第十五章:革命勘文

「ごめん。わざとじゃないんだ」


 一言謝って行き過ぎようとしたが、呼び込みの若者は収まらなかった。


「待てよ! 思いっきり人の足踏んで置いて、其れっきりかよ?」


 若者は私の肩を捕まえながら、踏まれた足を見下ろした。


「あっ、畜生! てめえ、此の靴どうして呉れるんだよ!」


 指さす先を見ると、白いエナメル靴に足跡が付いており、擦れて傷も付いていた。


「申し訳ない。人に押されたんだ」

「てめえが前見てねえから悪いんだろうが! 糞、此の靴おニューなのに……」


 客が取れずに虫の居所が悪かったらしく、男は私を解放してくれなかった。


「一寸顔貸せや? 店に行って話し付けようぜ」


 ホストっぽい面相の割に男の力は強かった。私の肩を捕まえたまま、路地の奥へ押して行く。


「よう、先生。まだいたのかい?」


 後ろから暢気な声が聞こえて来た。私が首を捻じ向けたのを見て、呼び込みも後ろを振り返った。


 煙草を咥えた須佐が、路地の入り口から歩いて来る所だった。


「何だ、てめえは?」


 若者は余計に殺気立った。


「まあ、正義の味方だな、此の場合。他人から見たら単なる酔っぱらいかもしれないが」

「関係ねえ奴は、引っ込んでろ!」

「そうも行かないさ。其の先生には世話に成ってるんでね」


 遣り取りの間に須佐は我々の側まで来ていた。


「俺も一緒に謝るからさ、其れで勘弁してくれないか。申し訳なかった」


 須佐は膝に手を置いて頭を下げた。


 しかし、若者は納得しなかった。


「ふざけんな! 其れで済むかよ!」

「兄ちゃん、此の辺じゃ見ない顔だね。新人さんかい?」


 頭を戻した須佐は、世間話をする様な気楽さで、そう言った。


「何だと、コラ!」


 唯のおやじ二人と見て、若者は嵩に掛かっていた。すっかり目が吊り上がっている。


「こりゃ、駄目だな。じゃあ『良い物』上げるから、勘弁してくれ」


 ズボンのポケットをまさぐりながら、須佐は私に目配せした。


「ほら、見てご覧」


 差し出した左手を、若者の目の前で開いて見せた。


「?」


 良く見ようと若者が首を伸ばした所で、須佐が右手の煙草を左手の中の物に近付けた。途端にぱっと左手から大きな炎が上がり、若者の前髪を焦がした。


「うわっ!」


 若者が仰け反る間に須佐は背後に回り込み、首の回りに腕を巻き付けた。


「ぐっ!」


 息が詰まった若者が須佐の腕を掴もうとしたが、がっちりと嵌まり込んだ腕はぱんぱんに膨らんで、指が入り込む隙もなかった。


 物の十秒。若者はだらりと弛緩した。


「おい! 大丈夫か?」


 私は心配になって声を掛けた。


「大丈夫。ちょっと落ちただけだから。すぐに目を覚ますさ」


 若者をビルの壁を背に座らせながら、須佐は襟元をくつろげてやった。呼吸と脈拍を素早く確認する。


「うん、オッケー。今の内にずらかろう」


 須佐は、さっさと歩き始めた。


「此の辺のキャッチで俺の顔を知らないなんてのはモグリだね」


 路地を抜け出た所で、須佐が言った。すぐに角を幾つか曲がって道筋を変えた。


「規制が厳しくなって、質の悪いキャッチは減ったんだけどね。さっきのはポッと出の新人だろう」

火霊ひたまを遣ったのか?」


 私は胸に生じていた疑問を須佐にぶつけた。


「さっきのあれ? フラッシュ・コットンさ。便利だろ?」


 須佐は、ぼっと火が燃え上がる様を手で真似た。


「あんたの家系は、『梅』の一族なのか?」


 私は、足を止めて尋ねた。

