ロンドン橋が落ちた-2


 溢れ出した光が晴れる。その向こう側に現れた少年は、今しがた走り抜けた白銀のオーラを身に纏っていた。白く瞬くようなオーラ、その穢れ無き光は聖なる力を持っている印象があってもいいと思う。けれど、そんな暖かな感触はその光からは感じられなかった。


 真っ白というよりもまっさら。誰かが丁寧に書き上げた風景画の上から、白い絵の具をぶちまけたような乱暴さがあった。面白そうだから、台無しにしちゃおう。そんないたずら小僧のような眼光がじろりと標的を見定めている。



お兄ちゃんジョージ! 平気?」



 今のは先制攻撃ですらない、ただの守護神アクセス完了のサインだ。あふれ出た力の余波が、突風のように周囲を吹き荒れた。それだけの敵意も殺意も感じない、単なる現象だ。痛くも無ければ、寒くも熱くもない。


 そうと分かっていても不安になる。先ほどの邪気に満ちた歪んだ笑顔が、瞼の裏に貼りついて忘れられなかった。瞬きと同時に、兄が神隠しのように消えてしまうのではないか。そんな不安にかられる。


 服のはためく音が途絶え、倒れた花瓶が砕け散る中。「問題ない」と小さくジョージは応えた。無事な兄の様子に、ほっと胸を撫でおろす。だが、安心も油断も絶対にできない。守護神アクセスした彼が、次に何をしかけてくるか分かったものではないのだ。


 兄の準備も整ったようだ。脈々と波打つ異世界から迫る力の胎動。Phoneをトンネルとし、次元を隔てた世界から人間界と繋がる。世界のずっと遠く、あの空の向こう側。兄の契約した守護神が、小さな機械を通じて力を与えてくれる。



No.ナンバーズ・ 1207トゥエルブオーセブン。名をカイウス」



 電話で言う発信のタブを画面上でタップする。本来電話ならば通話相手につながるが、Phoneであれば己の守護神との間に力をやり取りするバイパスが開かれる。そして開いたチャンネルから守護神の力の源であるオーラ、そして異能を行使する権利が送られる。


 体から迸るオーラが全身を包み込み光り輝いている時、守護神アクセスは成功している。吹き荒れる嵐のように力を吐き出した少年とは違い、全身にオーラを巡らせたジョージからは、身を覆う鎧のようなオーラが全身から浮かび上がる。


 これで互いに、戦闘準備は万端となった。兄の守護神の名前を耳にした少年は、またしても嬉しそうな笑みを見せた。表情がころころと変わっているようで、その実笑顔しか見せていない。今回の笑顔はまたこれまでと毛色が違った。邪気があるどころかむしろ正反対、無邪気なほほえみを浮かべていた。



「守護神アクセス」


ケイ卿カイウス! あの人から聞いてた通り。円卓をこの目にできるだなんて……夢みたいだ!」



 兄の守護神の位階ナンバーズを耳にしても、彼は驚きもしなかった。人の世での正式名称をアクセスナンバーと呼ぶその数字は、守護神のパワーバランスの序列を示している。


 一つ、数字が小さい方がより強力な守護神であることを示す。二つ、アクセスナンバーの最小値は100と決まっている。三つ、理由は不明だが生まれつき人間は、己が契約できる守護神のアクセスナンバーがDNAに刻まれている。研究によって明確に把握しているのはその三つだけだ。だが、それだけで十分とも言えた。


 アクセスナンバーで大事なことなんてたった一つだ。数字が小さい方が強い、ただそれだけ。世界には最大七桁の数値のナンバーが報告されている。つまり、百万を超える守護神の中で、兄が契約するカイウスは大体上から千番目。それだけでもう、ジョージは兵士として優れた資質を持っていた。


