Introduction
ロンドン橋が落ちた-1
学問が好きだ。科学が好きだ。分からなかったことを理解すること、もしかしたら、を誰の目から見ても明らかにすること。真実の追求と普遍性の確立、それが科学者に求められているものだ。
そこに二十世紀以前の科学と、二十一世紀以降の守護神契約を前提としたテクノロジーとの間に差別はない。守護神は確かに、これまでの科学では説明のつかない神秘的、魔法的現象を引き起こす。そのせいかおかげか、従来の科学技術では不可能だと思われていた新たなテクノロジーをこの世に生み出してしまった。
だから、百年前の科学体系は現代においては全くの無駄であるし、古いテクノロジーは今となってはお役御免。そう考える人も少なくないし、ある側面ではそれも正しいだろう。けれどもそれは大いに間違いだと私は声高く宣言する。まだ大学にも入っていない小娘が偉そうにと思うかもしれないが、私、オリヴィア・ウィリアムズは頑として意見を曲げるつもりはない。
守護神の存在を前提としたテクノロジーは確かに私たちの理解を超えて、結果だけを残してくれる。ヘファイストスという守護神がいるが、その能力を利用して鋳造した刀は、人の手によって生み出されたどんな刀よりも鋭利な切れ味と、道具とは思えない耐久力を有する。そういったオーパーツのような存在を産み落とすのもまた守護神だが、その守護神の有用な使い道を考案するのは技術屋の手腕である。
それと同時に、守護神の異能を科学的に分析することも文明の発展に一役買っていた。医療を司る守護神の中には薬を作ることができる個体もいる。錬成した薬液を分子間結合のレベルで解析することで、人間が化学合成できるところまで理解を高める。そうして新規医薬を量産体制まで持ち込んだケースもあるのだ。
守護神の超能力を科学する。これ以上に今魅力的な学問はない。もちろん文学や歴史にも面白さはある、意味もある。だが、まだ研究が始まってから数十年程度しか経っていない上に、未知の世界がどこまでも遠く広がっている。
勉学に打ち込む人間の中には、二通りの人間が存在する。一つは既存の知識を学び、それらの利用方法を考案する者。そしてもう一つは、未開の荒野を切り開き、白紙の地図に新たな道しるべを刻む者。
そう、守護神はそうやって文明を発展させるのに大きなブースターとなっている。以前までは宇宙に飛び立つのも大仕事だった世界だというのに、ここ二十年ほどでそのハードルは下がった。宇宙飛行士には強靭な肉体が求められるのはもう、過去の話だ。守護神アクセスには副次効果として身体能力の異常活性がある。守護神アクセスを行っている間は、誰もがスーパーマンになれる、とまで言うと少し大げさすぎるだろうか。
そんな子供から大人まで、あらゆる人々の夢の塊。守護神にそのようなイメージを持つ人は多い。だが、夢の裏側に挫折があるように、薬と毒が表裏一体なように、華やかな実績だけがあるとは限らない。
守護神にはまた別の側面がある。人の文化の発展の裏にある、切っても切り離せない人間のどす黒い一面。戦争の道具、犯罪の道具として利用する。ごくごく一部の限られた守護神の異能によれば、大山鳴動も不可能ではない。
だから統治者の側も力を磨いてきた。守護神犯罪には守護神による治安維持組織を
イギリスでは守護神を戦闘に利用する部隊は警察ではなく軍隊に統合されている。軍隊の中で、戦争の際に控えている部隊と、治安維持のために各地方の警察と連携する組織とが分かれているのだ。この内、治安維持に働く部隊の方は国家を守る王家の剣に見立て、セクエントと名付けられた。
当然、危ない仕事も多い。万が一が起こり得る未来に、私は深い深いため息を吐き出した。まさか身内から一人、そして初等部入学以前からの付き合いの友人からも一人入隊することになろうとは。しかし、私の心配事など気にもかけない様子で、三年前にセクエントスクールに入学、そしてこの九月から正式入隊が決まった兄は、呑気そうに欠伸を漏らした。
セクエント入隊を機に、兄は一人暮らしを始める。そのため引っ越しの準備を進めているところなのだが、その準備が中々終わりそうにない。こんな調子で、自分一人だけでやっていけるのかと私生活さえ不安になってくる。でも、そんなのは些細な事だった。危険な任務に就き、死んでしまうような未来さえ来なければ多少の不摂生など可愛いものだ。
「
「もうそんな時間か、ごめんごめん」
約束の十五時が迫っていたため、兄の重い腰をあげさせるために私は荒っぽく声を上げた。イタリア人ぶって
アーチーというのは私の幼いころからの友人で、九月からセクエントスクールに入学することが決まっていた。そう、私の知人の中にいるもう一人のセクエント入隊希望者だ。セクエントスクールではどのような生活を過ごすのかを知るために、ジョージに改めて相談、質問をしたいとのことだった。
先輩面したかったところもあるのだろう、私経由でそのオファーを受けたジョージは二つ返事で承諾した。その後アーチーの入学準備や兄の転居準備の都合で、丁度いい日がこの日しかなかったのだ。
そのタイミングでインターフォンが鳴った。私たち二人しかいない、がらんとした家の中に電子音が寂しげに響く。今日は平日なのでお父さんもお母さんも仕事に出ている。私たちは今、それぞれグラマースクールとセクエントスクール卒業後、新たな環境へ足を踏み入れる手前の休暇を堪能しているだけだ。
