第9話 森の隣人

「説明もなく呼び立てて、すまなかった」


 あらゆる混乱を押し隠して丁寧に挨拶をしたカンタスに、王太子は柔らかく持ちかけた。


「他言無用を誓ってほしいのだが。ルヴォイの森の民にどうしても教えを請いたいことがあるのだ。仲介を頼みたい。できるだろうか」


 カンタスはその言葉を聞いて、顔を伏せたまま、尖らせた口から細く長く安堵の息を吐いた。気が抜けたせいか、今度は一気に滝のような汗が滴ってきたのだが、むしろ爽快だ。

 これほどに、ネクトルヴォイの領主として呼び出されるもっともな理由はないだろう。

 恐怖の反動で、あやうく跳ねて回りたいほどに歓喜が沸き起こっていたのだが。


「先にそなたの娘に尋ねたところ、古いだけで何もない森だと言うので、おかしなことだと思い、こうして秘密裏に呼び立てたのだ。ネクトルヴォイは、ルヴォイの森と友誼を築くことを何よりも重要な使命とし、そのために領主としての少なくない義務から解放されているはずなのだが。王家の把握しない間に、すでに伝承になってしまったのかと、危ぶんでいる」


 ひゅん、と音が聞こえるほどの勢いで、全身の血の道が縮こまり、汗さえひたりと途絶え、そして猛烈に吐きそうになった。


「と、とととと、と」

 ぐびい、と喉がおかしな風に鳴った。

「ぐう、とんでもございません。もちろん、我々は森の民との友好を末永く温めることを何よりも優先し大事にしておりますれば。む、むむむむむ、娘に関しましては、親の私の教育が行き届かず。ここまでとは……情けなく……」


 言っていて、感情が昂って泣きそうになった。

 なぜ、同じ教育を施しているはずの家臣の子らは領地を愛し、森を神聖かつ親愛なる隣人として尊重することができるのに、あの娘だけが、ああなのか。父として対話の時間も持ったし、森の恵みを体感もさせたし、時には森の厳しさの一端に触れる機会だってあったはずだ。いや、客観的に見ても、確かに娘は森に親しんでいたと見えていたのに。いつから変わってしまったのか。


「いや、まあ、泣くな。娘のことは今はよい。だが後継についてはよくよく考えよ。優先すべきことを間違えぬようにな。——それで、ではルヴォイの森にはいまだ森の民がいるのだな?」


 期待からか、王太子は一歩カンタスに向けて踏み出し、はっとして咳払いをした。一瞬だけ、年相応の若さの見える明るい表情をしたのが、とても印象に残る。


「は、はい、おります。と申しましても、気軽に会える存在ではありません。森には我が領民が入り、その恵みを生きるための分採取することを許されておりますが、森の奥に踏み込むことや、森の民に出会うことは、一切不可能です。

 ただ、冬の始まりと終わり、そして秋の収穫後に、領内の恵みを森に贈る行事がございます。かつては、そうした機会には、森の民が直接受け取りに現れたこともあったと記録があります。近年は、手紙が送られてきます。お礼の言葉を書いた手紙です」


 二十余年前には、いたずら描きのような絵も同封されていたのに、父と発見したのを思い出した。当時は何かの暗号かと、家臣ともどもためすがめつ眺めたが、おそらくは森の民の子供の作品だろうと結論づけ、翌回には子供向けの黒板や絵本なども贈ったのだ。

 年々見事な文字を書くようになった小さな誰かを想い、カンタスは極度の緊張から逃れるように思わず頬を緩めたが、王太子は鋭く目を眇めた。


「手紙だけ? 直接会うことはないのか? それでは、誰か他者が成り済ましていてもわかるまい」

「はあ」


 ぼんやりと返事をするカンタスに、王太子の眉がさらに寄った。


「しっかり返答してもらいたい、ネクトルヴォイの領主よ。そのやりとりの相手が、叡智で知られる長寿の民であると知ることのできる証拠はあるのか」

「あ、は、え」


 その気迫に、カンタスは震え上がった。

 領内では、森とのやりとりは神聖な仕事であり、領主の他、家臣のうちの3つの家系の代々の当主が担当する。その誰もが、相手を疑うということをしたことも、する必要も感じなかったのだ。