 だが、超えられていた。


 先ほど少年が守護神アクセスした際に口にしていた位階を思い返す。その数値は1013だった。すなわち、カイウスよりもさらに二百程度上の序列に立っていることを示す。


 確かにここまで位階のレベルが高いと誤差のようなものだろう。とはいえ、これまで私はカイウスよりもさらに強い守護神なんて見たことがなかった。


 それなのに。


 目の前で好奇心を丸出しにして舌なめずりしている少年がそうだという。急にその、ねじが外れているような情緒の不安定さがそら恐ろしくなる。腕のあたりが粟立ち、背筋を冷たい何かが走った。奔放さゆえに、次の瞬間に何をしでかすか分からない。


 猫、本能から怯えるようなこの恐怖、キャスパーという名。既に与えられたヒントが頭の中で結びあい、一つの仮説を組み上げていく。戦慄し、思考が緩慢になっていく脳内でも、その正体の輪郭が浮かび上がった。


 彼の守護神はおそらく、このブリテンの大地に災厄をもたらす獣のことだ。数多の伝承で猫の姿をしていると謳われる、アーサー王に殺されたとされる獣。その名前は、すなわち。



「お兄ちゃん、それ! キャスパリーグ!」



 守護神は基本的に死した偉人が新たな命を授かって生まれる。だが往々にして、まったく違った形で生まれることもあった。それは、人の見た夢が形になった事例。おとぎ話のお姫様や、神話で英雄の前に立ちはだかった化け物や、アーサー王伝説のような伝承の中で語られる勇士たち。


 円卓の騎士が守護神として命を得たというカイウスもその一人だが、おそらく目の前のキャスパーも同類だろう。出典もアクセスナンバーも極めて酷似した二体の守護神。その戦いはどのような様相を呈すのか。それはもう、私には分からない。


 紺色の闘気を纏った兄と、白銀のオーラを発散させる襲撃者。両者のにらみ合いは案外時間がかからずに途切れた。襲撃者の視界の端、兄の背に守られるように立ち尽くす私の姿があったのだ。


 いいこと思いついた。いたずら小僧の顔になる。次の瞬間、少年の掌の中に純白のエネルギーが凝集した。渦巻くようにして一つの塊になり、ハンドボール程度の大きさになる。オーラの銀色とは少し異なる白。あれはおそらくキャスパリーグから行使権を譲り受けた何らかの異能だ。


 そしてその標的はおそらく私。兄の足を引っ張るわけにはいかないと、瞬時に奥のリビングへと駆け出す。その予感は正しかった。おそらく背を向けた私を狙って放たれたであろうエネルギー弾が、さっきまで私が立っていたところを通り過ぎる。対象を見失った白の砲弾は、我が家の壁を突き破って通りの向こうまで飛んで行った。


 まるで紙に鉛筆を突き刺したように簡単に穴が開いた壁を目にし、私は息を呑んだ。あれが、もし私に当たっていたなら。胸に大きな風穴が開いた自分を想像する。元々現実感なんてなかったのに、これまでの日常を奪い取られる恐怖がどっと押し寄せてきた。逃げなきゃと本能が警鐘を鳴らしているのに、あまりの恐怖に私の足から力が抜け、その場で転んでしまった。



「てめぇ、オリヴィアに何をしやがる!」


「怒ってる場合じゃないよ、ケイ卿!」



 後ろで大きな力の塊がぶつかり合う爆音が轟く。同時に、せめぎあうオーラが周囲に爆散したせいで生じた豪風が押し寄せた。埃や木くずが舞い散り、前を見るのも困難な状況で何とか分かったのは、さらに怒りのボルテージを上げた兄に真っ向から掴みかかる少年の姿。


 しりもちをつきながら後ずさることしかできなかったけれど、私は何とか二人から距離を取ろうとする。私を守りながら戦うというハンデがあっては、兄に勝ち目はない。足手まといはごめんだと、庭へとつながる出口のある部屋へ向かおうとする。


 そこから外へ出て、助けを呼ぼう。誰ならこの状況を解決できるのかは想像もできなかったけれど、私にできることはそれぐらいしかなかった。



「オリヴィア……。頼む、正門の方には行かないで、裏口から出てくれ」


「えっ、どうして……?」



 特に不都合がある訳ではないため、従うつもりではあるが、その兄の指示に困惑する。確かに正門と裏口のどちらから逃げるにしても特に違いはない。無いからこそ、どうしてわざわざ裏口から出るように言われたのかが気になった。



