第17話 求める答え
虚をつかれて、リューセドルクはユーラを見た。
赤翠の巨体も、大きく口を開けたまま、睨み下ろしていた。それを穏やかに見つめ返す小柄な娘には、特別なことを言ったという様子はない。
「だって、体力が落ちたまま向かっても、若君にとっていいことはない。森にも竜はいて、人の国の竜より乱暴で強気なことが多い。若君が始祖の運命のお相手だとしても、遠慮はしないと思う。雄同士、戦うことになる。平和が好きな竜が争う、唯一のこと」
『俺なら、すべて、薙ぎ払う!』
「最後は勝てるかもしれない。でも、初対面は大事。なんとか勝っても、傷だらけになってたら、えっと、……かっこわるい」
『ぐぐ……』
煮えくりかえったようなガゼオは、リューセドルクでも怯むほどだが、ユーラはのんびりと言葉を探していた。まるで、竜が自分を害することなどないと思っているようだ。
だがそこで、ユーラは少し言葉を迷ったように口をつぐんで、リューセドルクに向かって、まだ言葉を使いこなせなくて、と断りを入れてから、もう一度口を開いた。
『一世一代の求婚でしょう? 焦りでしくじったら目も当てられないわよ。当然、完勝圧勝あるのみ!これは特別若君が王子の竜だから忠告するけれど。始祖の竜は目が肥えてるわよ。焦ってがっつくお子様は、お呼びでないと思うわ。だからと言って余所見をするような竜ではないように思うけれど、出直せとは言われるかも。初対面の印象を覆すには、それなりに時間と苦労が要るでしょうね。その間は、もちろんずっと、求婚の嵐でしょうね。いいのかしら。若君はそれを許せるの?ね?事前の入念な準備が必要だって、少しはわかってもらえたかしら。まあ、だけど、私も始祖が首を長くして待っているのを知っているから。若君にはそれはもう頑張って万全に仕上げて速やかにあの竜の元へと行ってほしいの。それでね、取引なんだけど』
『と、とりひき? いやその、ちょっと待て。実はそんなに早口なのか……』
『王子が待ってるから、急いでるの。王子は聞き取れないからね!それで、取引で求めたいのはね、若君がお子様を卒業して、きちんと王子の気持ちを思いやること。止められたのは腹が立ったかもしれないけれど、その後ずっと分かり合う努力をしないで、八つ当たりをしていたでしょう? 認めなくてもいいけれど。認める認めないは今はいらないからね。
代わりに私が提供できるのは、森の滋養強壮の薬鉱と、一晩で鱗艶々になる花蜜、あとは体の内側から良い香りにする爽茸。森でも希少なものばかり。いい雄に仕上がること間違いなしの秘薬ばかり。始祖の竜もうっとりすると思うわ。間違いなしよ。さあ、どうする!?』
『ううぬ、始祖に近しいからと、俺をからかうか……!』
リューセドルクの耳に、ユーラの言葉はかすかな葉擦れと岩窟の中に落ちる水滴と、優しくまろい鳥の鳴き音のように響いた。森の民の言葉だろうか。人の言葉とは、まるで音が違う。けれど変わらずガゼオの唸りと意思疎通ができているようなのは、なぜだろうか。
だが、意味はわからないなりに、ガゼオに向かって含み笑いをしながら指を折っているユーラには、つい、そのくらいにしてやってほしいと、言いそうになった。ガゼオの尾の鱗が総立ちになっている。よほど居た堪れない気持ちになっているのではないだろうか。
だが口出しは野暮だろう。それでもそわそわとしてしまったリューセドルクを、ユーラがちらりと振り返って、微笑んだ。わかってるよ、と言われているような。
それから、ユーラはまた、リューセドルクのわかる言葉に切り替えた。
「からかってない。大丈夫、実は全部もう餌に混ぜてるから、我慢もあまり長くない」
『……』
「あと、始祖が寝床にしている花畑からもらった花びらを、そこに撒いたよ。若君の右の前脚のところ。きっといい匂いがすると思って」
『……!!』
「心が、少し楽になってる?」
ぱくりと口を閉じ、表情なくユーラを見下ろしていたガゼオが、右前脚を一度ゆるゆると持ち上げてから、慎重にもう一度下ろした。そして、渋々といった様子でそれを認めた時。
