。書物の中身まで解しておるのだから整理も速い訳よ」


 事は鳶丸の狙い通りに運んでいた。先ずは大宰府の役人達に溶け込む事。其の為に骨身を惜しまず、言われる事は何でも引き受けた。


 真の主、道真の為に為す事である。どんな雑務でも苦には成らなかった。


 やがて鳶丸が待ち望んでいた機会が訪れた。


「今日は儂と一緒に出掛けて貰うぞ」

「はい。何方まで」

「鴻臚館だ」


 此の日、鴻臚館には唐商人の一行が到着していた。しかし、生憎大宰府の通詞が他出しており、まともに応対する事が出来ずにいた。


「御前は漢語が読書き出来ると聞いたんでな。唐人の世話をして貰おうと思ったのだ」

「はい。わたしに出来るでしょうか?」

「左程の事ではない。食事さえ出してやれば、取り敢えず役目は果たせるのだ」

「左様ですか」

「うむ。料理人や下女はちゃんとおるでな。御前は唐人の様子を見て、何か足りない物があるかどうか気を配って呉れれば良い」

「はい。出来るだけ御役に立つ様に務めさせて戴きます」


 二人が鴻臚館に着いてみると、何やら慌しい空気が漂っていた。甲高い声で漢語が聞こえて来る。喧嘩ではない様だが、いらいらと切羽詰まった感じで何事か捲し立てていた。

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