第十三章:大織冠神像破裂
「何をしている?」
或る夜、様子のおかしい葛彦に梅若が声を掛けた。
「何でもねえです」
「何でもない事があるか。其の荷は何だ?」
「何でもねえです!」
言った拍子に、背負った荷が崩れて、袋が地面に落ちた。
「放って置いて下せい!」
梅若が手を伸ばして袋を拾おうとすると、葛彦は其れを遮ろうとした。
「どうかしたのか?」
構わず、梅若は袋を手に取った。
中身は粉の様な手応えであった。
「これは……?」
袋の口を広げて覗いて見ると、中に入っているのは火薬であった。
「此の火薬で何をする積りだ?」
「構わんで下せい」
葛彦は一文字に口を結び、思い詰めた表情であった。
「藤家に向かう積りか?」
葛彦は唇を噛んで、答えなかった。
「御前一人で攻め込んで、どうする気だ?」
「藤家の屋敷等、吹き飛ばしてくれますわい!」
葛彦は顔を真っ赤にして叫んだ。
「奥向きの事を儂が知らんと思うですか? 使いの者があれだけ出入りしていれば、何かあったと分かりますわい。聞けば、主様は元より御子達にまで余りな仕打ち。もう放って置けませぬ!」
「死にに行く積りか?」
梅若は静かに尋ねた。
「一人で何が出来る。いくら火薬を使ったとて、屋敷に入り込む事さえ出来まい。門を吹き飛ばすのが精一杯ではないか」
「火薬を抱いて時平様の乗物に飛び込んでやる!」
「其れでどうなる? 藤原は時平様だけではないぞ。取巻きの公家衆はどうする?」
「……」
葛彦に其れ以上の考えはなかった。問答では負かされると知った葛彦は、制止を振り切って走りだそうとした。
「待て!」
梅若は、葛彦の腕を掴んで引き留めた。
「吾に考えがある。我慢出来ぬのは御前だけではない」
梅若の指は、万力の強さで葛彦の腕に食い込んでいた。
「藤家の者共、公家の諸衆。眠れぬ程に震え上がらせて呉れる」
「梅若様!」
「乗物等と手ぬるい事では終わらせぬ。雷神の怒りどれ程の物か、天地を揺るがしてやろうぞ」
手を離しても、葛彦はもう走り出さなかった。腕には梅若が掴んだ指の跡が、白く残っていた。
「支度が要る。今夜は休め。動くのは明日からだ。良いな? 吾の指図を待て」
「へい!」
葛彦は目を輝かせて頷いた。
明けて翌日。梅若は務めの合間を縫って策を練った。支度も様々に指図して整えさせた。中でも用意させた火薬の量は尋常でない量であった。
梅若の指図を受け、葛彦は黙々と準備を為した。道具の其々を撫でる様に磨き、袋に詰めて行った。
「今に見ておれ……」
「思い知るが良いわい」
時折ぶつぶつと独り言を呟きながら、手を動かしていた。
梅若の後ろ盾を得て、心が落ち着いたのであろう。顔色も大分明るく成っていた。
数日後、梅若と葛彦の姿が屋敷から消えた。
「聞いたか?
