第二十二章:唐商人

「誰かあらぬか?」


 鳶丸を伴った役人は、鴻臚館の小者を呼び出した。


「是は、真関ませき様。ようこそお越し下さりました」

「一体此の騒ぎは何事か?」

「はあ。唐人の一人が急病を起こした様子なのですが、此度の航海には医師を同道しておらず、当地の医師に診させている所です」


 小者は疲れ果てた表情で事情を説明した。


「ならば、何を騒いでおるのじゃ?」

「言葉がどうも通じぬのです。症状を診ながら薬を飲ませたそうなのですが、一行に具合が良く成らんそうで」

「其れで文句を言うておるのか」


 常ならば鴻臚館御抱えの通詞が症状を聞き取り、医師に伝えるのであるが、通詞がいない為に的確な診断が出来ぬのだと言う。


「言葉が通じんでも、筆談なら叶おう。医師は何故筆談で診立てをせんのじゃ?」

「其れが間の悪い事に、十日程前から医師の玄理が他出しております。残っているのは弟子の白朝だけという巡り合わせでして。玄理程には学を究めておりませんので、筆談では診立てが仕切れぬ有様で御座います」

「左様か。難儀な事よのう」


 兎に角唐人に会おうという事で、真関という名の役人は奥へと通って行った。特に許された訳ではないが、其の供という形で鳶丸は自然に付き従って行った。


 鴻鷺館の奥へと進んで行くと、騒ぎの元に辿り着いた。中年男の唐人が、医者の形をした若者に詰め寄っている。


 唐人は盛んに言葉を発していたが、医者、恐らくは白朝という男は首を振り、「分からん。分からん!」と、言い返すばかりだった。


「どうじゃ?」


 真関が声を掛けると、白朝は疲れ切った顔で振り返った。


「舎人様ですか? 参りました。何を言うているのか分からんのです」

「うむ。病人の様子は?」

「熱があり、体が弱っている様子。風邪と診立てて、薬湯を飲まそうとしておるのですが、中々喉を通らんのです」

「其れで困っているという訳か」


 取り敢えず病人を見ようという事で、文句を言っていた唐人も連れて病人のいる部屋に入った。部屋には蒲団が敷かれ、初老の唐人が寝かされていた。


「××××!」


 中年男の唐人が、病人を指差して何か言葉を発した。


「何を言っているか、分からんと言うのに!」


 白朝が首を振ろうとすると、鳶丸が前に出て病人の傍らに跪いた。


「××××?」


 鳶丸は中年唐人に話し掛けた。


「××!」


 唐人は目を輝かせて鳶丸の横に跪いた。


「御前、漢語を話せるのか?」


 真関は驚いて、鳶丸に尋ねた。


「何とか通じる様です。病人の様子を聞いてみます」

「おお、頼む!」


 真関と白朝が見守る中、鳶丸はつかえながらも唐人と言葉を交わした。時には唐人が眉を寄せて、鳶丸の言っている事が分らぬ様子であったが、何度か尋ねる内に顔を明るくして大きく頷いた。


「どうやら風邪以外にも悪い所がありそうです」


 暫くして鳶丸が、白鳥に顔を向けた。


「どういう事だ?」

「何か食べ物に中った様です。食事の後に具合が悪くなったと」

「そうか! 其れで薬を受け付けぬのか。良し、ならば先ず胃の腑の中を綺麗にしよう。盥と水桶を持って参れ!」


 鴻臚館の小者が、急いで部屋を飛び出して行った。鳶丸も付いて行こうとしたが、白朝に止められた。


「御前は此処に残って呉れ。病人に言う事を聞いて貰わねばならん」


 話が通じると分かって、漸く白朝は落ち着きを取り戻した様であった。鳶丸に指図して、病人の治療に当たった。


 一刻後、一通りの治療を終え、病人は静かに寝息を立てていた。顔色はまだ良いとは言えなかったが、苦しそうな気配は失せ、呼吸も深く静かな物に成っていた。脈を取っていた白朝は笑みを浮かべて手を膝に戻した。


