騎士への憧れ‐1
相手の守護神が分かったからと言って、事態は何も好転しない。相変わらず雲をつかむような心地で、姿の見えない敵を追いかけ続ける。霧の向こうに隠れ、虚を突くようにナイフを繰り出す不可視の敵。何とか反射神経だけで対応してはいるが、いつかは限界が来るのは明白だった。
一応、今のところは俺を狙っているようだった。今のロンドンでこのような通り魔的犯行をただの一犯罪者がするはずがなかった。間違いなくこいつはニューオーダーの構成員、俺を狙ってやってきている人間だ。
なぜわざわざ俺を狙っているのかは分からない。いや、正しくは理屈だけは理解していた。最初にマイフェアレディに襲われ、ジョージが助けに来た時の彼女の態度で何となく察しがついた。こいつらは円卓の騎士と契約している人間を殺すためにここに来ている。だが、わざわざ円卓を殺そうとしている理由が分からなかった。
ニューオーダー側にヴォーティガーンを由来とするような守護神がいるなら話は別だろうが、今俺たちが認識している最大の脅威はモルガーナだ。守護神には相性の概念がある。そのため、円卓の騎士やその主であるアーサー王に負けた伝説のある存在は不利になる。そういう事情があるなら、先兵を派遣して俺たち円卓を先に始末したがるのはむしろ合理的だった。
だが、モルガーナ、あるいはモルガンと呼ばれる伝承上の人物はそうではない。確かに魔女としてのモルガンはアーサー王に敵対する存在だった。だが、こっぴどく敗北したような印象はない。実際俺はあいつと戦ったが、有利な敵だとは決して思えなかった。むしろ、位階が離れているが故の格の違いを見せつけられた、そんな印象だ。
普通に一対一で戦えば、モルガーナは俺たち円卓なんて脅威とは感じないだろう。それなのに、どうして躍起になって俺たちを殺そうとしているのかが分からない。それも俺たちを撒き餌とし、回りくどい立ち回りをしてジョージを釣るような真似までして、だ。
また、オーラの揺らぎからジャック・ザ・リッパーの気配を感じる。鈍く瞬いた短刀の刃、それを剣の腹で受け止めるべく、大剣を盾のように正面に突き出した。
だが、その気配はまたしても霧散してしまう。この短時間で何度も見せつけられた咄嗟のエスケープ。手出しのできない焦燥感が苛立ちを募らせる。だが、いくら不意を突こうにも相手は気づいた時には予備動作なしで姿をくらませる。
だが、活路が無いわけではなさそうだった。この濃霧が完全に立ち込めるまで、この敵は姿を見せなかった。そのことも踏まえると、霧の中に姿をくらませる守護神ではなく、自分のことを隠ぺいしてくれる霧を展開する異能なのだと察しが付く。おそらく目的地を隠ぺいする効果で、先を急ぐ俺たちを霧の迷宮の中に閉じ込めているであろう事も、同時に検討を付ける。
実際は俺が察したのではなくガウェインが教えてくれたのだが。そして同時に打開策も提案してくれた。勝機を見つけるとしたらこの霧を晴らすことだと。周囲一帯に立ち込めた霧を、膨大なエネルギーで一息に吹き飛ばしてしまえば相手の有利なフィールドは立ち消える。そうすれば、肉体活性に関してはほとんど無いと想定されるこの相手ならばデイビッドやオリヴィアでさえ押さえられそうなものだった。
しかし言うは易しというやつに過ぎない。実際のところ、それが可能な状況ではなかった。絶好調のコンディション、言うなれば日中であれば俺とガウェインにもそれは可能だったろう。己自身を太陽に見立てて、膨大なエネルギーと圧倒的な膂力で蹂躙する。それもできたはずだ。
だが、今はとっくに日も落ちた夜。その最高出力は期待できそうになかった。確かに肉体活性だけに焦点を当てれば並みの守護神を圧倒的に凌駕するだけの性能を、素の状態のガウェインは有している。だが、それだけだ。戦闘に向いたものも向いていないものも含めて、ガウェインは異能を有していない。日中にあらゆる戦闘能力が三倍になる、それこそが唯一の特異な能力だった。
『どうする? カイウスに託された炎熱で疑似太陽を作るか?』
「馬鹿言うなガウェイン、あれはモルガーナ倒すのに置いとくんだよ。それに、今は使えないだろ……」
『それもそうだな』
今ここに太陽を顕現させる手段は確かに俺の中に存在する。だが、それはたった一度きりの隠し玉であり、本来強敵とは言い難いこの相手に使う訳にいかなかった。しかも、この疑似太陽は発する熱量が膨大である以上、近くに生身の人間がいる状態で使うわけにはいかない。使うとすれば周囲に人がいない状況、あるいは何らかの防御向きの能力で誰かがオリヴィア達を守ってくれるようなシチュエーションに限られる。
