Environment
俺にとっての太陽-1
「馬鹿みたい」
俺たちの出会いは最悪だった。冷たく、突き刺すような彼女の声を思い出す。俺もあいつもまだまだ幼くて、子供特有の向こう見ずさを持っていた。ただのやんちゃな少年に過ぎなかった俺が、歳不相応に落ち着いていた彼女にとっては馬鹿のように映っていたのだろう。
でも、今の俺から見てもそれは同じだった。かつて罵られたのはどう考えても、俺たちの方が明らかに幼稚だった。その後しばらく、逆恨みのような形で彼女にちょっかいをかけていたものだが、そんな男児の嫌がらせとも呼べない貧相な悪戯では顔色を変えることもできなかった。
そんなの
あの時は本当に、ここでおしまいだと覚悟したものだ。世の中に本当に存在する悪い大人は、作り物の世界の悪人よりもずっと狡くて頭が良くて、そして俺たちは別に主人公でも何でもなく、どうしようもないほど無力だった。
助けてくれたのは、すんでのところで駆け付けてくれた当時のロンドン市警だった。威圧するような市警の声、威嚇射撃で空を撃ち抜いた発砲音。それらを聞きつけると同時に蜘蛛の子を散らすように俺たちを囲んでいた大人たちは退散していった。
結局現実の世の中で俺たちを救ってくれるのは、華々しい騎士などではなく、地味でお堅い大人の延長線上にいる誰かだった。
でも、それでも、太陽を見つけた。たとえつまらない世の中だったとしても、実際に力があるのはしかめ面の屈強な男だったとしても。そんな頼りになる大人たちを呼んで、俺たちを助けてくれた人はちゃんといた。
この出来事は、まだデイビッドにも教えたことはない。当時俺と一緒に怖い目に遭った二人の子供は、親の転勤の都合でロンドン市外に出ていったしまった。オリヴィアもそんなことがあったとはわざわざデイビッドに教えたりはしていないだろう。当時充分恐ろしかったのだから、俺にとってトラウマだと思って配慮しているようだった。
俺の口からも、まだデイビッドに伝えられる気はしない。そうしてしまえば、俺が心の奥にしまった想いを気取られることになるだろう。
だからまだ、誰にも伝えられない。心の奥、固い鍵のついた宝箱に思い出を閉じ込める。その宝箱を守っている心の防壁を擦り減らしながら、場を盛り上げることで自分ごと誤魔化し続けている。
あの日彼女に言われた通り、馬鹿みたいな男を演じながら。
◇◆◇
「アーチー……ねえ、アーチー」
声がする。十年以上聞き馴染んだ声だ。肩を強く揺らされているような感覚がある。ゆっくりと、夢の中から俺の意識も引きずり出されていく。瞼の重さに気が付くと同時に、自分が意識を失ってしまったことをようやく自覚した。
眠気を振り払うように、何とか目を大きく開け、瞬きを素早く何度か行う。薄くぼやけた視界のピントが合い、目の前に二人の友人が現れた。
奥に立っているのは痩身で長身の、美しい金の髪が目立つ青い瞳の少年だった。今にも泣きだしてしまいそうだったのに、俺の覚醒を受け入れて安堵したのか、良かったと柔らかい笑みを漏らした。彼の名前はデイビッド、学校こそ違ったけれど、オリヴィアのおかげで知り合うことができた友だった。俺と得意なことも性格も全然違うのに、趣味や好きなものは色々と重なっていた。
手前でしゃがみ込み、俺の顔を窺っている少女が幼馴染のオリヴィアだ。肩まで届く茶色い髪、知性を感じさせる赤く太いフレームの眼鏡が顔の上で存在感を示している。太陽のような明るい色味の虹彩が、不安げにこちらを見つめていた。
「アーチー……。良かった、目が覚めたんだ」
「ごめん、今どうなって……」
起き上がろうとしたところで、全身の肌がひりひりと痛んだ。何事かと思えば、日焼けをしたように赤くなっていた。火傷には至っていないようだが、真夏のビーチで太陽に焼かれたような痛みがある。あいつのせいか。舌打ちをしながら、脳裏にマイフェアレディの顔を浮かべた。
これはおそらくモルガーナの炎の黒魔術で全身を燃やされた後遺症だろう。俺の守護神がガウェインでなかったら、この程度では済まなかった筈だ。カイウスも確かに炎への耐性があるらしいが、同様にガウェインも炎への耐性があるようだった。太陽が高い位置にある時、力が三倍になる守護神だからだろうか。いずれにせよこのめぐり合わせは不幸中の幸いだった。
「ねえ、大丈夫なの?」
