十九話 のっぺらぼう(散る)
無貌はただただ苛ついていた。
──己と美成はただ、二人で静かに生きることを望んでいた。それなのに、それなのに!
邪魔をする妖斬りに、妖の鳥を操る娘。
太兵衛の長屋になど行かねば良かったと思う。美成の言う通り、
美成を奪おうとした奴らを、苦しめた奴らを、懲らしめてやりたい気持ちはある。しかし、美成と秤にかけるまでもない。この縁だけは奪われてはならない。
耳障りな音がする。
振り返り、逆袈裟に宙を薙ぐ。よもやあの男か──とも思ったが、期待はずれの鴉がそこに飛んでいた。
「……何故!」
鴉は答えない。答えないが、しつこくあたりに羽根を撒き散らす。斬ろうとすると風のように舞い上がり、此方の姿勢が変わる瞬間に舞い降りる。
「忌々、しい、奴らッ!」
乱暴に刀を振り回しながら、ジリジリと無貌は進む。ぶん、と振った一閃が鴉に掠める。二つの間に距離が生まれる。
無貌が駆け出そうと脚に力を込めた時──目の端に男が一人。咄嗟に身を捻って地面に転がるように避けた。頭の上を真一文字に刀が走っていく。冷たい瞳がふたつ、光っている。
妖斬りがそこにいた。既に次の構えに移った男に、背を向けるわけにもいかない。
「何故だ、何故だ、何故、
「……」
「これは、渡さぬ、渡さぬ、渡さぬ──ッ!」
「いや、返してもらう」
「美成が、おまえの、ものであるものか!」
「──その通り。故にお前のものでもない」
無貌は吼えた。
夜四郎に向け一足跳びに斬りかかると、上段から刀を振るった。夜四郎はそれを難なく避け、薙ぎ払った軌道をも避け、走った刃は弾き返される。夜四郎はふ、ふ、と呼吸をとって闇の中に踏み込む。しかし美成に配慮してか、いささか浅過ぎる斬撃を無貌はぬるりぬるりと躱す。辺りが開けて、影がなくなる。
一進一退、どちらも相手に刃は届かない。
夜四郎は美成を奪う機会を待っている。
無貌は美成と逃げる機会を窺っている。
+++
鴉は既に隠れたたまの元に戻ったのか、今向き合うのは無貌と夜四郎の二人──夜四郎にとって、この打ち合いも特別苦しいものでもなかった。
かつて剣術指南をつけていた頃のように相手に打ち込み、相手の攻めは確実に避ける、ただそれだけ──そんなことを思いながら、夜四郎はじっと目を凝らしていた。じっと無貌の動きを見つめる。腹に大切に抱えた何かを庇うその動きを、待つ。
一太刀、ずれる。まだ。
二太刀、ぶれる。まだだ。
三太刀、揺れる。……。
その瞬間、背後で鴉が鳴いた。
夜四郎はすかさず踏み込む。無貌が姿勢を崩すところに刀を返し、その背中に回り込む。やや乱暴に、無理やりに刀を振り上げた。
夜四郎の刀がのっぺらぼうの身体を抉っていた。紙を割くように斜めに走ったその軌跡の隙間に、今度は真一文字に二の太刀を薄く走らせる。影がぶわりと広がって、辺りに漂う。
──見えた!
