第十九章:大宰府行
大宰府への赴任は、舟旅であった。
公けには罪人の護送ではなく命を受けての赴任行であったが、道真一行には役人数名が監視役として同行していた。一行の供数も少なく、宿や食事の内容も道真の官位から見ると極めて質素な物であった。
其処までせずともと三善清行は気を遣ったが、是は道真が譲らなかった。
「配流先での憤死。そうでなければ、此の身が天神と成る事は叶いませぬ」
故に受刑者としての待遇を自ら望んだのだ。
葛彦は身の回りを世話する従者として、道真に同行した。
「是だけは御聞き入れ下さい」
同行を許されなかった梅若は、五人の部下を陸路先発させ、道真一行を見守らせた。
或る場所では、上陸した道真を休ませる敷物がなかった。舟から持ち出した太綱を丸く巻き、円座の代わりとして尻に敷いた。そう伝えられる程、道真が休息する宿、口にする食事は極めて質素な物であった。
「
道真は、苦にもしなかった。元々質素な暮らしに慣れていたのだ。流石に蚤や虱の多さには悩まされたが、愚痴はこぼさなかった。己が嘆けば葛彦達を苦しめる事になる。其れは本意ではなかった。
苦情を言える身分でもない。正しくそう思っていた。
「畏れ多くも帝を呪い奉りて、都を追われた身なれば」
讒言を受け入れ、無実の罪で己を流罪に処した主上を恨み奉る。其れが、道真が自らを追い込んだ立場であった。
「
其の歌を詠んだ。
庭の梅の木に託して、家族や都との名残惜しさを詠んだ歌と言われている。
「素直に読めば良い歌なんだがね」
須佐はコップ酒をちびりと舐めながら言った。
歌には裏の意味があった。帝を恨み、其の死を願う呪いの歌。其れが此の歌の正体だと言う。
「『主亡し』ってのは、「
では、「春な忘れそ」とは何か。
「『春』って字をさ、上から三つに分解すると、『主』、『人』、『日』に分かれるだろ。『主』が亡くなれば、『
「主」を亡くせば、「人日を忘るな」という言葉になる。
「此の年の一月七日は、道真が従二位に昇進した日だ。人日を忘れるなとは、吾を厚遇した日々を忘れるなという意味になる」
「更に言えばだ。古来中国では、一月一日を鶏の日、二日を狗の日、三日を猪の日、四日を羊の日、五日を牛の日、六日を馬の日とし、其々の日には其の生き物を殺さぬ事としていた。一月七日の人日には、人を殺してはいけないって訳さ。詰まり此の日は死刑を行わないんだ」
「人日を忘るな」とは「死刑を行わない日」である事を忘れるなという意味になる。
「自分の命を脅かせば、帝も命を落とす事になるぞ、と言っているのさ」
「本心ではない訳だろう? 道真自身は帝を敬っているんだから」
「其れを知っているのは、三善清行や醍醐天皇自身、其の他極々少数の人間だけだ。朝廷の残りにとっては、驕り高ぶった道真が罪を被り、逆恨みに主上を呪う歌を残したとしか見えなかったのさ」
「歌の前半にも裏の意味があるのか?」
私は須佐に聞いてみた。
「『東風吹かば』だろう? 勿論さ。『東風』という語は『忽(こち、こつ)』を表しているんだ」
「忽」とは、「たちまち、にわかに」という意味であり、「忘れる」という意味もある。
「朝廷が人日を忘れるような事があれば、『梅の花よ、匂いを起こせ』と命じている訳さ」
「梅の花」とは勿論梅若を始めとする「梅一族」の事であった。
「『匂い起こせよ』とは、力を発揮せよという事さ。梅一族の実態を詳しくは知らないにしても、道真が梅を使役して呪術を為すという噂は朝廷に広く知られていた。道真が『梅』という言葉を使えば、十分な脅しになった訳だ」
「『東風』が『忽』であるという根拠はあるのか?」
「『春な忘れそ』を漢文で書き表すと、『勿忘春』になる。其処から『主亡し』で『主』と『亡』を取り除くと、『勿心人日』が残る。縦書きで読めば、『忽人日』になる訳よ」
私が尋ねると、須佐はそう答えた。
其れで上の句と下の句が一つに繋がる。
「恐らくは三善清行が此の歌の解釈を、朝廷の重臣にして見せたんだな。『道真には此の様な怨みの心が御座います』って言ってね」
「其れなら道中での扱いが手厳しくなるのも無理はないね」
正に石を以て都を追われる身であった。
須佐は日本酒を舐めながら話を続けた。
「政治的に考えるならば、此の事件は土師氏に対するパージだったと言える。テクノクラートとしての土師氏は政権にとって極めて有用なんだが、道真というリーダーが余りにも目立ち過ぎてしまったため、中央から排斥される事に成った訳だ」
一方で、大宰府への道真左遷をもっと違う積極的な枠組みで捉える事も出来る。つまり国防と貿易管理の目的である。
「唐や朝鮮との交易は時代が下るにつれて盛んに成って来た。其の窓口が大宰府だった事は間違いない。道真は此のままでは大和朝廷が大陸の属国として飲み込まれてしまう危機を察知したんだろう」
交易が盛んになるという事は、其れだけ国家の内実を相手に知られるという事である。大陸にとって魅力のある資源が存在すれば、其れは侵略の目的を構成するかもしれない。
「日本から産物を輸出するという事は、其れだけ他国の侵略を招いている事にも成る訳だよ」
此の時代、侵略してまで手に入れたい日本の資源とは何か? 其れは「金、銀、銅」であろう。道真の時代、まだ公式には多量の金銀を産出したという実績はない。