「いいから!」


「駄目だよお兄さん。僕が折角プレゼントを用意したんだからさ。君だけじゃなくてどうせなら妹さんにも見届けてほしいな」


「黙れ。二度と減らず口のけない体にしてやる」



 また後ろで、白と黒が激突し、大きな力が爆ぜた。這ってでも進もうとする背中を爆風に突き飛ばされ、フローリングの上を転がった。全身が痛い。肘や膝を打ち付けており、その痛みを体が訴え続ける。だが、骨折などの重症にはまだ至っていないようだ。擦り傷はところどころあるけれど、まだ走れる。


 しかし、玄関側に何があるというのだろうか。少年が用意した何かを、私が見てしまうのは都合が悪いらしい。一体、何があるというのだろうか。


 一つ思い出すことがあるとするなら、それは少年と兄が玄関で言葉を交わしていた時のだろう。何かが地面に落とされる、ゴトリという音。あれを聞いてから兄の空気が一変した。おそらくそれこそが、兄が私に見られたくない何かなのだ。



「カイウス、剣をよこせ!」



 兄の声に呼応し、紺色のオーラが兄の掌に色濃く凝集していく。その後、手から棒状の何かが伸びるようにして、武器をかたどっていく。円卓の騎士が一人、守護神としてのケイ卿サー・ケイの得物は細身の両刃剣だった。真っ直ぐな短いつかと、長く伸びた濃紺の鋭い刃。その形状はどこか十字架のように見えた。


 だがそれを見て少年も適応する。無造作に流出させていたオーラを、四肢に纏い始める。あのオーラは守護神から供給される特別なエネルギーそのものだ。肉体活性や異能を行使する際に消費される代物だが、消費しきれなかったぶんは基本的に垂れ流すことになる。


 だが、高位の守護神になればなるほどそれらを有効活用する術がある。その契約者は今日本にいるらしいが、大魔法使いマーリンを基にした守護神も存在する。マーリンは異能として未来予知が可能だが、それとは別で魔力の弾丸や光線レーザーを撃つこともできるのだとか。


 円卓の騎士であれば、あふれた分のエネルギーを全身にまとって鎧としたり、専用の武器を形成することができる。そしてキャスパリーグであれば、獣にふさわしい爪牙を手にするのだろう。


 堅い二つの物体がお互いを削りあう甲高い悲鳴、その金切り声に彩られるように火花散るつばぜり合いが繰り広げられていた。一般人の私には目も理解も追いつかない、高速の斬撃戦が開幕している。ここにいても私には何もできない。兄が無事で済む保証はない、むしろ無事に済まない可能性の方が高い。


 そんな死地に一人だけ取り残してしまうのはとても怖かった。いなくなってしまうのではないかと、不安になる。それが私の歩みを止めて、この場に縫い付けようとする。今生の別れになるかもしれない、そんなのは嫌だ。


 でも。


 迷いを断ち切るために踵を返し、私は庭へと飛び出した。庭へ出る用のサンダルがあるので、裸足よりはましだとそれを履く。幸いなことに、怪我をするほど大きなガラス片や木くずを踏むようなことはなかった。


 私がいることで迷惑をかけられない。だから走る。向かうべきはセクエントの駐在所。ここから一番近いところはどこだったろうか。頭の中で地図を思い浮かべた私に、兄が叫んだ。



「テムズ川に向かえ! そこならセクエントスクールがある!」


「スクール……?」



 確かにこの近辺のセクエント駐在所よりも、兄の通っていたテムズ川沿いのスクールの方が近い。なぜわざわざセクエントではなく学生の方を頼るのかと訝しんだが、すぐに理解した。スクールにいる教官を呼びに行けということなのだろう、と。


