第32話 そして飛び立つ時が近づく

 メイベルは、歓声に押されるように大きくよろめいた。

 王族の警護の兵ですら、今の奇跡のような、舞台のような、物語のような展開に気を取られ、王妃の異変に咄嗟に動けない。

 床にへたり込む、と思ったら、力強く引き起こされ、馴染んだ匂いに体を強張らせた。

 かろうじて王妃へと一歩進めていた兵が、はっとして膝を突き、深く一礼をした。

 近年滅多に公に姿を見せなかった王が、王妃の腰を引き寄せて抱き込み、そしてすぐさま、両手を取り合って見つめ合う若い二人に向かって歩き出したのだ。


 メイベルは、弱々しいながらも抵抗した。自分の力など、いつもこの男には通用しないことは身に染みている。だが、今はリューセドルクの側には行きたくないのだ。自分は、またも勝手に妄想して勘違いをして、おかしな手出しをしようとしていた。母として、最善の選択ができると勘違いをして、毒のようなものを、息子に与え続けていたのだ。最後の最後まで——。


「また逃げるのか、メイベル? いつ変わるのだ、お前は。そうやって頭の中だけで考えて結論づけるから、偏見に満ちた判断しかできなくなるのだ。目を見開け。信じるのではなく、見て知るのだ。お前の息子は、お前に押さえ込まれて縮こまって、不幸か?」


 太い声で矢継ぎ早に言いながら、ずかずかと近づく王夫妻に、多くの人間が気がついて道を開けた。長らく王太子や側近以外に顔を見せることのなかった王の姿に戸惑い、だが、その健勝な様子に次々と首を垂れた。


「父上、珍しくご気分がよろしいようで」

「お前もな。ようやっと乳離れか」


 なんとでも、と父親をいなした笑顔は、まさに、にやりというもので、国王にそっくりの表情だった。息子を産んで初めてそんなことを感じて、メイベルは驚いた。

 だが国王からすれば、見慣れた顔の様だった。


「いつも言っているが俺の真似をするな。なまじ元がメイベルに似ているからな。その笑い方は腹が立つのに腰が落ち着かぬ」

「いつも言っていますが、意識していません。あなたの息子でもありますから、仕方ないでしょう」

「メイベルの息子なら俺の息子だ。当たり前だ」

「話が通じていない気がするのですが」


 メイベルは、この親子がこのように垣根なく話をするのを、見たことがない。長く国王を避け、最低限の公務でしか同席しなかったからだ。公務の場で私的な会話など、する間もない。

 頑なにそれを通したのは、自分自身だ。

 リューセドルクが王太子に任命された、12の歳以降。いやもっと前、雑多なざわめきに紛れるように、忠言と称して夫の浮気を囁かれて、覚悟できていると思っていたのに傷ついてしまった時から、ずっと。


 あの時、リューセドルクはいくつだったのだろうか。急に父親を避け始めた母親に戸惑っていた顔は、随分とふくふくとして、小さく、柔らかかった、ような。

 今気負いなく父親と話しているリューセドルクはけれど、知らない男性のようだ。伸びた背丈、引き締まった頬、逞しい肩、大切そうにユーラを囲う揺るぎない腕。何もかも、初めて見る心地だ。

 二つの姿が結びつかず、目眩がするようだった。ずっとずっと、我が子という曇りのかかった目で見ていたのだ。愛する我が子と言いながら。


「ごめんなさいね、リューセドルク」


 それは昨日も、そしてこれまで何度も繰り返してきた同じ言葉だったが、メイベルは初めて、涙を堪えて、じっと息子の目を見て謝った。

 蒼い目は、波立たない。


 思えば今まで、その目にはいつもさざ波が立っていた。どうして、どうしてお父様を避けるの? どうして、わかってくれないの——。それを見たくなくて、目を合わせないようにしてしまった。

