第33話 あなたを自由にする愛

 中庭は、昼の気配が翳り、宵の匂いが漂い始めていた。日差しは赤みを帯び、中庭には城壁の影が長く伸びている。

 状況を理解しきれない客たちが、顔を見合わせながら、リューセドルクたちの背後から、空を見上げた。その時だった。

 バサ、バサ、と思いがけず大きな羽ばたきが聞こえて、大きな黒い影が中庭を横切った。

 ひい、と気弱な客たちが悲鳴を上げた。


「ガゼオ?」


 リューセドルクの呼び声には、喜色が滲む。応えるように、巨大な赤翠の体がふわりと中庭に舞い降りて、友に向かって、よう、と言うように、一声吠えた。

 中庭で警護に当たっていた兵たちは、さっと槍の覆いを外して臨戦体制を取った。窓に近い位置にいた客たちは、うまく動かない体を引きずるように広間の奥へと逃げ出した。


『ずるいよな、自分だけちゃっかりうまいことやって。俺の心配を返せってーの』


 人間の混乱をよそに、ガゼオはふんす、と鼻から苛立ちと息を吐き出す。

 言っていることはしょうもない悪態なのだが、巨大な竜の挨拶も悪態も、人々には恐怖の咆哮と唸りに見えたようだ。客たちの多くは竜を間近に見たこともなく、竜と関わりのない兵たちは、近頃の竜たちが不穏な精神状態であることだけは知っていた。しかも今見る限り、いざという時に竜を戒める竜番もわずか一人二人しかおらず、足を縛る鎖も存在しないのだ。

 客たちは縮み上がり、兵たちは決死の顔をして、槍を構えた。


『くっそう、俺は痩せ細る思いで、お前を心配して残ってたってのによう。腹の立つ!』


 グアア、と空に向けてガゼオが気炎を吐いた。

 びくり、と兵たちの体が動き、それに合わせて穂先が揺れた。

 そこでようやく、リューセドルクは気がついた。自由な状態の竜に、人々が怯えている。

 今兵たちに制止の声をかければ、それを合図に飛びかかりそうな緊張感だった。飛びかかれば、ガゼオは振り払うだろう。傷つける気がなくても、竜は人より何もかも強靭だ。兵たちは怪我をする。

 それは、避けたい。

 だがそれは、人間が傷つくことが許せないのではない。竜たちが恐ろしいものであり排斥すべき存在であると認識されることが、リューセドルクは許せないのだ。


「ガゼオ、周りを見ろ。怯えられている」


 そっと、胸元に忍ばせていた竜笛を握る。

 使いたくはない。

 使いたくはないのだ。

 これから人生を拓きに飛び立つ友に向かって。


「使わなくて大丈夫」


 リューセドルクの手を上から抑える小さな手に、すがりつきたいほどの安堵をもらった。

 そういえば彼女は、ずっと自分の腕の中に収まって、ガゼオの唸りにくすくすと楽しそうに笑っていた。だから、リューセドルクは客たちの動揺にも気が付かず、別れの前のひと時を共有できる喜びだけ噛み締めていたのだ。

 ユーラはそのまま、歌うようにガゼオに話しかけた。


「若君、ありがとう。私たち、無事に対の星の絆を結ぶことができました。もう大丈夫です。ですから、今度は、若君の番ですわね。夕方の旅立ちなんて、とても素敵。……森まで一息に飛ぶのもよいと思いますけれど、この時期、森の手前の滝つぼ付近に咲く黄色い花が満開で、それが始祖の好みの味だと思いますの。お土産にお勧めですよ」

『……花か』


 急に大人しくなった巨竜に、兵たちが槍を構えたまま、少し息を継いだ。

 森の民が、竜と……と囁きがあちこちで交わされる。竜の価値を低く見ていた貴族たちも、少しはこの王国の成り立ちを思い返すだろうか。


「生気を集めて飴みたいに固めたものも好きだろうと思うけれど、いい提案があります。私たちを乗せていってくれたら、新鮮なお花をたくさん持っていけるように、代わりに摘んで差し上げるけれど、どうかしら?」

『……私たち?』

「ユーラ! もう森へ帰ってしまうのか」


 竜の、そしてリューセドルクから疑問と驚きに対し、ユーラは顎に指を当て、はて、というように首を傾げた。手の甲の蒼い繊細な模様が艶かしく見えて、つい、その指を握り込んでしまう。できれば、他の誰からも見えない様に、隠しておきたい気がした。

 近くなった距離で、ユーラが拙い口調に戻って、こっそりと囁いてくる。


「リューセドルクは、ガゼオと一緒に行きたいのかな、と思ったけど」

「……」

『ああ、そう言ってたな。でもどうせ、いろいろしがらみがあるんだろ。無理やり連れてっても、またあれこれ悩むんだろうしな。俺が全部、噛みちぎってやれたらいいんだけどな』