 二、三歩先を行きながら、須佐は答えた。


「其の辺は微妙なんだよ。またいつかって事にしようや。もう追って来ないだろう。気を付けて帰りなよ」


 後ろ姿のまま手を挙げて、須佐は歩みも止めず人混みに消えて行った。


――――――――――


 次の日、昼近くに起きた私は、日曜日の午後を溜まっていた仕事の消化に当てた。夜八時頃に何とか仕上げ、編集部のアドレスにメールを放り込む。


 飯の支度をするのも面倒なので、ダウンジャケットを引っ掛けて近所のファミレスへ出掛ける事にした。


 幸い此処ではWI―FIが使えるので調べ物も出来る。


 オムライスにビールという他人に言わせるとゲテモノの食い合わせを注文した。料理が来るまでの間にラップトップを取り出し、ネットに繋げる。


 先に来たビールを啜りながら、次の日須佐に会う為の「予習」を始めた。


 本来、歴史を語るなら一次資料、つまり古文書其の物に当たらなければならないのだが、私は論文を書こうとしているのではない。話の筋道に当たりを付ける位であったら、ネットの情報でも其れなりに参考になる。


 ファミレスでお茶を飲みながら一寸した図書館並の調べ物が出来る。便利な世の中に成った物である。


 私の場合はお茶ではなく、ビールにオムライスな訳だが。


 一時間ばかりネットを検索していたら、次の日須佐が語るであろう昌泰の変の真相が少し見えて来た。嵌められた側である筈の道真が変のシナリオに参画していたとすると、物の見方ががらりと変わって来る。


「確かに辻褄は合い易いな」


 私は甘ったるいオムライスをビールで喉に流し込みながら、千百年以上昔の事件を思い浮かべようとしていた。


――――――――――


「一昨日は有り難う。助かったよ」


 居酒屋「権太」のカウンターに着いて、私は須佐に礼を言った。


「其れにしても、今日も此処で大丈夫か? あいつと出くわしたりしないか?」

「大丈夫。此処へ来る前に、店の方と話を付けといたから」


 須佐は何でもない様に言った。


「どの店か分かったのか?」

「キャッチにも縄張りがあるからね。どの店が何処に立つかは大体決まっているのさ」


 須佐は手早く、二人分の飲み物と肴を注文した。


「良く教育して置くってさ。こういうのは信用問題だからね。却って礼を言われたよ」

「其れにしても気絶させたのは、やり過ぎじゃなかったのか?」

「なあに、どうせ本人は覚えていないさ。きれいに落としてやると、直前の記憶が残っていない事が多いんだ。柔道部出身の知り合いがいたら聞いてみると良いよ」


 今更ながら得体の知れない男だと思った。


「あれは『梅』の体術なのか?」

「裸絞めだよ、柔道の。高校時代に囓ったんだ」


 私は気になっていた疑問をぶつけた。


「あんたは『梅』なのか?」


 須佐は気が乗らない風情だった。


「どっちでも良いと思うんだがね。気になって眠れないって言うなら話はするけど、どちらかと言えばノーだね」

「違うのか?」


「もう『梅』は残っていないんだと思う。明治の頃までは受け継がれていた様だが……。戦争もあったしね」

「旧い口伝というのはどうなんだ」

「途中までなんだよ。伝わっていたのは。少なくとも親父から直接聞いた事はない」


 須佐はホッピーを飲み下しながら、遠い目をしていた。


「じゃあ、どうして口伝の事を知ったんだ?」

「偶々さ。高校一年の夏休みに田舎の実家に泊まったんだ。暇潰しに入った蔵の中で和綴じの本を見つけてね。良くは分からなかったが、どうやら道真の事が書いてある。夏休み中掛かって読み解いたのさ」


