第十二章:藤原長者

「相撲勝負の一件以来、其れまでも病気がちだった基経は本格的に寝込んじまったらしい」


 須佐の推測では相撲事件は寛平二年(西暦八九〇年)、道真が讃岐守から帰任して間もなくの事であった。


 基経は其の僅か数ヶ月後、寛平三年一月にこの世を去っている。


「心残りは我が子時平と、藤原氏の行末だったろうよ」


 最大の障害、菅原道真という存在からは結局牙を抜く事が出来なかった。時平を病床に呼び寄せて、基経は最後まで道真に気を許すなと言い残した。


 此の時、時平は二十一歳。権守ごんのかみとして、皮肉にも嘗て道真が国守くにのかみを務めた讃岐に赴任していた。


 死を前にして基経が計らったのであろう。前年には従四位の上であった位階を、一足飛びに従三位へと上げている。藤原の家を継ぐ者、即ち禁裏の政を継ぐ者は時平であると、宣言を為したのであった。


「道真を侮るな。彼は此の世の者にあらず。争うてはならぬ」

「何故其れまでに畏れなさいますか?」


 道真の力を目にしていない時平には、理解できない父親の態度であった。全てを治め、刃向える者等ない最高権力、其れが藤原氏ではなかったか。


「式部少輔如き、罪を与えて除いてしまえば済む事ではありませぬか」


 若い時平には、基経の慎重さは理解出来なかった。


「成らぬ! 奴に手を出すでない! 道真にはまだ裏がある」

「一体、菅原の家に何があると言うのでございますか?」


 基経は一度乱れた息を整えねば、話を継ぐ事が出来なかった。


「土師氏の力侮り難し。雷を発し、炎を操る事、人の身の技にあらず。山を動かし、野を河と為す。時平、道真に触れてはならぬ――」


 基経は咳き込み、ごくりと唾を呑んだ。


「……触れれば祟るであろう」

「分かりました。菅家の事は仰せの通りに。どうかお休み下さい」


 言葉では素直に基経の言い付けを聞き入れた時平であったが、心の裡は別であった。


 ――父も老いた。物の怪の影に怯えるとは。


 基経はまだ何か言いた気であったが、口を開く体力が最早失せていた。


「疲れた……。其方は下がってよい」


 基経は浅い眠りにつき、生涯最後の策謀を起こす為僅かに残された体力を掻き集めようとした。

 しかし、寝息にも力はなく、余命は幾許いくばくも残ってはいなかった。


 目覚めると、基経は自分の叔父である良世よしよを呼ばせた。


「気分は如何かな」


 良世は基経に、静かに声を掛けた。


「良い様に見えますか? ふん、挨拶等余計です」


 基経は痩せ衰え、良世の目にも快癒の見込みがない事は明らかだった。


「せめて気持を安らかに持たれよ」

「安らかに等死ねる物ですか。そう思うなら、今から言い遺す事を聞いて下され」


 血の気が失せ、骨と皮になった基経の面相であったが、窪んだ眼窩の奥で眼光だけは未だ鋭く良世を見据えていた。


 気迫に圧されて、良世は表情を改めた。


「何なりと承ろう」


 死を目前にしても、基経の頭脳は乱れていなかった。


「叔父上に藤原の家を任せまする」

「……」


 既に元服を済ませた時平ではなく、敢えて叔父に家を継がせようと言うのであった。


「良いのか? 儂で」


 驚きを飲み込むと、良世は念を押す様に尋ねた。


「時平は若い。未だ思慮が足りませぬ。今のままあれに家を継がせれば、遠からず菅家と事を起こしましょう」


 菅原家との争いを避けるために、氏の長者を良世に預けると言うのだ。


 良世という人物は、凡庸で権勢欲のない男であったらしい。

 兄良房の陰に隠れて、権力闘争とは無縁の人生を送ってきた。甥の基経が養子でありながら藤原の家を継ぐ事になっても、諾々として是に従っている。