「リューセドルクがここにいるなら、もちろん私もいるけど」

「……」

『即答しろよ。本当に一人前の雄なのかよ』


 そう言いつつも、ガゼオはその返事を待たずに、前脚を揃え、羽根を畳んで、騎乗待ちのような姿勢を取った。

 客たちは息を殺しながらも状況を見るために恐る恐る首を伸ばし、兵たちは緊張を和らげ、どっと流れる汗を拭うものもいた。


「私、この城に来てから、ずっとリューセドルクのことを見てた。あなたが、何を見ているか。

 あなたが見ていたのは、竜のこと、国のこと、お城のこと、そこに生きる人たちのこと。すべてを真剣に見てた。ずっと遠い未来のことも。自分の気持ちにも向き合ってた。王妃様のことからも逃げなかったし、王様のことも心配して見てた。そして、いつも、少しだけ悲しい目で、森と山と、その向こうの空を見てた。

 私、竜を助けたし、王妃様にもちょっとね、あと城と国の人に本当のあなたを認めてもらえるように、ここに来たの。少しでも同じものを、一緒に見たくて。

 なんでも、してあげたい。対の星のあなたに。

 だから、森へ行きたいのなら、連れて行くよ、私が。『その先』にだって。——でも、ここにいるのなら、私が森を出る」


 抗いようのない衝動で、リューセドルクはユーラの小柄な体を抱き締めた。

 これほどの想いを寄せられることなど、あるだろうか。これほど同じ想いを返したい思うことが、あるだろうか。


 ユーラは、リューセドルクを自由にする。心を押し殺して我慢せずとも、我がままに道を選んで良いのだと、どこまでも頼もしく支えてくれるのだ。

 これが愛ならば。

 愛とは、心に根を張り芯となり、己の支柱となり、揺るぎない安堵をくれる。抱き寄せたこの温もりが傍にあるならば、どこに在ろうとも、リューセドルクは幸せになれると断言できる。

 ああ、これを、いかにユーラに返したらよいのか。

 その悩みすら、幸福で、快い。


「あの、でも、急に不安になってきたんだけど、説明してないのに絆を結んでしまったけど、よかったかな。対の星の絆は、一生続くよ。夫婦になるのもいいなあ、と思うんだけど。私はね。私は。でも、かけがえのない友人か永遠の好敵手か、どんな関係性になるにせよ、切れない絆。だから」

「……友人? 好敵手?」


 顎の下に柔らかな髪と額と、昨日知った柔らかな匂いまで感じる最高に幸せな状況で、リューセドルク自身も引くほどに低い声が出た。


「え?」

「対の星は、そんなに大雑把なのか?」

「大雑把じゃないよ。人生の伴侶だから。一生に一人。……だけど、まあ、人の言葉に当てはめると何かな、っていうと」

「伴侶は、伴侶でいいだろう?」


 そう? とへらりと笑うのを見て、リューセドルクは決心した。

 周囲から見ても、今、リューセドルクの表情が変わったのがわかったのだろう。特に、内面はよく似通っていると自分でも思う、父王には筒抜けだったようだ。


「おい、色ボケ息子。行くなら確実に仕留めろよ。見ての通り、いい歳になっても誰だって阿呆なことを悩んですれ違うのだから、今お前が味わった絶望感みたいなのは、これからも途切れずあると知れ」

「これはこれは、これ以上ない悪い見本をありがとうございます、父上。余計なお世話です」

「俺はもう囲い込みはできている」

「ご自分の発言がご自分に返るでしょうね。10年も拗らせておいて、そう上手くいくはずがない」

「今からは全力全開にするから、取り返す。どうせ弟妹がすぐできるから、お前、しばらく帰って来なくてもいいぞ。竜たちも半数留守になるなら、どうせなら、竜番たちも留学させてもらえ」

「適当な発言をしないでください」

「いいんだよ。息子が育てた臣下は優秀だからな。お前がいなくても、むしろのびのび栄えるわ」


 国王の野太い声に顔色を目まぐるしく変えていた王妃は、身動きも取れないほどに抱え込まれたまま、視線だけを息子へと向けた。突然に提示された別離に涙を浮かべる以前に、ただ理解できないという目だ。けれどその手は、ぎゅっと国王の服を握りしめて、まるでリューセドルクを引き止めないように、自分で抑えているようで。

 その様子には、さすがに哀れを感じたが。

 それをかき消すように、心には風が吹いた。あらゆる戸惑いや不安や迷いが、吹き飛んでいく。残るのはただ、待ちきれないように先を見たい気持ちだけ。 

 その風の中心には、腕の中の娘がいる。


「連れていってくれ、ユーラ。俺は、ずっと、もっと広い世界を見たかった」


 かけがえのない宝石の手を握りしめて請えば、満開の笑顔が帰ってきた——。

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