第15話 抱え込んだもの

「竜舎に詰めてたのか? それなら、今夜は少し楽をしろよ」

「詰めたかったが、ガゼオが許さなかった。だから竜舎にいたわけではない。だが、これでも王太子だ。仕事はなかなかたくさんある」

「王太子の仕事って、何をするの?」


 ユーラの質問は、なぜかとても愉快だった。王太子というものが、単なる業種のように聞こえる。実際はそうだと日頃から痛感しているが、外から見ると、どうだろう。高貴な立場の血筋に生まれたことを幸運であると羨まれることは多いと察している。

 リューセドルクのではなく、王太子の、仕事とは。


「他国の王太子がどうかは知らないが、私は竜に関する一切と、王城と城下の防衛治安を国王から正式に委任されている。もちろんどちらも補佐として実務を行う副官がついているが、重大な犯罪については直接調査の指揮をとり、捕縛し、裁判の立ち会いも行う。兵たちの統括では、訓練や演習は気晴らしにもなるが、各地の貴族家からも徴兵をする、その数多の調整が地味に時間を取る。治安に関する訴えへの対応に加え、今は国王から暫定的に民政の訴訟対応も引き受けているため、なかなか時間が足りない。

 王太子として所有する領地の管理業務の統括も、まだ学びながらなので時間がかかる。

 竜を介した外交についても私の管轄なので、必然、他国との外交そのものに関与している。最近は、竜たちの様子が大きな気掛かりで、他国と情報を交換するのに便利だったが、このごろは、外交上の配慮にかえって縛られているかもしれない。力不足を痛感している。

 今はまだ国王が財政、民政共に引き受けてくださっているが……。今はせめて、議事に挙がる事柄だけは追っている。だが報告書を読むと、その後なかなか寝付けなくてな」


 数え上げている途中から、自分でも途方もなく広範囲な職務に軽く絶望してしまった。

 おいおい、とケールトナが同情めいた視線を寄越した。


「働きすぎだ。気が休まる暇もなさそうだ」

「それは苦ではないのだ。自ら選び取っている道だ。……だが、時間ばかり取られる催しには、疲労感ばかりしかないな」

「お妃選びか。だが、いつかは必要だろうし、リューセドルクの助けとなる相手が見つかるかもしれない」

「私が選ぶなら、そんな相手が望ましいが」


 そこでふと、リューセドルクはユーラの目が気になった。

 今回は、妃を選ぶつもりなどはじめから些かもないのだと、言い切るのを、躊躇った。


「……それでも、今の時期におして選ぶ必要はなかったのだ。諸々のしわ寄せで、このごろはうたた寝する暇もない。この忙しさでは、妃など選んでも、私がその女性の傍で休む暇などないだろう」


 これはこのように愚痴めいたことも言う暇も相手もいないほどに、日々は足早に、冷たく去っていくことからも、明らかだ。いや、側近にはこぼすこともある。執務の合間に、苦笑に紛れて。だが彼らに何を返せるだろう。彼らは誠意を持って、慰めを口にする。支えてくれる。それで十分だが、それでは解決にならないことも確かだ。

 では、妃となる人が、側近以上に自分を支えてくれるだろうか。


「私が選ぶ妃でもない。王妃が娶るといいのだ。……王妃の様な女性が身近に増えるかもしれないと思うと、気が遠くなる」


 それがリューセドルクの、正直な心情だ。

 いつの間にか、手元の子豚は、その体温以外の存在感を消していた。


「未来はわからんぞ。まあしかし、一人支援者が増えたとして、だな。それは代々の王族が皆担っていることなのか? ここの王族は常人ではないのか?」

「常人だ。今は、王族が極めて少ないんだ。手分けできない。兄弟がいれば、と思うことはあるが」

「そうか」


 リューセドルクは苦笑する。そうだ。家族が多ければ、確かに手分けができただろう。

 かつてリューセドルクを産んだ翌日、出産はもう懲り懲りだと、王妃は国王に言ったそうだ。それはよい。兄弟すなわち働き手ではないし、子は授かりものだとも思う。

 けれどその王妃は王族の仕事をせず、リューセドルクには、優しい妻をもらってたくさん孫の顔を見せろと、家族に囲まれて幸せになるのがお前の幸せだと、そう言うのだ。


「慣習として、外交には王妃が関わるのが通例だが、その気はないようだ。とはいえ、王妃を説得する労を思えば、初めから期待せずにいるほうが、よほど気が楽だ……。

 そう、たとえば。我々の祖は、山向こうの地から移住してきたが、その地はとても発展していたと記録にある。建国に携わった人々は、おそらくその知識を存分に活かしたのだろう。結果、我らの国には、規模に見合わず細分化された役職が作られ、それが兼任という形で王族に集中している。これが問題の根幹だ。