「ああ……ちょっとヒリつくだけだ。それよりオリヴィアの方が大丈夫なのかよ」
マイフェアレディとの遭遇前、川沿いを歩いていた時の様子を思い出す。体中に擦り傷や打ち身を作り、足を引きずるように歩いていた。守護神アクセスもできないのに、俺やモルガーナの能力がひしめく戦火に立たされていた。
だが、俺が意識を失っていた間に応急手当を行っていたようだ。どこから用意したのか、包帯やガーゼで適切に傷口に処置を施している。
「時間も経って痛みも引いてきたから大丈夫よ」
「そうか。ごめん、俺ってどんぐらい寝てたんだ。後さ、ここはどこ?」
「一時間ぐらいだと思う。私が応急手当してすぐに起きてくれたから。一応ここに入るまではアーチーも起きていたはずだけど、覚えてない?」
元々夕刻ではあったのだが、完全に日が暮れているようだった。今はとりあえず室内にいることは分かるのだが、照明を落としているようで周囲がうかがえない。
とはいえここに逃げ込むまでのことはあまり覚えていない。何せ逃げるのに必死だった。オリヴィアの兄であるジョージが
何度も何度も後ろを振り返り、しきりに「ジョージは大丈夫だよね」と確認していた彼女は、明らかに錯乱していた。その状況でも足を止めたり引き返したりしないところは、非情とも言える合理性があるように思える。だが、そこで引き返しても何もならないどころかジョージの献身を無駄にすることだと理性が判断していたのだろう。
ジョージが何か言ったわけでもない。ただ彼はあの場を自分に任せろと言い、俺たちを送り出しただけだ。意味ありげに、カイウスの能力の一端をガウェインに託して。ただそれでも、決死の覚悟は分かった。既に消耗した様子だった以上、おそらくジョージの安否はもう、言うまでもないだろう。
そうだ、一先ず俺やオリヴィアの体力が限界に来ていたからどこか屋内に入ろうと決めたのだ。だから、ここならどうだろうかと、デイビッドが提案したところに入ったのだった。
確か食料や水分補給、応急処置の道具も置いてあるであろうコンビニエンスストアに入ったはずだ。ガラス張りの店内だと外から姿が見られるので、バックオフィスまで侵入した。薄く開いた自動ドアを腕力でこじ開けた後、再度閉めた。そして従業員専用のスペースに入り込んだのだ。
このあたりも何者かの襲撃を受けたような痕跡があるからか、既に店員は逃げ出してもぬけの殻だった。おそらく、少し距離はあるもののインペリアルカレッジに避難しているのだろう。テムズ川沿いに進めばキャンパスがあるので道に迷いにくく、広域避難所として講堂を開放していると声明が出ていた。
それに何より、インペリアルカレッジにはガラハッドがいる。おそらく防御力だけなら随一、この国で最も屈強な要塞として機能するはずだ。
「勝手に商品盗っちゃって大丈夫なのかな」
「レジが何とか生きてたからキャッシュレスで買っておいた。万が一通信が途絶えて購入履歴がついてなくても有事の時はある程度司法も寛容になるだろうし、同じ状況の人も多いからわざわざ糾弾はされないさ」
支払いができているなら大丈夫かと安心する。それに状況が状況だから、たとえ怒られることになっても大した罪にならないのではないかというのがデイビッドの見解だった。
部屋の電気をつけるのはまだ少し危ない。差し込む月明かりと、壊れかけの街灯の光だけが頼りの室内で、しゃがんでいたオリヴィアが腰を下ろした。俺の意識が戻り、目の前の暗雲が一先ず晴れて張っていた気が緩んだようだった。
オリヴィアが背もたれを探して壁沿いに向かう。膝を畳んで、頼りなさげに自分の脚を抱きしめていた。今日起こった出来事について反芻しているのだろう。顔色を俺たちに伺わせないようにして、太ももの辺りに顔を
無理もない。まだ十八の少女が受け入れるには酷な現実を、たかだか数時間のうちに経験していたのだ。自宅が襲撃されたというのは先刻聞いた。その際、父親の死も知ってしまったと。
そして今度は、兄のジョージまでも絶望的な状況だ。現場を目にしてはいないため、生死は不明ではある。だが、Phoneを使ってでも、普通の携帯電話を使ってでも連絡を取れないということは、もはやその無事に関しては否定しかできない。
二人がかりで防戦一方だったマイフェアレディ。最後に自分に残された全てを振り絞るように時間を稼いでくれた。一瞬圧倒しているように見えたのはあくまで命を削る勢いで戦っていたからだ。あのまま戦い続けられる訳もなく、おそらく今頃はもう、会えなくなってしまっているだろう。