しかし、大陸の経済が通貨を基本としている一方で、日本には輸出適格な二次産品が不足しているというギャップが存在した。唐人や新羅人は、やがて日本の地下資源を狙って来るに違いないと、道真は察したのだ。
本格的な貿易を行うには、彼我の国力差が大き過ぎた。単純に自由貿易を拡大すれば、天然資源を毟り取られるだけで終わってしまう。
「再生産が可能な食料や工芸品であれば、幾ら輸出しようと国力が衰える事はない。だが、埋蔵量に限りのある天然資源を売り物にした途端、国家の命運に時限装置を付けた事に成ってしまう。道真は朝廷の中で只一人、其の危機を見抜いていたんだ」
貴金属の輸出が本格化する前に、唐との正式な国交である遣唐使を廃止し、大宰府で民間交易を管理する。
其れが道真の貿易政策であった。
「畿内から大宰府へ至る赴任の旅は、大宰府から流入する交易品の廻送ルートを逆に辿る旅でもあったのさ」
主要な停泊地を見定め、其処に土師氏の拠点を置く。此の時代、律令に定められた交通経路は陸路だったので、山陽道に
土木、鉱業、製鉄・冶金に従事し、国防、経済まで司る。
「土師氏っていうのは、一体どういう集団なんだ?」
私は心から湧き上がる疑問を須佐にぶつけてみた。
「恐ろしく突拍子もない仮説なんだがね。俺には矢張り渡来人集団だったとしか思えないんだ」
須佐は、何故か照れた様な表情を浮かべながら答えた。
「巨石を扱い、陵墓を築く。後には政治や経済の中枢にあって、国家の経営に携わる。そういう集団に心当たりはないかい?」
「まさか……」
「多分、其のまさかだ。土師氏ってのは
須佐の「仮説」によれば、土師氏の源流はエジプトでピラミッドを建造した石工集団と言われるフリー・メイソンに遡る。民族的には当時のユダヤ民族であったろう。
旧約聖書の「出エジプト記」に記録された様に、ユダヤの民は預言者モーゼに率いられてエジプトを脱出する。しかし十二支族のうち十支族は、安住の地を求めて離散してしまった。今に至っても何処に移住したかは謎とされている。
「
「日ユ同祖論てのは聞いた事があるけど、殆ど眉唾ものだろう?」
私には如何にも突飛な妄想に思えた。
「ユダヤ人が移住して来て日本人の先祖に成ったというのは無茶な話だと思うが、日本に流れてきたユダヤ系集団がいたと言う位ならあり得ない話じゃない」
「そりゃあまあ、あり得ないとは言えないがね」
古墳時代にフリー・メイソンが存在したと言うなら、其れなりの痕跡が残っていそうな物である。
「何故日本ではピラミッドを作らなかったんだい?」
「まあ、そう来るだろうね。俺は、作る必要がなかったんだと思っている」
「必要がない?」
「ああ。もう
何を言っているのか?
「エジプトと日本の景色を比べてみたら分かるだろう。わざわざピラミッドを作らなくても、至る所に
「山がピラミッドの代りだと言うのか?」
「世界中にピラミッドはあると言われるが、エジプトの様な四角錐タイプの物は他にない様だ。メキシコのピラミッドがかなり近いがね」
確かに各地の「ピラミッド」と呼ばれる建造物は、階段状であったり、建物の様な物が殆どだ。
「山のない土地だからこそ、あの形に神秘性があったんだろう。山に囲まれた土地ではピラミッドを築く必要がなかったんだよ」
丘陵に穴を掘れば、立派な陵墓の出来上がりである。初期の古墳は、確かに丘陵地帯に多く見られる様だ。
「まあ、穴を掘っただけじゃ寂しいって事で、円墳や方墳を築く様に成ったんだろうね」
フリー・メイソンが古墳や都の造営に当たっていた事に成る。途方もない話であるが……。
「日本では土師氏、穴師となった彼らは、ピラミッドを築く代わりに山岳を神聖視し、崇める様に成った」
「三輪山なんかがそういう聖域に当たるのか」
「そういう事。太陽神を祀る天皇家とは宗教体系が異なるんだ」
ユダヤ系だと言うなら一神教ではないのか?
「日本の神道とは馴染まない気がするんだが……」
「日本に辿り着く迄に、色々な文化に接触しているからね。一神教的な要素が薄れていたのかもしれない。敢えて言えば『オオナムチ』が彼らの絶対神だっただろう」
「穴師が祀るのは確かに
「別名『
「
古事記に登場する大国主は絶対神と言うよりも、多分に人格化された生々しい存在に成っている。其れも日本の土俗的風土の影響を受けた結果と言う事になろう。
「確かに日本人という民族は、昔から他国の概念を取り込んで、換骨奪胎土着化してしまう事が上手いからね」
「そういう事。社会的には閉鎖主義なのに、文化的には融通無碍なんだ」
だが、古代ユダヤ人と言えば人種的には現代の中東国人に近い、黒目、黒髪、浅黒い肌の外見であった筈だ。
「平安京に古代ユダヤ人がいたら、随分目立ったんじゃないか?」
「だろうね。ユダヤ系の特徴が濃い者は山里に籠っていたんだろう。どうしても人前に出なくてはならない時は、頭巾や覆面で顔を隠して歩いたんだ」
「あんたの想像だろう? 実際に姿を見てきた訳じゃないんだから」
私が疑いを差し挟むと、須佐はにんまりとした。
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