 が、なまくらと見せて、存外切れる男であったのかもしれない。

 半端に欲を出す事の怖さを知っていた。


「儂に何をせよと?」


 基経は目を閉じると、此処数日考え続けた策を語り始めた。


「道真を祟り神にして頂きたい。藤原の家を守る道は其れしかない」

「祟り神とはどういう事か?」

「菅家には政から身を引いて貰う。其の代わりに、吾が藤原の氏は祟りを背負おうと言う事です」


 此のまま時平が専横に走れば、藤原家と菅原家が正面からぶつかり合う事になる。そうなれば菅家は牙を剥き、雷神の技を以って藤原家を滅ぼそうとするであろう。


 其の先は、共倒れの道しかない。


 道真に栄達の欲はない。只、藤原の専横を憎むだけである。


「ならば、身は祟り神となり、二百年後、三百年後も藤原の家を呪い続けよと道真に説くのです」


 藤家が道を外す事あれば、道真の怨霊が是を阻む。吾が身を捨てて、国を守る盾と成れと言う事であった。


「藤原にとって、虫の良い話ではないか?」

「止むを得ますまい。当家はそういう血筋なのです。今更綺麗事を言うても仕方が無い」


 高みに咲きて天を覆う。藤の花が如き栄華を誇るのが藤原家の在り方ならば、笠や枕の原料となるすげは地中に根を延ばし地を覆って人の平穏を支える物。


「藤」と「菅」は天と地から大和の国を支えるべき使命を負った一族なのだ。


「道真は此の話を飲むであろうか」

「飲むでしょうよ」


 基経は迷いなく言い切った。


「奴は賢い。藤家と菅家が相争う事の愚を悟れば、己から身を引くでしょう」

「厭な役だな」


 良世は口を歪めた。


「道真に引導を渡し、藤家に祟りを引き込むとは」

「道真を追い詰める役は、時平が務めるでしょう」


 今度は基経が顔を歪める番だった。


「其れで良いのか? 儂が全て引き受ける事も出来るが……。どうせ儂とて先は長くないのだ」

「叔父上に敵役は似合いますまい。まこと道真が怨霊と成ったと世に信じさせる為には、敵役が本物でなければ成りませぬ」


 藤原家、いや国家存続の為には、我が息子でさえも犠牲にする。基経の非情な決意であった。


「分かった。氏の長者は儂が預かり、時来たれば時平へと返そう」


 良世の目には同情の色があった。


「其れまでに時平が己がぶんを知れば……。藤家だけでなく、あ奴にも進む道が開けるのだが」


 其れを望むのは無理であろうと、基経の口調が語っていた。


――――――――――


「時よ、程々に致せよ」

「何の事でしょう」


 基経が没してから七年が過ぎた昌泰元年、今度は良世が病の床に就いていた。


 前年、宇多天皇が醍醐帝に皇位を譲っている。時平が迫って、宇多天皇に承知させた事であった。


 良世は、知っていながら其れを止めなかった。宇多天皇も十年という間玉座を温め、そろそろ退いても良い時期であったからだ。


 しかし、其の後がいけなかった。跡を継いだ醍醐天皇に宇多上皇は、「政務の事は、全て時平と道真に聞け」と、言い置いた。


 醍醐帝は即位の時、十三歳。元服と同時であり、当時としては幼いとは言えなかったが、大人の言う事を聞けと言うのは当然のアドバイスであった。


 藤原氏の重用は良い。しかし、道真を同格に扱った事が時平の癇に障った。


「成り上がり者を、自分と同列に扱うとは」


 プライドを傷つけられた時平は、源光みなもとのひかる他の公卿等に命じて政務を放棄させた。父基経が阿衡の紛議で取った行動と、全く同じパターンであった。意図的に真似をしたのか、独自の作戦を立案する創造力がなかったのか?


