第十四章:滅びへの道

「誰かあれ! 曲者じゃ!」


 時平が部屋を出ながら叫んだ時、庭が真昼の様に光った。轟と爆発音が上がり、屋敷全体が揺さぶられる。土くれが飛び散り、時平の顔や体を叩いた。


「ううっ……」


 体中に泥を受けて時平は思わずよろめいた。


「籐家長者よ、覚えたか……」


 声は頭の上から降ってくる様であった。


「だ、誰じゃ! 姿を見せよ!」

「菅家に害為さば、屋敷諸共吹き飛ぶと知れ」

「籐家の輩、畏れかしこむべし……」


 其れを最後に声は聞こえなくなった。


 漸く現れた家人が灯りを持って改めると、爆発が起きた場所と思しき庭の地面には深さ一尺程の穴が抉られ、まだ煙を上げていた。


「是が雷神の力か……」


 泥に塗れた時平は家令の進言に従うしかない事を、思い知った。


 実の所、家令の裏では良世の手が糸を引いていた。春日大社での異変後直ぐに、良世は道真に書状を送っていたのだ。


 此の所、時平の一派が道真の身辺に対して行った嫌がらせの数々については、藤原家の一員として心苦しく思っている。道真の家族が被った苦しみを思うと、自分も胸が痛む。


 一方で、此の度の春日大社での変事は菅家に繋がる者の所業であろうか。止むに止まれずの事ではあろうが、菅家と籐家が争いを大きくするのは国を乱す元となり、引いては世の人々を苦しめる事となる。