 馬鹿な母親だった。今なら、今ならきっと、見ないふりはしない。


 今からでもせめて、と、メイベルはじっと、蒼い目を覗き込む。

 しかし、見つめ返してくれるのは、雲のない空を映す凪いだ湖のような目だ。いかに眼を凝らして探しても、わずかな揺らぎも見当たらない。

 ああ、もう私の謝罪は必要がないのだ、とメイベルは深く理解させられた。

 最後まで、そしてこれからも、メイベルの謝罪は、メイベル自身のため。






 ああ、心に反して謝罪を受け入れる必要も、許す必要もないのだと、リューセドルクは深いところから自由を感じた。

 そして、解き放たれて振り返って初めて、まだ心の奥底に母親への想いがあることにも気がついたが。それはもう、臭く重たく冷たいものではなく。澄んだ水の底にずっと沈んで、そして時折差し込む光に煌めくような。そんな静かで美しいものだった。




 リューセドルクが黙っているうちに、国王が痺れを切らし、メイベルの腰を持ってくるりと自分に向き合わせた。


「俺にも謝罪をくれ。してもいない浮気の噂を鵜呑みにして、夫を蔑ろにしてごめんなさい、だ」

「な、なん。こんな場所で!」

「愛想をつかされたのかと無駄に腐っていた俺も情けないが、俺がやっと奮い立って確認しようとしても、息子にかまけてそれを言い訳にして、10年も逃げまくっていたではないか。10年だぞ! 幼子とて、こうして男になるほどの年月だ。俺をそこまで弱くするのは、貴女だけだ。

 今更その逃げ癖が治るとも思えん。ゆえに、逃げ道は残してやらん。だがもちろん、貴女だけを追い詰めるわけではない。——王妃に偽りごとを吹き込んだ愚かな者どもも、王妃を介して甘い汁を吸う事しか考えなかった者どもも、根こそぎ、捻り潰す」


 会場の各所で、青い顔をする者がいることを、この王はおそらくきっちり把握しているのだろう。

 この数年、原因不明の気病みで、こうした大鉈を振るう元気もなさそうだったのだが、どうしたのだろうか、と息子としても訝しんだリューセドルクに、さらりと寄ってきたケールトナが、なんでもないことのように呟いた。


「竜を託すときの古い約束で、三国の王は、即位すると竜にとても近しい魂になるのでね。もしかして時期が悪く、竜が弱るのに巻き込まれておられたのかもしれぬな? だがそれも、ガゼオのように楽になった、ということも考え得る。……面白いな」


 場をわきまえたのか取り繕った言葉で推測を述べていたが、最後に、人の悪い笑みを浮かべていた。


「でもガゼオには、始祖の匂いつきの花を寝床に撒いていたから、その影響ではやく元気になった、と思ってるけど。陛下には…? もしかして子豚…?」


 リューセドルクは首を傾げた。ユーラの話の中の何かが繋がらない気がしたのだが。


「父と、子豚?」

「まだ話してなかった。ビットンのことだけど」

「一晩預かったビットンだろうか?」

「あれは実は」


 言いかけたのを遮り、外で咆哮が響き渡ったので、リューセドルクは両親について不本意な想像をしてしまう事態を先延ばしにできた。


「ガゼオ?」


 城の竜ならば、声でわかる。

 すぐに竜番が窓から駆け込んできて、会場が騒然となった。


「殿下! ガゼオが……!」

「そうか、ついに発つか」


 もう、という思いと、まだいてくれたのか、という思いが錯綜する。まだ居るのだと知っていたら、最後の最後に、この晴れ渡った空のような幸福を、少しでも共有したかったが。


「よい。目的があって、ガゼオと雄竜たちは城を出る。竜にとって大切なことだ。王太子として、竜管理統括者として、邪魔をせず行かせることと決めた。皆、ここに立ち会ってもらったのも何かの縁と、静かに見送って欲しい」


 これは、すでに竜に関わる者たちには周知してある決定事項だ。

 それを会場の全員にも宣言をして、中庭向きの広い窓に歩み寄った。そこから、飛び立つ竜たちが見えるかもしれない。上空を、ひとまわりでも挨拶に回ってくれるかもしれないと思ったのだ。

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