ロンドン橋が落ちた-3
今、
これまでその用途が制限されていたのには訳がある。
それが近年、ようやく小型化が実用的なレベルまで進められた。手の平サイズの小型端末。軽量化がそこまで進み、ようやくPhoneと呼ばれるようになった。ここまで小型化が進めば、銃を持つよりもPhoneを持ち歩いた方がよほど頼もしい武器になる。それを証明するかのように、さっきの少年のような尖兵が現れたのだ。
でも、何のために。我が家が狙われる理由なんてあるとは思えなかった。街を見渡せば他のところも襲撃にあっているような様子である。ならこれは襲撃対象が場当たり的な無差別テロではないかと推察できる。だとすると余計に街が危ない。誰でもいいということは、誰もが被害者に成り得る。急いで助けを呼ばないと、どこまでも死傷者は増えてしまう。
本当はそんなことしたくない、だけど。悔しさを胸に刻みながら、私は父から目を背け、テムズ川に向かって走った。唇を引き結び、走る。私の足でも十五分もあれば着くはずだ。どうせなら自転車でも使えれば良かったのだけど、そんなものを探す余裕はない。
疲労なんて気にせずがむしゃらに走った。真夏のくらむような日差しを受け、全身から汗が噴き出ても、空気が足りないと肺が焼き切れそうなほど苦しくても、私は一心不乱に駆け抜けた。転んで擦りむいた腕、打ち付けた全身、動かし続けて棒のようになった足、全部無視して突っ走った。
時折遠くから大きな爆発音や、何かが倒壊する音が聞こえてくる。それはジョージたちの所なのか、はたまた別の出どころから来るのかは見当もつかない。
ようやくテムズ川にたどり着いた。日の光を浴びて煌めく水面を目にし、どっと安堵が生まれた。安心しきって、とうとう私は疲弊に押しつぶされた。意地でも歩みは止めないが、息を整えないと走れそうになかった。汗と共に痛いほどの日差しが全身を襲い、擦りむいた傷口が沁みた。血を流している方の足を引きずるように私は歩みを進める。
後ろから足音が二つした。段々と近づいてくるし、迷いなく私の背後から真っ直ぐやってくる。もしかして追手が来たのだろうか。一瞬ひやりとしたが、そうではないだろう。すぐに疑念を否定する。
これは生身の人間の足音だ。そして私を追いかけてくる可能性のある人物にもう一人心当たりがあった。そもそも今日、ジョージは彼を家に迎えて相談に乗ってやろうとしていたのだから。
振り返ると、
そしてもう一人、後ろについてきた少年に目が奪われる。背は高いが線の細い、儚げな印象のある男子。走るたびに絹のような
「アーチー……それにデイビッドまで……!」
さっきまで、いくつも心がきりきりと締め付けられるような想いをしていたが、その顔を見てほんの少しだけ、私の心が安らぐのを感じた。せめて彼だけでも無事でいてくれて良かった。そう思うと涙をせき止めていたダムも決壊しそうになる。
「オリヴィア、一体どうなってんだよ。お前ん家行こうとしたら周りの街並みごとぐちゃぐちゃんなってるし、他の所でも大混乱になってる。何が起きたらあんな事になるんだよ」
「私だって分からないよ。でも、私の目で見たものだけは教えてあげる。確証の得られないことは、まだ口にするべきじゃないわ」
「でも良かった、途中で君を見つけられて」
その細い腕のどこからそんな力が湧いてくるのだろう。折角私が堪えているというのに、涙をぼろぼろと溢れさせたデイビッドは、衝動的に私を強く抱きしめた。私も彼も、日差しの中を全力で走ったものだから、暑苦しくて仕方がない。ただでさえ火照っているというのに、これ以上熱くなってどうしようというのか。
「ちょっと。苦しいよ、デイビッド」
「なあ、独り身の俺の前でそういうのやめてくんない?」
おどけた態度でアーチーが、デイビッドの熱烈なハグに水を差す。
確かに、落ち着いたせいで体の痛みは戻ってきた。走ろうとするとちょっと顔を
平和な時だったなら、その抱擁も幸せだとしか感じなかっただろう。けれども、今は一刻を争う事態だ。体に負担がかからない程度に、駆け足気味にテムズ川沿いの道を進む。目指すは、すぐそこに見えているロンドン橋。大体二百数十メートル程度の長さなので、駆け足なら二分少々で渡り切れるだろう。