「先ずは是で良し。大事は無かろう」

「本復するのか?」

「今少し様子を見なければ成りませんが、恐らく両日中には元気を取り戻しましょう」

「其れは良かった」


 傍らで見守っていた真関が、ほっと溜息を吐いた。


「どうなる事かと思うたぞ」


 笑みを返した白朝は、鳶丸に目を向けた。


「助かりましたぞ。食中りの事が分からねば、手遅れに成る所でした」

「御役に立ててようございました。唐人の秀徳殿も喜んでおられます」

「彼の唐人は秀徳と申されるか?」

「はい。御病人は秀徳殿の父御、秀明殿に御座います」

「そうか。父の病を心配しておられたのだな。さもあろう」


 秀明の様子が落ち着いた事を見定めて、白朝は看病を小者に任せ、真関と鳶丸を別室に誘った。


「改めてお礼を申します。真関様には良い折に、又とない手助けを御連れ頂きました」


 白朝は深く頭を垂れた。


「礼には及ばぬ。手柄は是なる鳶丸の物。吾は只の付き添いに過ぎぬ」


 真関は素直に謙遜した。


「漢語の読み書きが出来る鳶丸ならば、唐人の世話を手伝う事が出来るかと連れて参っただけの事。是程役に立つとは思わなんだわ」

「誠に大した物で。大宰府にて御勤めの方ですか?」


 白朝の問いに答えようとした鳶丸を手で制し、真関は鳶丸の身分を説明した。


「先日都より当地に来られた道真公に従う者です。菅家よりの申し出にて大宰府で働かせております」

「左様でしたか。菅家の方。道理で漢語に通じている事よ」


 緊張から解放されてほっとしたのであろう。二人は白湯を啜りながら、四方山話に花を咲かせた。


「さて、其れでは私はそろそろ失礼致します。明日又病人の様子を見に来る。大丈夫と思うが、具合が悪く成る事があれば知らせて呉れ」


 最後の言葉は鴻臚館の小者に投げ掛けて、白朝は立ち上がった。


「白朝様、万一の事が御座います。今宵は私が此処に残り、病人の様子を見させて頂きます。真関様、宜しいでしょうか?」

「そうだな。其れが良かろう。儂は是から役所に戻るが、御前の屋敷の方へは使いを立てて置こう」

「はい。では、其の様に。白朝様、又明日御目に掛ります」

「おお。では、明日」


 其の夜、鳶丸はむしろを借りて病人の側で夜を明かした。幸い秀明の容態は快方に向かい、翌日には寝床から半身を起こす事が出来る様に成った。


「鳶丸殿、貴方には大変お世話に成った。昨日の事は、秀徳から総て聞きました」


 秀明は鳶丸に対して丁寧に礼を述べた。


「とんでもありません。秀明様を御助けしたのは医師の白朝様で、私は只の御手伝いに過ぎません」

「いいえ。鳶丸殿がいなければ、命も危なかった事でしょう。此の恩は忘れません」

「御放念下されば良い事で。其れよりも、御疲れに成らぬ様、ささ、御休み下さい」


 鳶丸は問答にけりを付ける様に秀明を寝かし付けた。


 部屋を出た所で、秀徳と顔を合わせた。


「唐人は受けた恩を忘れぬ。父の命を助けてくれて有難う。我等に出来る事があれば何でも言って呉れ」

「礼等要りませぬ。務めを為しただけですので」

「今でなくとも良い。何かあった時は思い出して呉れ」


 秀徳はそう言い、鳶丸の手を強く握ってから父の病間へと向かって行った。暫く其の後ろ姿を見送った後、鳶丸は鴻臚館での雑事を引き受けようと小者の溜まりを探して歩いた。


「思いがけず、鴻臚館に入り込む機会が訪れた様じゃな」


 二日目の務めを終えて屋敷に戻った鳶丸から話を聞くと、道真は言った。


「はい。早速御手伝いをする機会が訪れました。唐人親子と知り合えたのが何よりも幸運で御座いました」

「正に其の通りじゃ。李秀明、秀徳父子は此度の舟の持ち主だと言う。其の様な相手と知り合えたのは、誠に運の良い事であった」

「鴻臚館の差配役様にも御目に掛り、私は主に李親子の身の回りを御世話する係と成りました」

「そうか。唐人に信を置かれる事が肝要だ。焦らず彼らに尽くして信頼を得よ」

「其の積りで御座います」