「美成殿!」
「──ッ」
薄っぺらい、けれども底なしのその影に夜四郎は腕を伸ばした。ハッキリと視えるその人の腕を掴んで、反動をつけて一気に引き摺り出す。抗うように身を捻った無貌に、蹴りを入れて突き飛ばした。
思ったよりも容易く、その身体はずるりと抜け落ちる。美成を抱えあげて、夜四郎はすぐに距離を取る。庇うように前に立ったまま、
「美成殿!」
もう一度、夜四郎が鋭く呼んだ。
「美成ッ」
無貌が吼える。
おのれを呼ぶ声に、その瞼が震えた。やがて薄らと持ち上げて、顔を顰めて、わずかに身を起こす。
「……あ痛たた」
呟いた声に、無貌が止まる。
「一体なんだい、騒々しい……」
辺りに向けられたその目が、すぐに無貌を捉えた。夜四郎を捉えた。丸く見開かれる。
「────無貌?」
「よ、美成……」
無貌の顔が歪む。明らかに焦りの色、恐怖の色がそこに浮かんでいた。行くなと、戻ってきてくれと叫ぶ声。それを阻むように、
「お前の行先に、美成殿は連れて行かせんよ」
夜四郎が低く呟く。無貌の顔が夜四郎に向けられる。夜四郎の表情を見て、無貌の顔がさらに歪んだ。
「戯け、戯け、戯けるな──ッ!」
「……食わねば良かったのだ」
そうすれば、と夜四郎は呟いた。食わねば、斬らねば、よかったのだと。何もかもが遅すぎた。
刀を握る手に力が篭る。斬られたところを隠そうともせず、その太刀は夜四郎に向けられた。夜四郎も真っ直ぐにそれに応える。
「奪うなら──」
無貌は思考を回す。首を回す。はた、とその動きがある一点を捉えた。じっと見る。じっと聞く。夜四郎から見て、右後ろにある点。そこには
「──ッ、たま!」
夜四郎はすぐに動いたが、無貌の方が一瞬だけ早い。無防備にも背中を見せて、高く跳ぶ。
──奪われてみれば、お前にもわかるだろうよ。
そう、無貌は思いついたのだ。あの珍妙な娘が妖斬りにとって何なのかは知るよしもないが、こんな場に連れてくるぐらいだ。友を奪われるこの苦痛を、きっと理解させられる──。運良く平静を失えば、その隙にまた美成と二人で逃げればいいのだ。
本当は、あのまま美成に手を伸ばしたかった。けれども、間に邪魔な男がいた。奴は恐らく己を斬ると、無貌もわかっていた。故にこそ、隠れていたもう一人の邪魔者に向けて、駆け出したのである。
器用に影に
振り上げた刀が夜の光を反射する。
「無貌!」
美成が叫ぶ。力のこもらぬ脚をもつれさせながら駆けだす。
「だめだ、誰も斬っちゃだめだ!」
たまが声にならない悲鳴をあげた──そこに手を伸ばしたのは、美成だった。転びながら、必死に駆けてくる。転がり込んでくる。
「無貌、だめだよ、やめてくれ!」
縋り付くような声に、ぴたりと刀が止まった。振り上げた形のまま、
「何故……止める」
不安そうに零した。
「何故、美成」
「だめだよ、だめだよ、無貌────なあ、夜四郎さんも、もうやめとくれよ……」
美成は咽び泣いていていた。すぐ背後の夜四郎は構えたまま動かない。
「誰でもいいからさ、なあ、これは一体、どういうことなのさ……」
「……御免、些細お話しする余裕なく。……手前勝手な願いですが、暫したまを頼んでもよろしいでしょうか」
夜四郎を見て、美成は眉尻を下げた。
「あんたは、聞いてくれないのにか」
「ええ」
「なあ、何でなんだよう……やめてくれ、あんたたちが斬り合うなんて必要、ないだろうが」
「……」
夜四郎は答えないまま、刀をだらりと垂らして、一歩、二歩と無貌との距離を詰めた。じり、と無貌が退がる。再び二人が走り出せば、たまも美成も何もできない。
再度、夜四郎が斬り込む。
大きく走ったその一閃を、無貌は後ろ跳びに避ける。悔しげな、悲しげな、その顔はやはり夜四郎ではなく美成に向けられていた。
たまはただただ、それを見つめるばかり──
「おたまさん!」
美成が、そんなたまの腕を引いていた。
「なんで、なんで来たんだよ! なんで! 私は諦めろって言ったのに!」
「よ、美成さま」
「いつだってそうだ、真に欲しいものはさ、この手をいつだってすり抜けるんだよ──」
たまはただ手を引かれて、庇われるように立たれて。視界から夜四郎たちを隠される。
「……今だって、私は……あの子に駆け寄ってやるべきだったのに」
肩を震わせる美成の顔が見えない。
たまはそんな背中を見上げていた。溢れる。
「……美成さまと、無貌さんは、ずっと一緒にいたのですね」
「ずっとは居てやれなかった」
「少なくても、あなたが襲われた日から」
「……襲われたなんてさ、馬鹿馬鹿しいよ。私がそう頼んだんだよ、この私がね」
「なぜ、ですか」
「怪我をすりゃさ、私に対する周りへの目は欺けるだろ。そしたら私と無貌の二人でさ、何処かに引っ込む話もつきやすいじゃないか。……田舎でさ、二人で暮らすのも悪かないんじゃないかってさ、ずっと、ずっと思ってた」
