第十六章:雷神封じ
「三善清行は道真のライバルの様に言われているが……」
「歳は二歳しか違わないが、官位では道真より大分下だ。ライバルと呼ぶのはどうかな」
実は私も、道真と清行は対立関係にはなかったと考えていた。
逆に、道真断罪の理論的バックボーンとなった
中国の文献、故事を引用して説を展開する構成に隙が無く、道真の手際を彷彿とさせるからだ。昌泰から延喜への改元後江戸幕府崩壊に至るまで、辛酉革命説に基づく改元は延々と実行されていたのである。
「本来学者ってのは学説を戦わせる者であって、意見が違うからといって敵対している事には成らないと思う」
私は、須佐にそう告げた。
「菅家廊下は氏を問わず誰にでも門を開いていた様だからな。道真が度量の小さい男だった筈はない」
須佐も其の点は同意見だった。
「人望があったからこそ、道真は天神として敬われる事に成った訳だ。唯の学者馬鹿じゃそうは行かない」
とは言え清行と道真が仲間だったと、簡単に結論付ける事も出来ない。
「官吏の登竜門である
私は、予習の成果を披露した。
「確かにそうだ。二人を繋ぐ存在がなければ、自然に協力し合うとは考えにくい」
「仲を取り持ったのは、清行の師匠じゃないのか?」
「おっ? 先生、勉強して来たね」
清行の師は、
元は
酒造に従事する氏族を出自としていた様だ。
此の辺りは、葬送を祖業としていた土師氏が菅原氏への改姓を願い許された事情と重なる物がある。想像を逞しくすれば、不遇を憂いていた文雄に対して菅原是善が改姓する事を勧めた可能性もある。
文章生や文章得業生に成れるのは極く限られた一部のエリートである。菅原家と巨勢家が親しく交わっていたとしても不思議はない。
文雄の後に文章博士を引き継いだのが、道真であった。
道真が遺した「菅家文草」には、巨勢文雄との親交を示す文章が載っており、文雄を「詩友」と呼んでいる。
「道真の家来に、味酒という名の人間がいた筈だ」
是も予習の成果である。
「大宰府への赴任の時、道真に従って行ったのが
須佐は即答した。
「二年後道真の最期を看取り、後日太宰府天満宮が造営される地に亡骸を埋葬したのが此の男さ」
以来太宰府天満宮では味酒安行の子孫が、道真慰霊の務めを受け継いで来たと言う。公の史書に名前が残り現代に至るまで家系が続くという事は、其れだけ味酒の家格が高く並の従者ではなかったという事を意味する。
「此の味酒安行と巨勢文雄は同族だろう」
巨勢文雄は味酒氏の本家として巨勢に改姓したが、分家の中には味酒姓を守った者がいたのだ。
「総合的に見ると、菅原家と巨勢文雄及び味酒氏の間にはかなり密接な関係が認められる。そう成ると、清行と道真も敵対関係にあったとは思えない」
「道真が清行の事を
方略試において、道真が清行を落第させた事は間違いない。其の事実と其の後の出来事とを結び付けて、後世の人は二人の不仲説を唱えたのだ。
「試験の出来が悪ければ、仲が良かろうと落とすしかないだろうさ」
清行については不思議な点が多い。
其れだけ不仲を指摘され、道真陰謀説を唱えたと言われながらも、清行が道真の怨霊に危害を加えられたと言う話は何処にも出て来ない。藤原氏所縁の面々と比較して「不公平」なのだ。道真の霊に脅されたとか取り憑かれたと言う話があっても良い筈である。
其れ所か、道真死後は其の霊威を際立たせる形で、清行の名前が登場して来る。
「清行本人というより、息子の浄蔵だろ?」
「先生、先回りするねえ。大分勉強したんだね」
三善清行の八男は浄蔵という法名の僧侶であった。数々の奇跡を起こし、霊験あらたかな高僧として名高い。仏門には宇多法皇の導きにより帰依したと言われている。吉野の金峯山等で修業し、比叡山で密教を修めた。
「浄蔵の加持祈祷には相当な力があった様だが、道真の祟りに関しては寧ろ引き立て役で終わっている」
病床にある時平の快癒を祈願して祈祷を行っている時、父の三善清行が時平の見舞いに訪れた。すると、時平の両耳から二匹の青龍が現れた。
我は道真の霊に代わり時平を呪い殺す者であると言う。
浄蔵を連れて此の場を去れと言われ、清行は祈祷を中断させて浄蔵を立ち退かせた。其のすぐ後に、時平が息を引き取ったと言うのである。
厳密に言えば浄蔵は祈祷に失敗した訳ではないが、「雷神の祟り」から時平を守る事は出来なかった事に成る。
「何故なら正義は道真にあったからと言うのが、当時の人々の認識だった」
須佐はもつ煮込みをつつきながら、そう言った。
浄蔵の法力については、しつこい位に逸話が残っている。中でも一条戻り橋で父清行の葬列に出会い、一心不乱に念誦して父を甦らせたと言う話は有名である。戻り橋という名前は、此の故事に因んで付けられた物である。
死者を甦らせる程の法力。其の法力を以てしても、道真の霊を鎮める事は出来なかった。
「だが、浄蔵は道真亡き後の世代だよね」