 鳶丸は、通いで鴻臚館の手伝いを為す事に成った。大宰府での日々と同様、鳶丸は陰日向なく李父子に仕えた。


 常に部屋を清潔に保ち、こまめに空気を入れ替えた。足りない物があれば、人を頼まず、出来る限り自分で満足の行く品物を調える様にした。


 一つひとつは大した事ではなかったが、積み重なれば違いとなる。


 李親子には、何時になく鴻鷺館の生活が過ごし易い物に感ぜられていた。心穏やかに生活できれば病の治りも速くなる。


 寝込んでから七日が経った朝、李秀明は床払いをする事が出来た。先ず初めに為した事は、館内に設けられた持仏堂で感謝の祈りを捧げる事であった。


 祈り終えると、秀明は鳶丸に話があると言った。


「鳶丸殿に折り入って頼みがあります」


 秀明は居間の椅子に身を預けながら口を切った。


「是非其方の主にお会いしたい」

「道真様にですか?」

「うむ。世話に成った礼を申し上げたいのも勿論じゃが、聞けば道真様は遣唐大使であられたと言う。文章博士として唐の学問を究められてもいる。其の様な方と語り合えば、吾等唐商人にとっても大いに得る所があろうと思うてな」


「左様ですか。御引き合わせしたいのは山々ですが、吾が主は都より放逐された身。何かと障りがございます。人目に付かぬ形が宜しゅう御座いましょう」

「大宰府の役人に騒がれるのは面倒じゃの。秘かに御会いする事が出来ようか?」

「私に御任せ下さい。主の許しを得られれば、然るべく段取りを付けさせて頂きます」

「ならば頼もう」


 鳶丸は李秀明の意向を道真に伝え、李親子を引き合わせる支度を調える事に成った。


 数日後の夜、李親子は鳶丸が用意した和人の着物に身を包み、頭巾で顔を隠して鴻臚館から忍び出た。道真館までの道程は、手燭を持った鳶丸が先導した。


 田舎の道である。日が落ちてから出歩く人影は皆無であった。

 館には戸締りをしていない。屋内に声を掛ける事もなく、鳶丸は静かに引き戸を開けた。


「どうぞ、御上がり下さい」


 短い廊下を進んだ先に、灯りの点った部屋があった。


「李秀明様、秀徳様が御着きに成りました」


 鳶丸は廊下に跪き、襖の裡に呼び掛けた。


「御通しせよ」


 許しを得て、鳶丸は李親子を室内に誘った。


「李秀明です。御初に御目に掛ります」

「菅原道真である」

「夜分に押し掛けた非礼をお許し下さい。此の度は鳶丸殿に一方ならぬ世話に成りました。厚く御礼申し上げます」

「もう加減は良いのか? 祝着に存ずる」

「有難う御座います。是はほんの御礼に御座います。御納め下さい」


 秀明は秀徳に、持参した唐渡りの礼物を差し出させた。味酒安行が是を受け取る。


「失礼ながら道真様の漢語は、実に流暢でいらっしゃる」

「都におる時に唐僧に付いて学んだ。書物だけでは唐の事情を知るにも限りがあると思うてな」

「道真様に御聞きしたい事が御座います」


 供された白湯を膝元に戻しながら、改まって秀明が問いを発した。


「我国への遣使を廃された真意は、何処にありましょうや?」


 問われて、道真は静かに答えた。


「時が掛かり過ぎる。其れに、海上の往来に危険が多すぎる」

「時を掛け、危険を冒すだけの価値はないと仰る?」

「吾が日の下の国は、唐に比べれば遥かに小さく、貧しい。嘗ては危険を冒してでも、此方から出掛けて学を修め、書物を持ち帰る事に大きな意義があった」


「今は違うと?」

「多くの書物を持ち帰り、仏の道を広める事が出来た。政の基礎たる律令制を布く事が出来たのは、命懸けで海を渡った遣唐学生の御蔭であろう」

「十分に学ぶ事が出来たという事ですか?」

「十分とは言わぬが、基礎は出来た。其れ以上に海上往来の事情が変わって来た」


「と、仰いますと?」

「其方等唐の商人が、頻繁に海を渡って我国を訪れる様に成った。わざわざ船を仕立てて出向く必要は、最早ない」

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