このタイミングで訪れるのはアーチーしかいないだろう。そう思ったのだが、どうやら違ったらしい。玄関のカメラには見たことのない人物が映っていた。この辺りに住む人ではないようだが、一体何の要件なのだろうか。私は首を傾げた。
見るからに幼さの残る顔立ちだ。私よりも一つ二つ年下の少年といったところだろうか。アーモンド形のつり目が、どこか猫のような印象を与えてくる。くせ毛気味に無造作に遊んでいるグレーの髪は、それでいながらロシアンブルーのように美しい毛色をしていた。
カメラの存在は見えているからか、気まぐれそうに彼はこちらへ手を振った。何が楽しいのか分からないけれど、抑えきれない感情がこぼれたような笑顔も見せている。
「知り合いか? 学校の後輩とか」
「ううん、全然知らない子」
私の方が歳が近いからだろう、ジョージは私の知人かと勘繰ったようだ。だがそうではない。ジョージにも心当たりはないらしく、未知の来訪者に私たちは戸惑う。どこか別の家と間違えたのだろうか。
「俺が出るよ、ちょっと待ってろ」
そう言ってインターフォンの呼び出しに出ることもなく、直接兄は玄関へと向かった。そのままカメラを切ってしまってもよかったのだけど、何となくその猫のような少年から目を離すことができなかった。虫の知らせというのに近いだろうか、少年から漂う危なっかしい魅力のようなものに、一抹の胸騒ぎを覚えていた。
カメラには映らないが、兄は玄関先の正面と向き合ったらしい。ジョージの朗らかな声がした。詳細をカメラのマイクはあまり拾ってくれはしないが、ジョージらしい明るい声での歓談が聞こえてくる。
彼が誰なのかは全く分からないが、きっと私の胸騒ぎも気のせいだ。良かった、そう思ったその時だった。ゴトリ。重たい鉄の球が地面に打ち付けられ、少し転がる鈍い音がした。その瞬間、兄の声色が大きく変わる。
普段の生活では決して聞くことのできない、どすの利いた激昂の色。滅多に出ない兄の怒号が、玄関の方から響いた。
「お前……っ。どういうつもりだ! 悪戯にしてもしゃれにならんぞ!」
何が起きたのかは分からない。だが、あの鈍く重たい音が響くと同時に兄の纏う雰囲気が一変した。
普段は温厚そのものだが、兄は大柄で筋肉質な男だ。たまに熊のような男とからかわれるものである。だが、だからこそ怒りを露わにした兄は非常に恐ろしいものだ。私に言い寄り、ふられた末にストーカーとなった男がその声の圧だけで心が折れたこともある。
しかし、華奢で小柄な少年は、どうしてだか怯えないどころか、表情一つ変えるそぶりも無かった。先ほどと変わらず、楽しそうに口角を吊り上げたまま、とある機械を取り出した。長方形の形をした、薄っぺらい黒い板。手のひらサイズのそれを、見せつけるように兄に見せている。
スマートフォン、のように見える。だが、ふと、ある可能性が脳裏をよぎった。あれは、きっと。
「お前それ、ILPか?」
同じ可能性に至ったジョージが、私の代わりに彼に尋ねた。ILP、つまりは
言葉では肯定しなかった。頷くこともしなかった。だが、カメラの向こう側で少年の気まぐれな笑顔が歪んだ。悲しそうに歪んだのではない。むしろその逆だ。期待に満ちた楽し気な笑顔が、悪戯に成功して打ち震える狂気に満ちた邪気のある笑みに変わった。
この瞬間に、私たちの疑念は確信に変わった。
守護神アクセスを行う媒介として、必要不可欠なデバイスがある。旧時代の携帯電話型、あるいは現代でも用いられることのあるスマートフォン型のデバイスで、守護神と、契約者である人間の間にバイパスを繋ぐ役割を務める。
その形状から、守護神アクセス専用のデバイスは
「
瞬間、単なる警戒だった場の空気がさらに変化する。緊張のレベルは最高潮へ、張り詰めてしまった糸が切れてしまいそうなほど、ギリギリの状態だった。
己が契約している守護神の位階と、その名前を呼ぶこと。それは現行の最新技術において、Phoneを使って守護神アクセスを行う際に必須の準備だ。つまりはこの状況において、紛れもない宣戦布告の合図だった。
机の上、置きっぱなしになっている兄のPhoneを手にし、私は玄関への廊下に踏み込む。喉が擦り切れそうになるのも厭わず、悲鳴のような声で兄の名を呼んだ。
「ジョージ!」
「来るなオリヴィアッ!」
「いいからこれ、受け取って!」
私の声を耳にし、とっさに振り返った兄に彼の所有物であるPhoneを投げた。彼の持つそれは、セクエントとして入隊するために授かった正式なものだ。それが必要だというのは瞬時に理解してくれたのだろう。投げかけられたその機体を手に収めた彼は、ありがとうと言う代わりに小さく頷いた。
電話番号を入力するのと同じフォーマットに則り、ジョージも己の守護神の位階を入力した。
その間にも、少年の臨戦態勢は整っていく。負けじと出来得る限りの速度で、兄も己の守護神を呼ぼうとしている。だが、一拍早く少年の準備が完了した。
「守護神アクセス」
銀色に煌めくオーラが堰を切った洪水のように押し寄せる。まるで雪崩のような奔流と化して、家の中全てを埋め尽くした。
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