それは、戦いに関しては専門外のオリヴィアでさえ容易に推測できていた。だからこうして、声も上げずに、涙も見せずに泣いているのだ。
泣いていた。俺にとって、常に努力の指標みたいになっていた一人の少女が。周りに弱音を吐かないようにと、自分を押し殺しながら。その胸の痛みが俺にも伝わったような気がして、その寄る辺の無い心を支えたいと思って。
押し黙ることしかできなかった俺も口を開こうとする。何と言って励ましていいかも分からない。けれども、こうして泣いているオリヴィアを見ているだけの自分が嫌だった。
「なあ、オリ……」
意を決し、あまりに弱い俺の声が漏れた。でもその声は、彼女の耳に届くことなく、覚悟と決意に満ちた別の誰かに塗りつぶされてしまう。背を壁につけて、小さく団子のように蹲る彼女の肩に手を置き、デイビッドが瞳を潤ませた彼女の顔を上げさせた。
「顔を上げて、オリヴィア」
片膝をついて、デイビッドが目線を彼女に合わせる。体もそれほど強くなく、戦うための道具も手にしていないというのに、どんな騎士よりもその眼光は力強く見えた。戦う力を手にしているのに、彼女を励ますことにさえ自身が持てない、俺なんかとは全然違った。
「僕がいる。アーチーだっている。元気になってとは言えないけど、勇気だけは出して。まだ何も終わっていないから。僕はこれ以上誰も……君のこともアーチーのことも失いたくない。だから今は生き延びることを考えよう。ジョージやアーチーみたいに戦うことはできないけれど、僕だってオリヴィアのことだけはちゃんと守るよ」
デイビッドがゆっくりと、言葉を飲み込ませるように説き伏せる。深い悲しみ、大きすぎる絶望、そんな感情の濁流に呑まれていたオリヴィアの土気色の顔に、だんだんと生気が戻っていった。肌に赤みが増し、頬にはわずかな朱が混じる。
自分の慰める声の出鼻をくじかれ、俺の勇気は行方知れずでさまよっていた。けれども、行き場を失った勇気をどうこうすることもできない。ただ、黙って二人だけの世界を外から眺めることしかできなかった。
やはり、デイビッドには敵わない。心を閉ざそうとしているオリヴィアをすくい上げるのは、紛れもなく彼にしかできない仕事だった。そのことが俺にとっては、胸が締め付けられるように苦しく感じられた。
オリヴィアの瞳が俺の方に向けられた。余計に俺の胸中は複雑になる。そしてそんな俺の
「うん、分かった」
何とか涙を飲み込んでしまおうとするオリヴィアだったが、それじゃ駄目だとデイビッドが首を横に振る。そんな小さな仕草でも揺れる整った髪質に、家柄や人としての違いを突き付けられたような気がしてしまう。それも俺の、勝手な劣等感でしかないのに。
「
僕がいる。
デイビッドの、そんな短い言葉がずしりと圧し掛かってきた。俺にはそんな事をオリヴィアに告げることは決してできないだろう。俺にとってオリヴィアは憧れの存在であり、追いつきたい目標であって、そんな風に支えてあげられる人間になんてまだなれそうになかった。
一人で辛い現実を正面から受け止めようと、壁にもたれかかっていたオリヴィアの背に腕を回し、自分の胸の中にデイビッドが引き入れた。どうしても己の弱みを隠したいなら、何も自分の体で隠さなくていいのだと、自分が付いているのだと告げるように。
強気で、あまり人に頼ろうとしないオリヴィアと、相手の考えていることを先回りして配慮するタイプのデイビッドは、グラマースクール時代もお似合いの二人だったのだとか。地頭の良さも、大人からの信頼も、俺は二人に遠く及ばないだろう。
初めは、しとしとと地面を濡らす程度の弱い雨だった。月が見守る暗闇の中で降り注ぐその雨は、瞬く間に驟雨のように勢いを強めた。
「嫌だよ……何で、こんな……」
お父さん、そして
不意に、そして理不尽に訪れた惜別の悲嘆。それを受け入れて、乗り越えるために彼女は、自分の中の憂いを大粒の涙に変えて吐き出していた。強い雨足がアスファルトを殴るような号哭が部屋の中を埋め尽くす。
涙の受け皿にすらなれない俺は、当然、傘を差す権利さえも持っていなかった。
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