リューセドルクは、どっと目から温かいものが溢れ出るのを感じた。極めて、不覚だった。
『お、お前、泣くなよ』
『リュ、リューセドルク!』
焦ったようにかけられた唸り声に、気遣いを感じて、一番大切な友が失われていなかったことに、また泣けた。子豚が暴れていたのには、気づかなかった。
『ど、どうしちゃったの。歩き始めてから、泣いたことなんてなかったのに』
『それはそれで、異常だって気づけよ。コイツはよく俺のところで泣いてたぞ』
『なんで竜のところで泣くのよ!』
『知るか。俺のところでしか、泣けないからじゃないのか?』
子豚は押し黙って、自分を抱える娘の腕の中に、尻からずりずりと深く潜り込んだ。
『母親が何考えてるのかわからないって、よく言ってたぞ。優しくしないとダメだと言われるけど、優しくばかりしてると他の奴らに舐められて嫌がらせをされるのに、それは我慢しろって言うとか。舐められないように厳しく平等にしようとすると、母親が怒るって。女が悪いことしたのに罰を軽くしたら、贔屓をしてると責められることには、答えはくれない、ってな。
母親の言う通り、ただただ優しくだけしてるだけで皆んなが言うことを聞いてくれる、そんなデタラメな魅力が自分にあればよかったが、そんな魅力がないから、自分はダメだってさ。
——なあおい、そんなわけあるか? それはどこの世界の法則だ? 母親の頭の中の妄想だろ?』
『あ、あの子は元から優しい子で、なのに無理に王太子らしくいようとしていたから』
『まあだ言い張るのか。
……だがもういいんじゃないか。アンタはそれで。アイツだって、もうとっくに吹っ切ってる。何年も前から、母親の話なんかしなくなった』
ようやく涙が止まり、気恥ずかしさと、火照りとで、リューセドルクは頭がぼんやりとしてきた。
目の前で、ガゼオと子豚が鳴き交わしているように見える。ガゼオは、動物と意思疎通ができたのだろうか。
だが、怯えてしまったのか、ついには子豚はユーラの腕で反転し、頭から潜り込むようにして、ちょぼりとした尻尾だけを出した。
その尻をぽん、と優しくあやしたユーラに声をかけるのに、リューセドルクは二度、深く息をした。
「……彼らが何を話しているのか、貴女はわかるのか?」
「うん、王子が小さな頃は、お母さんのことで苦しんでたって」
それはリューセドルクがガゼオ以外の周囲に決して悟らせたことのないことだったが、突きつけられても、今はさほど心が動かなかった。
母のことを、面と向かって呼びかける時はともかく、母と呼ぶことがなくなって、どれほど経つだろうか。
「王妃は、私のことを疎んじている」
子豚の尻尾が、ぴんと硬直した気がした。
「そう思っていた時もあったが」
ぷひ……?
「おそらく、王妃は私に関心がないのだ。王妃の視界にいるのは、彼女が理想とする心優しく完璧な王太子であって——私ではない」
子豚の尻尾が、今度はしおしおと垂れた。
『ほらみろ。何だ、いまさらようやく子供の気持ちを理解したのかよ……。面倒だな、人ってのは』
『ううううるさいいわよおぉぉ』
「ところで、竜は、動物と会話ができるのか?」
まだ何か会話しているようなのを眺めながら、リューセドルクが他愛ない質問をしたのは、ユーラが小首を傾げて言葉を探しながら応えてくれる、その様子を見たかったからかもしれない。
「うーん、これは動物ではないから」
「豚の子供ではないのか?」
「かなり小さいけど、ビットンね」
「ビットン?」
「そう、ほら、頭の上のキノコ、これが本体で、子豚に似せた体は擬似体」
ユーラは容赦無く子豚を腕の中から引っこ抜き、脇の下を持って差し出してきた。確かに、頭の三角の耳ふたつの間に、三本ほどの傘の茶色いキノコが生えている。
にょきりと、しっかり肌に根付いているようだ。
「魔物に近い、擬態する森のキノコね。それがビットン」
ぶ、ぷひ。
子豚はか細い息をついて、ことりと気を失った。
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