目的地に向かいながら、これまでの出来事をかいつまんで説明する。アーチーを待っていたら、あの襲撃者が現れたこと。ジョージが応戦している間に応援を呼んでいること。駐在所ではなくセクエントスクールに助けを求めようとしていること。
「もしかして、オリヴィアも教官と顔見知りだったりすんの?」
「一応ね。お兄ちゃん、軍事訓練とかは優等生だったから。学校行事で顔を見せたりした時に、ジョージの同級生とか担任の教員とは顔なじみになったわ」
「なるほどね」
どこか得心がいったような顔でアーチーが頷く。私にはとんと見当もつかなかったが、デイビッドも納得しているようである。
「だからだろうな、セクエントスクールを指定したのは」
落ち着いた声でデイビッドが淡々と述べる。緊急事態だということを的確に伝え、瞬時に救助してもらうためでもあったのだろうと、ジョージの指示をさらにかみ砕いて教えてくれた。
セクエントは軍隊の一部であり、治安維持にしたって公的な活動だ。傷だらけの少女が助けを求めてきたとしても、書類的な準備が少なからず必要になる。なぜならその少女もセクエントを罠へ誘おうとするパズルのピースであるかもしれないからだ。
しかし、既に信頼できる知人として知られている人間なら話は別だ。一刻を争う応援要請、それを考えると顔のきく私を派遣するならスクールが最適だととっさに判断したのだろう。
確かに兄は、土壇場の機転に関しては私よりもはたらく
後は橋を渡るだけ。そう思えばまた気力が戻ってきた。少し走る速度を緩めていたのもあって、体もやや楽になってきた。こうしている間にもジョージは身を危険にさらしているはずだ。橋に一歩踏み入った瞬間から、また踏み出す足に力をこめよう、そう思っていた。
「ようやく見つけたわ、ガウェイン」
意識するよりも早く、目を奪われた。その美しさだろうか、それとも漂う香気からか。理由なんて分からない。でも、その女性は見るものを虜にする空気を纏っていた。レッドカーペットを歩く女優のように、派手なドレスに身を包んでいた。「私こそが宵闇の化身だ」と言わんがばかりの、漆黒の装束。
きっとそれは、夜を纏っているからだ。ミルクのような真っ白な肌がドレスの隙間から覗いているのは、雲間に浮かぶ月のように優美だった。紫の口紅に彩られた厚みのある唇は、とても艶めかしく、私が男性だったなら、その愛を耳で囁いてほしいと願ったことだろう。そして何よりも、その美貌たるや。神様が作った彫刻みたいな、完璧な顔立ちをしていた。向き合っているだけで、自分が醜くなったと錯覚するほどである。
それは、異性のフェロモンに惹かれる蝶のように。あるいは街灯に誘われた蛾のように。ふと我を忘れて歩みを止めた私は、揺さぶられるようにして、ふらりと一歩彼女の方に踏み出していた。
そして彼女の方も、優雅にこちらへと歩みを進めていた。街の喧騒も、開戦の狼煙のような黒煙も、何一つ歯牙にかけず、大胆不敵に道を往く。彼女が歩むだけで、人もいなければ装飾も無い、殺風景な橋もまるで花道のようだった。
視線どころか心まで奪われていた。私の肩を力強く握って引き留めてくれた誰かがいなければ、あの強すぎる光に引き寄せられ、私の身は焦がれていたことだろう。
今置かれている状況の危険性にいち早く気が付いたのはアーチーだった。それは彼がセクエントを目指して進路を定めたことに由来した。、目の前に立っていたのは、彼がいつか向き合うかもしれない、凶悪な、守護神を私欲のために使う
さっきまでは涼しそうな顔をしていたのに、私の肩を掴んだアーチーは全身から汗を吹き出させていた。振り返り、そんな様子を目にし、ようやく私は自我を取り戻した。それは冷や汗とか脂汗とか、そう呼ぶべきものだった。
目の前に現れた絶望が嘘であってくれと否定するように、あるいは私にその道を進むなと引き留めるように、彼は首を小刻みに横に振っている。
「駄目だオリヴィア、デイビッド。引き返すぞ。どんだけ苦しくても全力で走れ、あれは絶対に、出会っちゃいけないやつだ」