「光物って何や?」
「何でも大和の御山の上を、夜毎火の玉が都に向かって飛んで行くのだそうや」
「物の怪の類か?」
「人魂と違うか?」
「さてなあ。何ぞ悪い事の前触れやないか?」
梅若達が姿を消して間もなく、都に住む人々の間に不思議な出来事の噂が広がった。光物は流れ星とは明らかに異なっていた。流れ星は空から地に落ちる物だが、光物は逆だった。ひょうと尾を引く長い音を立てて天空を斜めに駆け上がり、光物は最後に轟音を立てて砕け散るのだった。
不思議は更に続いた。
藤原家所縁の春日大社での事である。
或る夜、ふと眠りの途中で目覚めた神官が、
どうした事だろうと目を凝らすと、御簾の向こうにぼうっと光が浮かんでいる。まだ眠気が抜け切らない神官は
「籐家滅亡を恐れるべし……」
地を這う様な低い声でそう聞こえて来た。
「誰か?」
問いに対する答えはなく、何処から聞こえるか定かでない声は抑揚のない口調で語り続けた。
「人の行い天道を犯せば、雷神是を討つと知るべし。籐家、畏れかしこむべし……」
「政乱るる時、地龍山を揺るがし、天龍空を焦がす。籐家の輩、祖霊諸共ひとえに裁きを免れず」
「畏れかしこむべし。畏れかしこむべし……」
そう聞こえて、すうっと光は消えて行った。
他ならぬ藤原家に関わる変事である。神官は翌朝直ちに時平へ、此の出来事を言上した。
「下らぬ悪戯であろう。捨てて置け」
知らせを聞いても、初め時平は取り合わなかった。どうせ菅原に繋がる者が苦し紛れに
すると今度は氏寺である興福寺で同じ異変が起きた。雷神の怒りと藤原家の滅亡を予言して、光と声のお告げがあったという。
興福寺にも見張りを立てたが、曲者を捕らえる事は出来なかった。
「おのれ、道真! 我ら籐家に正面から挑むつもりか?」
時平は歯噛みして憤った。
時平の怒りを更に掻き立てようと言うかの様に、大和桜井の
談山とはその昔、大化改新で中大兄皇子が蘇我入鹿を討つに当たり、中臣鎌足と謀反の相談を巡らしたという
現在でも
中臣鎌足は大化改新の功によって取り立てられ、藤原の姓を授かった。即ち藤原氏の始祖である。
談山は藤原氏に縁深い土地であった。談山には鎌足の墓まである。
一度別の場所に葬られた鎌足は遺言に従って談山に回葬されたと言う。後に十三重の塔が建立され、妙楽寺として伽藍を構えるに至った。明治期の神仏分離により、現在では
本殿には「
鎌足が病を得て死に瀕した時、快癒を願って天智天皇が授けた人臣最高の位が大織冠であった。
多武峰鳴動の異変も妙楽寺の住職から都に知らされた。此の時も住職の夢枕に、雷神のお告げがあった。地龍が揺るがす山とは談山の事であった。
「鎌足様の
時平は怒り狂ったが、そもそも山を揺るがす等人の為せる業ではなかった。怒りの後には、道真が持つ呪力の大きさに対して畏れが芽生えていった。
談山を揺るがせた地鳴りの異変は、梅一族が談山の要所に仕掛けた地龍の秘術であった。更に別働隊が同時に天龍を空に放ち、大和の人の耳目を集めた。
時平は談山にも手の者を送ったが、山や空が相手では探索のしようもなかった。送り込まれた家人達は為す術なく、地鳴りに怯え、流星に驚くばかりであった。
連日連夜双龍の威力を見せ付けた後、梅若は更に過激な策を発動させた。
「大織冠御神像爆破」である。
度重なる天変地異を畏れて、時平は国家鎮護の祈祷を命じた。春日大社、興福寺、そして妙楽寺で其々に加持祈祷を行う事になった。
妙楽寺では僧侶達が、本尊である大織冠神像に祈りを捧げていた。
其の時である。何時にも増して激しい地鳴りが始まった。東で地鳴りがすると思えば、西から地響きが伝わって来るという具合で、ひっきりなしに轟音と地震が続いた。
本堂は軋み、御神像は今にも倒れそうに揺れ動いた。
「あな、恐ろしや」
「御山が割れる!」
「護り賜え!」