「生没年ははっきりしないが、昌泰の変が起きた頃はまだ子供だったろう」
「
私は「予習」で探し出したキーワードをぶつけてみた。
「うーん。渋い所に目を付けたね。感心した」
須佐の反応を見ると、どうやら当たりだったらしい。
貞崇は貞観八年(八六六年)の生まれとされる僧であるが、俗姓が「三善」であった。
昌泰の変当時は四十手前という年頃だ。
醍醐寺で修業し、金峯山に籠った。後に醍醐天皇の護持僧と成り、醍醐寺座主、東寺長者、金剛峯寺座主を歴任した。
赫々たる経歴の持ち主である。
「是だけの要職を務めるのは並大抵の事じゃない。余程朝廷の覚えが目出度かった筈だ」
「其の通りだ。家柄も良かったんだろう。三善氏のきちんとした家系の出と言う事に成る」
「雷神封じの方位陣」は、まず貞崇を時平に取り入らせる事から始まった。
良世と通じ合った時平家の家令宣道は、道真を封じる対抗手段として貞崇を探し出して来た。密教の奥義に通じた上、嘗て金峰山で修験を積み蔵王権現の呪法を修めていると。
即ち
時平は始め半信半疑であった。
「御疑いならば良い試しの方法がございます」
「試しとはどの様な?」
「はい。雷神の祟りにて破裂した大織冠御神像の平癒を祈らせます」
「何? 破裂した御神像が元通りになると申すか?」
其れは、貞崇本人が言いだした事だと言う。御神像にはそもそも魂が込められている。雷神の祟りを払いさえすれば、自ずから
「ならば、やらせてみよ。儂が自ら検分致す」
宣道によって祈祷の日時が決められた。
貞崇は御神像の安置された本殿に籠り、七日間の加持祈祷を施すと言った。但し、六日目までは何人も本殿に近づかぬ事。
満願を迎える七日目の夜のみ、時平達は本殿に立ち入る事を許された。
昌泰四年一月七日の事である。亥の刻を迎えて本殿は墨の様な闇の中にあった。足元もおぼつかぬ中、手燭の灯りに導かれて時平は本殿の入口を潜った。
最前から聞こえていた読経の声が、急に大きく聞こえて来た。
本殿には貞崇が独り本尊に向き合う形で坐していた。其の前には護摩壇が設けられている。
既に最後の護摩木が投じられた後で、火勢は大分弱まりつつあった。護摩壇の火が周りを照らす他は、四方に置かれた燭台が僅かな光を揺らめかせているだけで、堂内は闇に支配されていた。
炎が揺れる度に闇も揺れる。
黒々とした生き物が、乱れた呼吸をしている様であった。
本尊の大織冠神像も、護摩壇の炎を受けて形が其れと分かる程度にしか見えていない。首のない姿は闇を支配する魔物の様であった。
護摩壇の火が更に小さくなり、本殿を満たす闇が益々濃くなった時、貞崇は真言を唱え出した。
「おんあぼきゃあ べいろしゃのう まかぼだら まにはんどま じんばらはらはりたや うん……」
繰り返し唱える内、炎は更に小さく成って行く。
「おん ばざら あらたんのう おん たらく そわか……」
貞崇は鐘を打ち鳴らした。声を立てる者とてない堂の中に、鐘の音が波打つ様に広がって行く。
鐘の音が元の静寂に飲み込まれた時、護摩壇の炎がすうっと消えた。
御神像は黒い塊にしか見えなくなった。其の時……。
突然御神像が炎を発した。
本殿の屋根まで届いたのではないかと思える程の大きな炎であった。一同の闇に慣れた眼には強すぎる光だった。
「おおお! 御神像が……!」
「ああ、眼が。眼が!」
時平達は視力を奪われ、慌てふためいた。
「騒ぐな! 大織冠御神像が祈祷を受け入れられただけである。目を閉じて十程数えなさい」
貞崇の凛とした声が、闇の中を這い回る時平達を抑えた。
言われた通り十秒程眼を閉じていると、ぼんやりと物の形が見分けられる様に成って来た。燭台の灯りだけでは、本尊まで光が届かなかった。
「誰か、灯りを増やしなさい」
貞崇の命を受けて、時平の従者二人が燭台を更に四基持ち出して来た。
新たな灯りに照らし出されて、御神像は何事もなかった様に鎮座していた。
「燃えては居らぬぞ」
「あの炎は何だったのか……?」
一人が更に手燭を差し出して見た。
「おお! 是は!」
「御首が……!」
大織冠神像の首が元通りに成ってこちらを見返していた。
「ああ!」
従者達は手燭を床に置き、這い蹲る様に其の場に平伏した。不思議の霊験を目の当たりにして、さしもの時平も跪いて拝礼した。
「宜しいか。是で御神像を縛っていた雷神の祟りは解けた。御山の鳴動も已むであろう」
貞崇が静かに言い渡した。
「御霊験の程、
時平は貞崇に深く頭を下げた。正に当代一の法力僧と感服していた。
翌日、陽の光の下で時平は御本尊を改めさせたが、胴体と首には継ぎ目さえなかった。
「貞崇和尚なら……。道真の呪力を抑える事が出来よう。」
時平は道真を断罪する肚を固めた。
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