 恐らく後者であろう。行動力はあるものの、創造力には欠けていたのだ。


 良世は、時平の本性を見抜いていた。本人が自分の器量を勘違いしている事も。


「先帝に譲位をさせた事は良い。何れ代替わりはする事だからな。しかし、菅家を苛めたのは愚行じゃ」

「何故です? 菅家如きに好きにさせて良いのですか」


 良世はげんなりとした顔をした。


「道真に野心はない。あの家は只の学者なのだ。放って置いても害はない」

「そう言いますが、現に道真は娘二人を皇家に送り込んでいるではありませんか」


 是は事実であった。


 道真が望んだ結果ではなかったが、宇多天皇、斉世ときよ親王にそれぞれ道真の娘達が仕える形になっていた。


 斉世親王の妃に至っては、元服とほぼ同時に嫁ぐという目立った形であった。

 見様によっては、菅原氏が藤原氏の真似をして外戚政治を目指しているとも受け取れる。


 実は裏で良世が謀った事であった。道真を怨霊とする為に用意した布石である。


「もう一度言う。道真に野心はない。先帝が娘を御気に召されただけじゃ」

「だとしても、彼奴等が出過ぎぬ中に叩いて置く方が良いでしょう」

「相手を選べと申しておる!」


 良世が常にはない大声を発した。痩せても枯れても、つい先年まで藤原氏の頂点に立っていた人物である。病床にあるとは言え、一瞬、時平を黙らせるだけの迫力があった。


「仰せのままに」


 時平は頭を下げて退出した。


 独りになると、良世は太い溜息をついた。どうせ時平が人の言葉等聞きはしないだろうと分かっていた。


「最早儂の手には負えぬか……」


 慨嘆するしかない。


「許せ、基経」


 良世は、時平を見捨てる決意をした。


 時平が非業の最期を遂げる事は、此の瞬間に決まったと言えるかもしれない。


 時平には才気がある。人にそう言われ、自分でも疑わなかった。切れ者であったのは事実であろう。しかし、時平は自分の感情を抑え、冷静に大局を観る事が出来ない性格であった。


 生まれた時から人の上に立つ事が決まっていたのだ。其れも並ぶ者なき頂点に。我慢を覚えよと言うのが、無理であった。


 過ちを見つければとことん人を追い詰め、敵と見れば立ち直れなくなる迄叩くのが正しい戦略だと信じていた。


「能無しの大叔父が何を言うか!」


 時平は益々頑なになるばかりであった。氏の長者は、既に自分である。己の考えが一番正しいと、信じて疑わなかった。


 時平の嫌がらせは執拗であった。道真に対しては政務をこなし難い様、公家達には徹底して無視を命じた。宇多上皇が道真への協力を命じても効き目はなかった。


 道真直属の部下以外は、公家も役人も、道真の命を受けぬどころか、まともに口を利こうともしない有様であった。


 其れでも道真は黙々と政務をこなした。


 派閥を作って勢力を争う事は元々望んでいなかったので、周りから疎まれても其れ程苦には成らなかった。


 寧ろ立身出世する事が煩わしかった。何度か昇進を辞退する意を表したが、聞き入れては貰えなかった。


 道真の出世は良世の仕組んだ事であったからだ。時平と道真を常に並べて昇進させる。衝突を必然と思わせる為の下拵えであった。


 其れを分かった上で時平が行動して呉れるのであったら、何の心配もないのだが……。


 何度か自分の考えを時平に打ち明けようかと悩んだ良世であったが、時平の素行を見る度に思い直すしかなかった。


 やがて、時平の嫌がらせは道真の家族に迄及んだ。自らが其処までせよと命じた訳ではなかったが、時平の顔色を見ながら周囲の者が行った事であった。

 結果的には時平の意志と言う事になる。


 持ち物が隠されたり。

 衣装が汚されたり、裂かれていたり。

 飯の中に鼠の死骸が入っていた事もあった。


 遂に娘の一人は気を病み、熱を発して寝込んでしまった。

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