この状況で炎熱の力を最大出力で使おうものなら敵よりも先にオリヴィアとデイビッドが焼け焦げてしまう。だから使うわけにはいかなかった。躊躇と、焦りとにだんだん浮足立ってくる。頭を回してどうにかしようと考えても、妙案なんて浮かばない。そもそも俺は大して頭が良くないのだから、こんな風に考え込むほど思考は袋小路に行ってしまう。
動揺し、合理的な判断が下せなくなっていた俺は、とうとう完全に敵を見失ってしまった。絶えず襲い掛かってきた不意打ちの嵐に、とっくに体力の方は限界に近づいていた。それも仕方なかった。常に背後を取るように立ち回られたせいで、索敵した瞬間に背後を振り向かなくてはならなかった。
いかに肉体が強化されているといっても、身の丈ほどの大刀を担いで何度も何度も振り回されれば体力も底をつくというものだ。肉体が酸素を求め、疲労で体は軋み始める。しかもここに来て、マイフェアレディとの闘いで消耗した分まで体が悲鳴を上げ始めていた。
このままではいずれ、打つ手も無くなり倒れてしまう。俺が倒れてしまえばオリヴィアもデイビッドもそのまま抵抗できずに殺されてしまう。そんな事させる訳に行かない。強く決心したはずなのに、思いは空回りする。現に俺は、手も足も出ていなかった。
筋肉に酸素が行き渡らなくなれば、当然脳への供給も弱くなる。次第に意識が朦朧とし始める。スポーツの試合ともまるで違う、命を賭けるという言葉の重さがそのまま全身に圧し掛かっていた。セクエントスクールにこれから入学しようとしていた程度の俺では、まだまだ子供ゆえの見通しの甘さが抜けていなかった。
だから、不意に攻撃が途絶えたことに安堵してしまった。これで一息つくことができると、呆れた楽天家になってしまった。そんな余裕、ある筈なんて無いのに。
「アーチー、大丈夫なの?」
「大丈夫だ! だから下がってろ、お前らは絶対守る……騎士らしく、命に代えてでも守ってやるよ」
「命に代えてって……何でそんなに簡単にそんな事言えるの!」
「いいから! ……任せてくれって、こういう時動けるように俺はこの道を選んだんだよ」
この時の俺は失念していた。オリヴィアが、まさに同じ心構えでモルガーナに立ち向かったジョージを喪ったばかりだということを。命に代えてもなんて、たとえ覚悟を強固にするためだとしても言ってはならなかったなんて気が付いていなかった。
そしてこの時、俺の気は最大限に緩んでいた。数分に渡る不毛な攻防、仕掛けられては防ぎ、あるいは仕掛けては撤退し、互いにそんな堂々巡りを繰り返した後のことだった。ようやく訪れた小康に、必要以上に気が抜けてしまった。
だからその可能性を考慮していなかった。ずっと俺が狙われていたから、俺が倒れるまではこちらを狙ってくるものだと思い込んでいた。だが、このままでは膠着が崩れないと思っていたのは俺だけではなかったようで、俺のアキレス腱をつつくことにしたようだった。
それはもちろん体の話ではない。俺の弱点、それは守るべき者を後ろに抱えていることだった。あまりに静かすぎる時間、ふと嫌な想像が再び頭を過った。それに気が付いたと同時に、振り返った。事実、俺に見せつけるように、聞かせるように足音が聞こえた。
オリヴィア達のいる方向から。
血相を変え、飛び掛かろうとしたその瞬間だった。ジャック・ザ・リッパーの契約者が再び消えた。今のは陽動だったのだと即座に判断した。本当にオリヴィアを傷つけるつもりではなく、俺の視野を狭め、選択肢を一つに絞らせ、確実に仕留めるための囮だったのだ。
ジャック・ザ・リッパーの契約者はあくまでも今の世を生きている人間だ。伝説の切り裂きジャックそのものではないのだ。だから、女を手にかけるとは限らない。ここにいるのはあくまで、目的を遂行する一人の兵士だった。
気配が消えると同時に、真横に現れた。だが、今度ばかりは対応ができそうになかった。前のめりになって走っているところに急ブレーキをかけたところで、余計に不安定になるだけだった。何とか体をよじって迎え撃とうとしても、矮小なはずのナイフ一本防げなかった。
突き出された凶刃が、俺の横腹に刺さる。痛みを超え、熱さが腹部を走った。ナイフが引き抜かれると同時に、やや強い勢いで鮮血が流れ出す。
「アーチー!」
デイビッドの声が少し遠く聞こえる。その声は絶望と悲嘆に揺れていて、頼りないものだった。だが、そうさせてしまったのは俺だろう。俺の弱さが、あいつらを不安にさせた。刃物を突き立てられた腹も、確かに顔が歪むほど痛かった。だがそれ以上の痛みが胸に走る。