 自分の力不足で時平を止める事は難しい。勝手な言い分であるが、此処は道真が矛を収めて政から身を引いて欲しい。


 其れが天下国家の為である。


 概ねその様な内容の手紙であった。


 時平は其れを知らない。宇多法皇を動かし、此の危機を乗り切るという家令宣道の案に頼みを繋いでいた。


 当の法皇には、既に良世が手を回してある。基経亡き後、藤原氏存続の為に良世は宇多天皇に近付き、菅家道真をして朝廷を護る御霊と為す秘策を練り上げて来たのだった。


 もし良世の暗躍がなければ時平は更に暴走し、菅家の力によって一族諸共吹き飛ばされる事に成ったであろう。


 良世はバランス感覚に優れた政治家であった。


 時平の家令宣道は、時平の命による形で良世の許を訪れた。密談に及ぶ事一刻。宣道は時平邸に帰って行った。


 其の後良世は使いを立て、宇多法皇に拝謁する準備を整えた。余命幾ばくもない体に鞭打って良世は法皇の許に伺った。


つつが無きやと問うも愚かであるな」


 法皇は良世の様子を見るなり眉宇を曇らせた。


 良世は付き人の手を借りなければ、坐す事も出来なかった。今も半分付き人に体を預ける様にして坐っていた。


「我ながら、もう長くはないと存じまする。其の前に菅家の儀、片を付けてから、此の目を閉じたく」


 長くは息が続かぬ為、良世の言葉は途切れ勝ちであった。


「そうか。思う所を申せ」


 法皇は良世の遺言を聞く面持ちであった。


「されば」


 良世は背筋を伸ばして座り直した。


「皇家御繁栄の為に藤原の家が力を持つ事、益なる儀と心得ます。藤原は朝廷を支える礎として、未来永劫皇家に仕えて参ります。」

「しかし、時に籐家にも道を外れる者が出て参りましょう。恥ずかしながら、当代の時平が此に御座います。其の時籐家を抑え、皇家の盾となる者が無くてはなりません」


 良世は其処で唾を飲み、息を整えた。


「其の役、菅家を以て果たさせたく、御許しを乞う次第」

「菅家に如何なる職を授けよと申すか?」

「菅家に与えるは職にあらず、御霊ごりょうと為して皇家の盾に致しまする」


「御霊とは?」

「気の毒ながら道真殿の役を解き、遠方に遣わした上、任地にて命を落として貰います」

「道真を殺すと申すか? 其れは成らぬぞ!」


 法皇は身を乗り出した。


 良世は、更に息を継いだ。


「命を落とさせると申すは方便にございます」

「方便とな?」

「はい。表向きは病死と致し、人知れず余生を送らせまする」


 宇多法皇は嘆息した。


「其処までせねば、事は収まらぬか?」

「時平は引きませぬ。そうなれば、いずれ菅家は雷神の業を以て、藤原の家を根絶やしに致しましょう」

「道真が不憫な事よ……」


 法皇は、はらはらと涙をこぼした。


「道真殿は既に御承知でございます」

「何? もう告げたと申すか? して道真は何と?」


 数日前、良世の文に対して道真の返書が届けられた。


 其の文には、「精霊天を満たして末代に至るまで皇天の盾と成らん」と、記されていた。


「そうか。道真は怨霊に成ると申したか……」

「はい。配流先は大宰府を仰せ付け願いたいと」


「大宰府とは遠い……。何故に彼の地を望むと申すか?」

「大宰府の手前、周防の国には土師氏の血筋が残っております。彼の地を国家鎮護の礎にする心積もりだと」


「左様か。道真が其処まで思い決めたと申すなら、最早何も言うまい。良世に任せる。せめて菅原の家の者、其の暮らしが立つ様に計らってやるが良い」

「仰せのままに」


 そう言って、良世は法皇の御所を後にした。


 時平邸の雷神騒ぎの後、屋敷に戻った梅若は後刻道真に呼び出された。


「御呼びでございますか」

「うむ。大分忙しく動き回った様だな」

「……」

「良い。責めているのではない。吾等家族の為にして呉れた事。有り難いと思っておる」

「主様!」


 道真の眼差しは優しかった。


「だがな、もう良い。世を騒がせるのは此処までにして置け」

「はい。勝手な振る舞い、申し訳ございませんでした」

「そち等の働き、無駄という訳でもない。雷神の神威は大分に広まった事であろう」


 道真は腕を組んで微笑んだ。


「吾は雷神に成ろうと思う。此のままでは時平様の専横は止まらず、何れは吾等を滅ぼそうと為さるであろう。さすれば、吾等とて籐家を滅すべく立たざるを得ぬ。しかし其れは多くの命を奪い、国を危うくする道である」

「――はい」


「畏れ多き話ではあるが、吾が、いや吾等菅原の家と梅の一族が雷神と成って国を護る盾となろう。是は吾等にしか出来ぬ事。表のまつりごとは籐家に任せる。吾等は千年の計を立て、死に代わり生き代わりて国家鎮護の任を果たすのじゃ」


 道真は迷いなく言い切った。


「間もなく法皇様より、吾に慎み控えよとの内命が下るであろう。吾等は御命に従い身を慎む。しかし、表向き菅原は更なる栄達を求めて増長し、やがて帝の不興を買う事になる。吾は罪を得て大宰府に左遷される事に成っている。其処が吾が終焉の地となる」