「其の歳で良く古文書が読めたな」

「明治になって書かれた物だったんでね。カナも多くて其れ程難しくはなかったんだ」

「其れが口伝書っていう訳か」


 そんな状況では口伝書が本物かどうか定かでないし、第一須佐の家に代々伝わった物かどうかも分からない。


「其の本だけなのか、『梅』との繋がりは?」

「そういう事。後は全部俺が自分で調べたり、想像したりした事さ。だから『梅』かと聞かれたら答えはノーだ」


 須佐はコップを置くと、溜息を吐いた。


「未だに『梅』ってのは何なんだろうかって、考え続けてるよ」

「色々事情があるようだな」

「ま、俺の事は置いといて道真の話に戻ろうか」


 昌泰三年の年末、十二月十二日に藤原良世が此の世を去った。享年七十八歳。此の時代としては長命を全うしたと言えよう。


 是で時平を抑える者は誰もいなくなった。道真放逐の条件が整った事になる。


 道真が左遷される原因は、斉世親王への皇位簒奪を狙って宇多法王と醍醐天皇を離間させようと画策したという疑いである。勿論根も葉もない濡れ衣であり、時平一派による誣告だったと言われている。


 如何に権力があるからと言って、証拠もなしに時の右大臣を罪に問う事が何故可能だったのか? 文章博士もんじょうはかせ三善清行みよしのきよゆきの働きが大きい。


 清行は出世を続ける道真に、来年は革命の年に当たるのでそろそろ引退してはどうかと意見した人間である。醍醐天皇に対しても皇位を揺るがす危機を避ける為に改元を行うべきだと建白した。


 公式な上申書である「紀伝勘文きでんかんもん」を提出したのは昌泰四年二月二十二日の事であったが、その内容は既に左大臣時平一派や醍醐天皇に伝わっていた。


 三善清行は、道真有罪の状況証拠を提供した訳である。時平と示し合わせての出来レース。そう考えるのが自然であろう。


 道真失脚の後、清行は其の穴を埋める様に出世している。裏取引の疑いが濃厚だった。


 其れにしても、あれ程畏れていた道真に何故手を出す事が出来たのか? 須佐は其れを「雷神封じの方位陣」と呼んだ。


「良いかい? 平安京と大和盆地はほぼ南北に並んでるだろう? え? 地図を持って来た? 丁度良いや、広げてみて」


「ええと。是が穴師坐兵主あなしにいますひょうず神社。土師氏の聖地と言って良いだろうね。霊山である三輪山の山麓にある」


「さて、先ずは北に上ろうか。穴師坐兵主神社から五、六キロの所に石上いそのかみ神宮と永久寺跡がある。其処から十キロ程北には春日大社がある。興福寺とは隣同士だ。更に北、春日大社から約三十五、六キロの所に醍醐寺がある。醍醐寺から十五、六キロ北上すると延暦寺に至る。此の中では特に、醍醐寺というのを良く覚えて置いてくれ」


 地図の上では、寺の位置に丸を付けた赤いラインが、穴師坐兵主神社から北に延びていた。


「次は南に下るぜ。談山神社と御破裂ごはれつ山は真南にある。直線距離で八キロ位かな。大織冠神像破裂は余りにも有名になったので、今では山の名前が御破裂山に成っちまった訳だ。日本史じゃ教えて呉れなかったろう?」


「談山神社から十二、三キロ南下すると、吉野山に如意輪寺がある。聞いた事あるかい? そうだろうな。有名とは言えない寺だからね。如意輪寺から南に十二、三キロ行くと、龍泉寺がある。是も知らないか」


 赤いラインが、南にも延びた。


「さて、東だ。こいつは有名だぜ。長谷寺だ。穴師坐兵主神社から東に五キロって所かね。天神山が側にあるだろ。気になるだろうけど、まずは地図のチェックを進めよう」


「次は西だ。穴師坐兵主神社から二十キロ位の所に、ご存じ當麻寺がある」


 西に赤いラインを延ばした。


「是で『雷神封じの方位陣』が完成した訳さ。俺は是を道真が考案し、時平に実行させたと考えている」

「勿論道真が直接持ち込んだ訳じゃないだろうね」

「そりゃそうさ。封じられる当人が持ち込んだ案なんて、採用される筈がないからね」


 須佐は二杯目のホッピーを飲み干して、熱燗を注文した。私はつくねを頼んだ。


「間に誰かを立てた訳さ。其の誰かってのを、俺は三善清行と読んでいる」


 須佐は火傷しない様に熱燗を啜った。

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