僧達は腰を抜かして震えていた。其の時である。一際大きく、どおーんと地鳴りがしたかと思うと、嘘の様に地鳴りが収まった。
辺りは音一つなく、静まり返った。轟音に慣れた耳が、きいんと痺れていた。
僧達は金縛りにあって動けずにいた。
其の時、本殿正面から離れた木立に、葛彦が身を潜めていた。夜明け前から迷彩を施した布を被り、茂みに同化していた。
御神像までの距離約二十間。
腹這いになった葛彦は、「
是はロケット砲である天龍の小型化を目指して、葛彦が創り出した火器であった。実体は原始的な火縄銃であり、鉄を鍛えた銃身から鉛玉を発射する仕掛であった。
其の威力は……。
葛彦が鉄雹の火皿に火縄を当てると、轟音と共に銃身が火を噴いた。次の瞬間、本堂の御神像の頭が爆発した。
鉄雹の弾丸は鉛玉であったが、的に当たった玉は潰れながら運動エネルギーの全てを標的に伝える。神像の頭部は正に爆発した様に、大音響を立てながら辺りに飛び散った。
吹き飛んだと言うのが相応しい有様であった。
「ああ……」
御神像と向き合っていた住職は、声を上げて気を失った。爆風を顔に受けて、自分の頭が吹き飛んだ様な衝撃を受けたのであろう。
「何事であろう?」
「雷か? ない(地震)か?」
「ああ、御神像の
本殿内は大混乱になった。
どーんと、本殿を震わせてもう一度大音響が頭上でした。梅若が屋根の上の中空で破裂させた天龍である。
「ぎゃあ!」
僧侶達は踏み潰された蛙の様な声を立てて、悉く床に這った。
「籐家の輩、畏れかしこむべし……」
何処からともなく、声が聞こえて来た。
「人の行い天道を犯せば、雷神是を討つと知るべし。」
「政乱るる時、地龍山を揺るがし、天龍空を焦がす。籐家の輩、祖霊諸共ひとえに裁きを免れず」
「畏れかしこむべし。畏れかしこむべし……」
「大織冠今日裁きを受けたるは今人の咎による也。籐家の長者行いを改めざらば、籐家の一族、下々に至るまで雷神の裁きを受けん」
雷神の使いは、そう告げて気配を消した。
怯えきった住職は、都の時平に向けて変事の子細を文に認め、使いを立てて言上した。
「御神像が破裂したと? 馬鹿な!」
俄に信じられない時平は、信頼できる家令を多武峰に使わし、御神像の様子を見聞させた。結果、住職の報告に偽りはなく、御神像の頭部は木っ端微塵に吹き飛んでいた。
「あの様な有り様は見た事がありませぬ」
宣道という名の家令は僧達の怯えが移ったかの様に、声を潜めて時平に報告した。
「御神像を傷付ける等、狐狸妖怪の類には叶わぬ事。是は矢張り雷神の祟りと思う他御座いませぬ」
「ならば道真を討ち果たしてくれん!」
時平は青筋を立てて、怒鳴った。
家令は寧ろ冷静であった。
「御言葉ながら、山さえも揺り動かし、御神像を破裂させる呪力が相手で御座います。まともに刃向こうては御命に関わりまする」
「ならばどうせよと申すか!」
宣道は一呼吸置いてから、言葉を繋いだ。
「恐れながら、先の帝に雷神慰撫を御願いするしかなかろうと思われます」
「先帝に膝を屈せよと申すか」
「御家の為でございます。都を騒がす天変地異を抑える為と申さば、御名に傷が付く事もございますまい」
「菅家の事は、祟りが収まった後に始末を付ければ良い事でございましょう。私にお任せ下さい」
時平は渋々ながら家令の言葉に頷くしかなかった。
其の夜、遂に時平邸に雷神の使いが訪れた。表から射す明かりに目覚めた時平の耳に、低い声が聞こえて来た。
「籐家の輩、畏れかしこむべし……」
「何奴か? 何れ菅原の者であろう。我らに害為さばどうなるか、分からぬか!」
時平は寝床に半身を起こし、家人を呼ぼうとした。
「人の行い天道を犯せば、雷神是を討つと知るべし。雷神の神威、其の目で見定めよ……」
表の明かりがすっと消えた。
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