 分かった以上は迷いはなかった。指示通り、裏口に向かって走り出そうとする。しかし、そう上手く事は運ばない。



「駄目だよ」



 私の目の前を薙ぐように、白銀の斬撃が飛んだ。キャスパーのオーラによって錬成された巨大な獣の爪。それを鎌のごとく大きく素早く振るって真空の刃を生み出した。守護神のオーラを纏った鎌鼬、飛ぶ斬撃。我が家の壁の一部をかした芋のように容易く切り裂いて、瓦礫で私の進路を塞いだ。



「外しちゃったか」


「よそ見してんなよ」



 本来は私に直接当てて切り刻もうとしていたのだろう。薄皮一枚ぶん頬を掠めていたのだろうか、滲むように私の頬から血が流れて、顎を伝って地面に垂れた。深紅の雫が地面に広がる。


 兄の心配をする余裕なんてない、そもそも殺されるのは私かもしれないのだ。悲鳴を上げたら動けなくなりそうだった。喉元から飛び出しそうな戦慄を何とか飲み込み、息も忘れたまま玄関へ走る。あちらへは行くなと言われたが、もう選択肢はなかった。


 後ろでまた、大きな音が響く。お願いです、神様。それほど敬虔なクリスチャンではありませんが、どうか私たちを助けてください。今、この街で何が起きているのか分からないが、そう願った。


 一心不乱に、わき目もふらずに前だけを見ていたからだろう。足元がおろそかになっていた。大きな何かに足が引っ掛かり、勢いよく転倒した。アスファルトの上を転がる。肘を今度こそ擦りむいたようで、ひどく熱かった。


 一体何に引っ掛かったというのか。それが気になって視線をそちらにやった瞬間、体の痛みなんて忘れてしまった。



「ひっ」



 声も全然出なかった。驚愕も行き過ぎると、悲鳴さえ出てこなくなるらしい。それを見てようやく気が付いた。兄があの少年への態度を一変させたその原因が。そこに転がっていたのは、人間の生首だった。あまりに鋭利な何かで切断されたのだろう、気管や脊髄も切断された以上の損傷を受けず、ある意味美しい断面を見せつけていた。


 確かに人間の頭は大きいし、頭蓋骨の影響で固い。これを持ってきたあの男の子が地面にこれを落としたというならあんな音もするだろう。私がつまずき蹴ってしまった勢いで、ゆっくりとその首が回っている。


 こんな事を、守護神の力で遂行したというのか。守護神の力を、文明や文化の発展に捧げていきたいと考えている私にとって、人を傷つけ殺める使い方をすることは、最大限の侮辱に他ならなかった。


 許せない。怒りの感情で立ち上がろうとする私の前で、止まり切らない生首がまだ回転していた。まだ後頭部しか見えていなかったところに、焦らすようにゆっくりと、その相貌がこちらを向いた。


 その顔に私は目を見開く。何も兄は、私にむごたらしい髑髏どくろを見せないために玄関に行くなと告げた訳ではないと、真の意味に思い至った。それを見た私が心に傷を負わないようにしたのだ。


 この十八年間、あるいは兄にとって二十一年間、私たちを養い、育ててくれた父の顔。今朝も元気に役場に出勤していった背中を思い出す。その瞼は開かれていたものの、瞳に光はなく、その双眸はうろのようだった。


 自分がまだ幼かった日の微笑み、反抗期だった頃の怒鳴り声、家族で旅行した時にいつも楽しそうに車を運転していた父の鼻歌。お父さんとの思い出が、彼の人生が、走馬灯のように私の脳裏で流れた。もう帰ってこない、愛する家族の喪われた姿。かつて父だった、物言わぬ肉と骨の塊。


 流石にこの出来事には、私も声を殺すことができなかった。深い悲しみ、そして喪失感が絶叫の姿をとって、道路を駆け抜けていく。



「嫌ぁあああぁっ!」



 同時に気が付く。町中、至る所から黒煙が立ち上っていることに。今、このロンドンの街で何が起こっているというのか。この時の私は、まだ分かっていなかった。

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