スクールではムードメーカーに徹していたような彼がここまで言うとはよほどのことだった。恐る恐る、彼女の機嫌を窺うようにアーチーは彼女の名前を口にした。
「あれはマイフェアレディだ」
私がようやく警戒交じりに向けた視線の先では、「呼んだかしら」と言わんばかりの彼女がウインクをしてみせた。
顔までは知らなかったが、その名前は聞いたことがあった。七年ほど前の出来事だ。英国王家の血族が一員、今となっては元貴族として裕福な家庭というだけなのだが、出自はその血筋に由来する大悪人だった。家柄のおかげで、当時まだ一台一千万円以上もした守護神アクセス専用機を手にし、守護神の強大な力に魅入られてしまった。
自分の家族を皆殺しにし、追ってくる軍隊を全て壊滅させ、イングランド全土を恐怖に陥れた後に海外へ亡命、雲隠れしてしまった魔女。だが、どれだけ悪事を働いたとしても、その美貌が色あせることはなかったという。彼女と出会った者が言うには、その美しさは世界一の歌姫に負けずとも劣らないのだとか。
だから人々は、彼女に二つ名を授けた。美しい令嬢の意味を込めて、イギリスの中心を破壊する者という畏怖を込めて、マイフェアレディと。
そして彼女は今、この閑散とした橋の真ん中で、己に与えられた称号をまさに体現しようとしているところだった。
掌に収まる何かに向かい、彼女はそっと口づけをする。そんな姿さえも妖艶だと、また見とれてしまいそうになった時のことだ。
続く彼女の言葉に、そんな腑抜けた感動は消し飛んでいた。
「
オーラなんて生易しいものではない、どす黒い邪気が、彼女の握ったPhoneから溢れ出した。ジョージのカイウスも、あの少年のキャスパーも、まるで比にならない程の出力、勢い、禍々しさを携えた守護神アクセス。
それはあっという間に、全長二百メートルをゆうに超えるはずの橋全体を覆い隠してしまった。その邪気に足が捕まれないように、私たちも飛びのいて橋の上から逃げた。真っ黒な
マイフェアレディの独壇場になってしまった橋の上から、彼女さえも離れてしまう。おそらくは彼女が契約している魔女の守護神の力だろう。宙に浮き、空を自在に駆けている。
「三桁の
戦力にならない私やデイビッドを守るように、アーチーが庇うように前に出た。その手にはまだ傷一つとしてない新品のPhone。おそらくはセクエントスクール入学の際に手配された機器なのだろう。
「でも、宙に浮かぶ力と目くらましの
「馬鹿、あれが目くらましな訳あるかよ……。あれはあいつの使う、黒魔術の内のたった一つってだけだ」
「黒、魔術……?」
あの魔法の
だが、私の否定を鼻で笑うように、次第に地鳴りが強くなる。目の前では、大きな水しぶきがいくつも上がっていた。巨大な石の塊が川面に落ち、噴水みたいに水を打ち上げている。それが一つ二つなんてものじゃない、川をこちらの岸からあちらの岸まで横断するように、何百という水柱が上がり続けている。
大きな岩の塊が川底を打ち付けるたび、腹の奥底までずしりと響くような地鳴りがした。目の前ではまだまだ、水面は落ち着いてくれようとはしない。
「これでもうしばらく、助けは呼べないわね」
空中に足場があるかのように、一歩一歩ゆっくりと彼女は私たちの方へ距離を詰めていた。その目が見据えているのは、どうやらアーチーらしい。それは何も、彼一人がPhoneを手にして臨戦態勢を取っているからという
ふと、キャスパーと契約していた少年の言葉を思い出す。
“あの人から聞いてた通り”
あの少年も、最初からジョージを標的と定めていたようだった。だとするとこの人も、初めからアーチーを標的にしてこの街に現れたということになる。
一体何のために。聞いたところで多分、答えてくれはしないのだろう。
心臓が跳ねる音がやけに五月蠅い緊張の最中、次第に川面は静まり返っていく。波紋だけを残し、水しぶきが収まった川の真上、用済みになったどす黒い靄は消えていく。そこにはもう、たった数十秒前までは健在だった橋が、跡形もなく消えてしまっていた。
ロンドン橋は落ちてしまったのだ。マイフェアレディの手によって。
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