 城下が大きくなり、人が増え、有能な人材も増えている。役職や制度を、国の発展に合わせて、根本から見直せばいいのだ。王妃を説得するなどより、よほど挑戦する価値があると思わないか? これはまだ国王にもお話できる段階ではないため、ここだけの話だが」

「確かにいい案だが、一大事業だ。今は……目が死んでるぞ、リューセドルク。もう少し状況が落ち着いてからでいいんじゃないか?」


 確かにそうだ。思いつきで実現できることではない。

 だがもう、この状況に、耐え難いのだ。

 それほどに心を削って、望まぬ催しとそれに関わる王妃の暴走への対応のために、どれほどの時間を浪費したか。いや、これ以前から、同様のことは数え切れない。

 自分の心の平穏のために忘れるよう努めていたことが一瞬で蘇って、言葉通りに、目の前が真っ暗になった。

 だが、負けてはならぬと、その不快な感触をぐっとまるごと飲み込み、ねじふせた。

 そして心を鎮め、居住まいを正す。


「私は国で唯一、竜に乗れる剣士の身でもあるので、なるべく鍛錬は欠かしたくない。けれど、それ以上に、幼い時から理不尽に思うことがあって塞いだ時は、竜に、ガゼオに救われてきたのだ。竜とともにいることは、鍛錬であろうが職務であろうが、私を泥沼から掬い上げる。

 だから……本当に貴方たちには感謝している。下手をしたら、花火で恐慌状態になった竜たちが、竜番や城の者を害していたかもしれない。そして私は、立場上、どれほど辛く、身を削られるような苦しみを伴おうとも、竜たちを切り捨てなければならなかったはずだ。恐ろしい未来を回避できたのは、貴方たちのおかげだ。——ありがとう」


 出せるものは全て、吐ききった気分だった。感謝。国の者相手に吐露することを決して自分に許さなかった、不安と不満。弱音、展望というには見込み難い未来の妄想。

 一方で、沈めるべきものは、底に潰して押し固めた。

 自分の中は今空洞で、何もかもが彼らの前に晒されている。

 すると、不思議と腹のあたりが温かくなった。それは、固まったままの子豚を抱えているからだろうか。ぬくみが、心地いい。

 もしかして、自分は今眠っていて、夢を見ているのだろうか。

 春の森の木々の夢だ。明るい緑。

 よい夢を、見ているのだろうか。


「忙しい以外に、竜たちのことも気になって、眠れない日が続くままにしていたら、ここ数日はもう眠気を感じることもなかったんだ。夜通し書類を眺める以外に時間を過ごせないから、おかげで執務も何とか回っていた」


 だが、苦しかった。言わずに、飲み込む。

 そんな飲み込んだ言葉を、いつも感じ取ってくれたガゼオとも離れて、寂しかった。それも、飲み込んだ。

 底の底に潰れてひしゃげていた黒いものに、飲み込んだ暗く冷たい言葉が降り積もり、埃が舞い上がるように、黒い靄が鎌首をもたげた。

 温かくなっていた腹が、ひゅうっと冷える。

 そうだ。

 こういうものは、きりがないのだ。絶えず積もり、生まれて、隙あらば蔓延り、根を張り、永遠に。

 ふと、初めからずっと自分を見つめていた芽吹き色の瞳が、優しく細められたのを、リューセドルクはただ見ていた。


「大変だったね。貴方だから、ここまで持ったんだよ。すごいことだよ。これからは、もう大丈夫。順番に、解決しよう。全力で、手伝うから」


 飾り気のない言葉が、彼女の偽りない思いだと、なぜわかるのか。

 だが、そうだ、ユーラは、リューセドルクを助けてくれるはずなのだ。


「まずは、貴方の竜だね。……若君、これはあなたも責任ある」


 ユーラは、後半でガゼオに向かって嗜めるように声をかけつつ、リューセドルクの手から子豚を取り上げて片腕で胸に抱き込み、もう一方の手でリューセドルクの空いた手を引いて、ガゼオの室へと歩み寄った。

 ユーラの手の小ささに気を取られていたものの、大きな親友に近寄れば、これまでに受けた拒絶を思い出して、足を進めるのを躊躇う。だが、唸りもせず伏せたままのガゼオが、じっとこちらを見つめているのと目が合って。

 それから目が離せないまま、ゆっくりとその鼻先近くへと、導かれるままにユーラと一緒に座り込んだ。


「教えるよ。何が起こっているのか」


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