叶わぬ夢を話すように、震える声で紡いだ。
「なあ、おたまさん、なんでなんだい」
美成はすすり泣いていた。
「無貌はさ、寂しい子なんだ。知らなかったんだよ、生きる術を知らなかったんだ。何者にもなれないなんて言われたってさ、そんなわけないじゃないか。あの子は、私によく似た友はさ、悪い奴なんかじゃなかったんだよ」
「美成さまは……、助けたかった……」
「ああ、救いたかった! そうさ、わかってるよ。あの子が何も知らなかったって辻斬りは許されやしないよ、それでもさ、わかってても、あるだろう。あんたなら、わかるだろう?」
「……」
「……何色もどんな表情も知らないならさ、せめて私があの子に幸せな色を見せてやりたかった。幸せにしたかったんだよ」
たまは嗚呼、と目を閉じた。
「あの子を救いたかったんだよ、私は」
美成もきつく目を閉じていた。絞り出される声が震える。
「……あの子は確かに、人を害したさ。今日だって太兵衛をどうこうするつもりだったのかもしれないよ。それを退治するあんたらこそがさ、世間にとっちゃ正義の味方なんだろう。それはわかってる、分かってるけどさ──」
美成が絞り出す声に、たまは頭を振った。
たまも夜四郎も、正義の味方などではないのは、たまだってわかっていた。己の目的の為に動いているだけ──それは美成と無貌となんら変わりはない。
「違います、たまたちは、違うのです」
「ううん、違わないんだ」
美成は震える声で続けた。
「でもさ……おたまさん。頭でわかっているのと、心で納得するのはまた、違う話なんだよ」
たまたちが正義の味方なら、きっと美成にこんな気持ちはさせなかったのに。たまは下唇を噛んだ。
知らなかった。愛を、どう在ればいいのかを。
知らなかった。二人の間にあるモノを。
誰も、何も、知らなかった。
たまにはわからない。
今回、妖を斬る以外でどうすればよかったのか、たまには想像もできない。たまは何のために夜四郎と妖を斬るのか。夜四郎の手を取ったのか。
「……無貌さんは、」
たまはぐるぐる考える。ひと月にも満たぬ時、歪な出会い。それでも、あの妖は。
「美成さまにとって、大切な
呟いたたたまの声に、美成は悲しそうに笑んだまま答えなかった。
「……すみませぬ、……たまは」
「……あんた、なんで謝ってるのさ」
そう呟いた声の色を、たまは何と表すのかわからない。けれど、しっかり噛み締めた。
「一度そうと決めたなら、貫き通さなきゃ」
それこそ、私らの心を踏み
迅、斬、豪、と風が鳴く。
無貌は押されている。美成は悲痛に歪めた顔でそれを見ている。
「なあ、あの子は、この絵には、戻れないのかい……」
「……わかりませぬ」
「戻ったら、斬らなくてすむんだろう?」
「……わから、ないのです」
美成は袖から震える手で包みを取り出した。一見、まっさらな紙────それは、無貌を此方へ来させたきっかけの紙。それを胸に抱いて、美成は肩を震わせていた。ずっと持っていたらしいそれは、夜四郎が数度無貌に斬り込んだ時に傷ついたか、或いは元々そうなのか、随分とボロボロだった。
「……ああ」
溢れた声が風に乗る。
「無貌、もう嫌だよ────」
「……」
「無貌」
無貌が、その悲痛な響きを耳にして、はたと動きを止めた。真っ直ぐに困惑したように、美成を見る──背後には、低い姿勢で刀を構えた夜四郎だ。
鋭い風切り音。
崩れ落ちるそれに、美成は叫んだ。距離にして五間強。手は届かない。
「無貌!」
「……美、成」
目を持たない顔が美成に向けられる。迷うような声が放たれる。
「美成──
迷って、考えて、
「
掠れたように問う。
「あんたは私の大切な人だよ」
それを美成は言い切った。大切な、それなのに、
「……ごめん、ごめんよ」
あんたを守れなかった、と零す。手を伸ばす。
「あんたを一人にしたくなかった、幸せにしてやりたかったのに」
「……」
そうか、と呟く無貌の顔には、やはりなにもなく──それでも穏やかな色が広がって。
「……あ」
微笑んで、揺らぐその隙間。
夜四郎がそこに立っていた。翳った顔は見えず、美成とたまから無貌を隠すように、素早く身体を滑り込ませる。捻り身からの刀を一閃──夜四郎の放つ鈍銀色が疾った。
斬られた箇所から煙が噴き出る。小さく何かを呟いた夜四郎の声をも飲み込んで、それは膨張して、縮小して、それでも、その顔はずっとまっさらなままだった。しゅうっと空気が抜けるようにのっぺらぼうが夜闇に溶けていく。
「────」
空気を揺らすその音に、美成は顔を上げた。
「ああ──」
目の前で、手の届かないところで散る。
美成の慟哭も、無貌も、合わせて夜の闇に溶けていく。
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