第六章:風神雷神図
道真は屋敷に戻った。
庭の梅の木が良く見える座敷に座していた。道真は子供の頃から此の座敷を好んでいた。季節が夏の今、梅は花を咲かせてはいなかったが、其の姿を見ると何故か心が落ち着くのだ。
「さて、どうした物か……」
梅若達は優れた体術を身に付けてはいたが、相撲という形での勝負には不向きであった。まともに勝負してどうなる物でもない。
「先ずは相手の様子を見てから考えるとするか。梅よ、蹴速麻呂とやらの様子を調べて参れ。基経様の周りを探れば、何か動きがあろう」
梅の木が返事を返す事も無かったが、すうっと庭を風が渡って行った様だった。
「はてさて関白様に大層嫌われた様だ。是では宮仕えにも差し支えよう。此の身の始末はさて置いて、菅原の家と政の大本、何としても正しく残す事を考えねば成るまい」
道真は権勢を極める基経に対して、専横を戒める姿勢を崩さなかった。例え其の身は弱小貴族の出自であろうとも、帝の御血筋と朝廷の安泰を図る事。其れが廷臣たる菅原家の務めと信じていた。
大化の改新より二百四十余年、藤原氏の支配は永く続き過ぎた。
「畏れ無き者は省みを知らず。此の身を捨てても、世に畏れを残さねばなるまい」
道真は庭に向かって座したまま、思案を続けた。
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「先生はさ、『
須佐が問い掛けて来た。
正直な所、記憶がはっきりしなかった。
「あこうって何だっけ?」
「阿衡ってのはさ、まあ摂政とか関白と大差ない名誉職だね」
大分酔いが回ったらしい須佐が説明を始めた。
「要するに天皇のコンサルタントっていう事さ。宇多天皇が即位した時に、老巧な藤原基経に政のバックアップをお願いしたいと言って、中国の例を引いたのが阿衡という職な訳だ」
何故か基経は此の詔勅に反発した。名誉職だと言うなら執務をする必要はなかろうと、自宅に引き籠もってしまったのだ。
困り果てた宇多天皇は、自分の詔勅に誤りがあったと認めて基経を慰撫するしかなかった。
あり得ぬ屈辱。
其れでも基経は治まらず、元の詔勅の起草者である
天皇を蔑ろにするにも程があろう。
詰まる所、自分は帝の言いなりには成らぬと言う示威行動に他ならない。
「基経はもう五十を過ぎていて、当時としては晩年になっていた。其れから四年後に死んでいる訳なので、体も弱っていたんじゃないかな」
実際の所、引き籠もりの半分は療養の目的だったのかもしれない。其れを
跡を継がせる息子の時平に盤石の地位を残す為、宇多天皇に自分の力を見せ付けたのだ。
「其れを諫めたのが当時讃岐守として四国に赴任していた菅原道真な訳だ」
成る程唐の律令制では阿衡の職に具体的な中身はない。しかし、我が国の律令制は唐の其れと元々異なる物と成っているので、阿衡には太政官を統率して政務全般を司るという立派な職務があると言える。
言葉尻を捉えて橘広相を罪に問うなど、藤原家の体面に泥を塗る行為である。そう言って、真っ向から基経の行動を非難したのである。
恐るべき勇気である。此の時道真の官位は、従五位上でしかない。律令制について彼以上に知る者はないと禁裏中に認められた道真だからこそ、言い得た意見であった。
「実力が伴っていたんだよ」
「実力?」
「道真には『天龍』『地龍』という秘密兵器があったからね」
はっきりとは分からぬ物の、道真が雷神の力を振るうという事は公卿の間に知られていたのだと言う。
「鬼の絵があるだろう?」
「今度は鬼の話か?」
「いや、何故鬼には角があって、虎の皮の褌をしているか」
「『鬼門』が『
其の位は歴史好きの常識である。
「其れは其れで良いんだがね。雷様も鬼に似ているだろう?」
確かにそうだ。背中に太鼓を背負い、雲に乗れば鬼の絵は雷神となる。雷様といえば、もじゃもじゃ頭に角があるというお約束である。
「虎の皮はさあ、何故褌にしたのかねえ。別に上着として着させても良い訳だろ」
「野蛮人を表しているんじゃないのか?」
須佐は悪戯を企んでいる様に、上目遣いで私を見た。
「道真の先祖は相撲取りだぜ。褌裸は土師氏のトレードマークさ。風神は袋から風を吹かせるだろ。ありゃ、
是も
私の頭は、酒の酔い以外の物でぐるぐる回り出していた……。
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