「主様」


「心配致すな。命まで取られる事はない。表向き吾は恨みを抱いたまま非業の死を遂げ、御霊と成ると言う筋書きじゃ」

「時平様と籐家一族には十分に雷神への畏れを知らしめたからな。今は吾に手を出すことはあるまい。今度は雷神封じの術を教えてやらねば、吾を滅ぼす事は出来まいな」


 皮肉な話ではあったが、道真は自分自身を滅ぼす為の筋書き作りという仕事に不思議な面白味を感じていた。


「暫くは時平様も大人しゅうなさるであろう。一年様子を見ながら、策を立てようぞ」


 此の会話が昌泰元年十一月の事であった。道真が滅びの道を歩み始めるのは、昌泰三年、藤原良世が其の数奇な生涯を閉じてからであった。


――――――――――


「先生、昨夜は記録が残っているのかって疑ってたよね?」

「彦霊の話だな。うん」

「なら、嬉しいだろ? 御神像破裂は記録があるぜ」

「本当か?」


「嘘じゃないさ。談山神社には『多武峰縁起』っていう神社の由来を語った書物が残っている。そいつに『大織冠御神像破裂記』っていう附記が付いているんだ」

「神社の縁起書ってのはそもそも神話を語った物だから色々変わった話はありそうだけれど、光物が飛んで神像が爆発するなんて破天荒な話が記録されている物かね?」


「其れがあるんだから面白いのさ。破裂記によれば、国家に一大事がある時、山上に光を発し、大地が鳴動して、御神像が破裂すると書いてある」

「光とか鳴動とかは、百歩譲って自然現象という解釈もあるけれど、御神像が破裂するなんて現象は、古今東西聞いた事がないね」


「俺は、日本史教育の欠陥を感じるね。本件に関しては」


 須佐は何杯目かのコップ酒をぐびりと飲み干した。未練がましく、コップの底を透かして見ている。


「日本史の時間にさ、『強訴ごうそ』ってのを習うじゃない。朝廷の力が弱まって、寺の僧がご本尊を御輿みこしに載せて都に乗り込み、寺の権益を有利にしろって練り歩く奴」

「そんな項目があったな」


「其の寺が藤原氏の氏寺の興福寺で、春日大社のご神木を担ぎ出すのが常だったって習ったかい? 詰まる所、時の権力者が藤原氏だったから氏社の春日大社からご神木を持ち出して、『逆らえるなら逆らって見ろ』ってケツを捲った訳だ」

「大織冠御神像とは関係ないね」

「そうでもないさ。同じ藤原氏系統の寺社でも、どうやら多武峯は興福寺と対立していたらしい。多武峯側が大織冠御神像を担ぎ出して強訴に及んだって記録もあるのさ」


 と、須佐は妙に粘っこい口調で、下から私の顔を見上げてきた。


「始祖鎌足様の御神像を持ち出されたら、藤原氏の子孫達も手が出せなかったろうね」

「そう。片やご神木なんて、見た目は只の木だからね。強訴合戦になったら興福寺側の分が悪い。それもあってか、興福寺は多武峯を度々襲撃しているんだ」

「強訴と一言で習ったが、根が深いんだな」


 私が言うと。


「そりゃそうさ。歴史的事件だからな。人の恨みつらみが籠もってらあ」


 須佐はそう言って、空になったコップを振って見せた。


「強訴が盛んになるのは菅原道真が天神になった後だ。藤原氏にしては、此の上自分の所の氏神様にまで祟られたら大変だと畏れる理由があったんだな」


 私は須佐に取り合わず、そう言った。


 大織冠御神像は寛平十年の破裂以来、数百年に渡って三十五回破裂したと記録されている。

 其の内何度が、梅一族の仕業による物か。


 今と成っては知る由もない。


「今夜は是位にしよう。溜まっている仕事もあるんで、次は明後日の月曜日って事にしないか」


 私は須佐にそう告げた。


「まあ良いか。まだ早い様な気もするが、じゃあ明後日の八時に此処で待ってるよ」

「ああ。じゃあ、また明後日」

「先生、気を付けて帰りなよ」


 勘定を済ませた私は、店を出て駅に向かって歩き始めた。


 土曜というのは中途半端な曜日だ。サラリーマンの多くは休日で都会の盛り場にはいない。逆に郊外から都心に遊びに来る若者がいる。


 週日とは街が違う顔を見せる。


 とある路地を抜けようとした所で、キャッチに行く手を塞がれた。


「お兄さん、もう一軒行きませんか。若い子いますよ」


 客が少なくて焦っているのか、二十代の呼び込みは執拗だった。


「まだ早いっしょ。終電まで時間あるし。一時間三千円で良いっすよ」

「行かないよ。もう帰るから」


 男の右横を通り抜けようとした時、丁度前から来た酔客がよろけて私にぶつかって来た。弾みで私は呼び込みの若者に、斜め前から突っ込んで行く形になってしまった。


 私の左肘が若者の肋骨に当たり、思い切り左足を踏みつけてしまった。


「痛てっ。何すんだ、コラぁ!」


 若者はさっきまでの愛想笑いを消して、私に詰め寄って来た。

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