自分の弱さを許せないと思う、強い怒りだった。
「大丈夫だ」
「どこがさ。今、腹刺されたばかりじゃないか……」
「いや、そこまで深くない」
確かにナイフは腹に刺さったし、血もかなり流れている。だが、内臓に達するまでは斬りつけられていなかった。防御の姿勢をとることはできなかったが、すんでのところで闘気を身に纏う形で簡易的な鎧を腹部にだけ錬成していた。数センチほど刃は肉を裂いたようだが、致命傷には至っていなかった。
だが、ダメージがない訳ではない。血を流しすぎる訳にもいかず、さらには焼けるような痛みが傷口から広がっていく。落ちた血が小さな水たまりになっていくと同時に勝機さえも緩やかに手の平から零れていくような虚しさがあった。
事実、何とかこれまで気力で持ちこたえていた均衡は、この瞬間に大きく崩れた。怪我を負えばこれまでの集中力は発揮できなくなるし、その傷を庇って隙が出来てしまう。丁度間に合っていた防御の一手が、半歩の遅れで崩壊する。
剣を振りかぶり、迎撃のために振るおうとした瞬間、全身に力を込めた影響で腹部が激痛を訴える。乱暴に斬りつけられたその傷がずきずきと痛み、構えるどころではなくなる。小さく呻いて体を縮めた瞬間に、次の斬撃が迫ってくる。
その切っ先は間違いなく心臓を狙っていた。瞬間的に死を悟る。途端に心臓が強く飛び跳ねた。この鼓動が止まってしまう、それを俺の脳裏に刻むように、俺の胸の中で強く鳴り響いている。
自分の死のイメージが色濃くなり、戦慄を覚えた思考とは裏腹に、体が勝手に動いた。色々なものを手放す勢いで、目の前で手を重ね合わせる。無理やりな姿勢ではあったが、何とかその一突きを受け止めることができた。これも偏に、こいつの肉体活性が弱いことに起因していた。おそらくこいつが俺たちと同程度の身体能力を持っていたら今のこれでお陀仏だったはずだ。
だが、無理な行動は当然ひずみを生む。何とか素手でナイフを受け止めはしたが、右手の平に深く突き刺さる。骨に邪魔されたのか貫通することはなかったが、俺を蝕む大きな傷がまた一つ増えた。
「
傷が増えたのはちょっとした悲報だった。さらに大きな悲報がある。絶望的なことに、今の衝撃で俺の手元から
「しまっ……」
次の瞬間、それまでの痛みなど比にならないほどの衝撃が俺の横っ腹を襲った。革靴が先ほどできた腹部の裂傷を抉るようにめり込んでいた。ただでさえ大きく開いた傷口がぐちゃりと潰れ、より多くの血潮があふれ出す。
声にならないようなうめき声を上げ、俺は道端にそのまま転がった。あまりの痛さに息を吸うこともろくにままならず、息苦しさで肺が痛くなる。抉られた腹の傷全体が灼熱となり、俺の身体を侵食する。
痛くて、苦しくて、辛くて、情けなくて、何よりもここで死んでしまうのかと思うと怖くて仕方なくて、今の俺にはうずくまることしかできそうになかった。起き上がろうにも、せり上がってくる胃酸が邪魔をする。痛みに喘ぐ俺をあざ笑うように俺の全身までも俺を責め立ててきているような心地だった。
ずたずたの腹から、血まみれの手の平から、じわりと広がっていく自分の血潮の上で、全身が汚れていくのを自覚する。熱かったはずの漏れ出した血液が、服に染み込む時には冷めてしまっているのが、自分の命の灯が弱弱しくなっていっているのを想起させる。このまま、助からないんじゃないかなんて思った時。
のたうち回る俺の頭が何かにぶつかった。見れば、少し血で汚れた茶色い革製の靴だった。おそらく、なんて弱気な言い方をする必要もないだろう。俺を蹴り飛ばし、こうして地に伏せさせたあの足だ。
ああ、これはもうどうしようもないな、だなんて。そう思った時のことだった。わざわざこんな状況にオリヴィアを陥れてしまった後悔と、デイビッドに啖呵をきったのに結局この体たらくになってしまった不甲斐なさから逃げ出してしまいたくて、それならもういっそ死んでしまいたいだなどと思ってしまった。
どうしてもこいつら二人だけは助けてくれって命乞いぐらいはしておきたいな、そう思って顔を上げたときの事だった。靴が砂利を擦る音がした。
誰かが立っている。俺に背を向け、敵に向き合うようにして。誰だろうかと見上げれば、金糸と見まがうような綺麗な髪が見えた。女みたいな、と言うと怒られるかもしれないが、男子にしてはあまりに綺麗な頭髪をしている。
霧の中に僅かに漂う夜風にその髪を揺らし、長身の少年、デイビッドが俺を庇うように立ち塞がっていた。
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