 ゆえに、理由を述べよと言われても、とっさには言語化できるものではなかった。

 だが今は、それこそ死ぬ気で言葉を捻り出さねばならない。


「あの、あちらでも担当者が変わる時があるらしく、その、見目が恐ろしいだろうから、荷を一晩置いておいて、互いに相手を見ないで済むようにしようか、と祖父の父の代に言われたということで。いつも、定められた時期に森の中の決まった場所——そこは領内でも知る者は両手の指ほどしかおりませんが——に贈り物を置きます。翌日には、贈り物はなくなり、手紙や、返礼品が置かれているのです」

「返礼品?」

「はい、珍しい石、花の種や、美味しい水、織物、細工物、染料など。三国でも見たことのないものが多いのですが、少量ずつだったり、生のものだったりするため、年に一度王家へ献上いたします時には、その中の一部となってしまいます」


 そう言いながら、懐から取り出した布包みを取り出して、一言断ってからゆっくりとその布をめくって見せた。


「一昨年献上いたしました赤い石と同じ石です。これは小さな欠片石でしたので、領地で保管しておりましたが、どうも、温石としての効果がありまして。恥ずかしながら歳のせいか、腰が冷えるとすぐにぎっくりいってしまうため、いつもこうして懐に入れております」

「温石?」

「はい。何もせずとも、いつも一定の暖かさを保ってくれます。夏はこれが意外や、体の余分な熱を取ってくれます。なんだか、心まで支えてくれるように思って手放せません。一体何なのかは、わかりませんが……」


 王太子リューセドルクは、黙り込んだ。

 それは確かに、人の世にはないものだろう。献上したと言うからには、城の宝物庫には同じ石の大きなものがあるのだろう。——人知れず。

 おそらくこの領主は、献上した品の特筆すべき価値など、いくらも主張もせずに納めたのだろう。だがそう言われれば、一昨年の冬から、冬の寒さや夏の暑さが和らいでいると噂になっていたような。城の一部区画だけで、なんとなく、という話だったので捨て置いていたが、あれはもしや。

 有り体に言えば、人の良すぎる領主だと驚くばかりだ。

 宝の気配がしても、素直に王家に献上する。献上したものに王家が価値を見出そうが見出さまいが、気にもしない。そして、宝の正体を突き詰めようともしない。

 三国間で、戦はない。三国以外との交流もなく、人々にとっては、世界は三国だけで成り立っている。

 三国は、急激な変化や発展が少なく、緩やかに文明を進めている、らしい。王家が管理する離れの塔には、古き時代に先祖が命と同じく大切に持ち来た幾多の書物が厳重に管理されている。王太子としてその書物を学べば、実感はないものの、ここが閉じた世界であることが知れた。秘された知識と言える。

 にも関わらず、あるいは必然というべきか、貴族たちは権力を強める機会に飢え、そのわずかな気配も見逃さぬよう、血眼なことが多い。このネクトルヴォイの領主は、貴族の一員ながら、まるで違う世界に生きている様だ。むしろ領主の娘のほうが、まともな貴族に思える。


 だが。おそらく、森の隣人としては、こうであるべきなのであろう。


 領主が、姿の見えない取引相手を森の民と信じて疑ったこともなさそうな様子が、とてつもない愚者に見えていたのが、見方を変えれば、それはこの王城や貴族における価値観でしかないことがわかる。

 リューセドルクは心のままに、にっと口角を引き上げてうち笑んだ。

 立太子以降、公では徹底して感情を出さぬよう心掛けているのだが、この領主の前では、まるで無駄な警戒でしかないだろう。

 ネクトルヴォイの地では、疑う余地もないこと。ルヴォイの森の民は、今も実在する。

 喜ぶべきことだ。

 その心のままに笑ったのだが。

 だが、森の民との付き合いが、かくも人見知り同士の不器用な交際の如くであるなら、彼らに竜についての指導を承知してもらうことはできるのだろうか。

 笑顔一転難しい顔になるリューセドルクには気づかず、カンタスはまたもごそごそと合わせを探り、小さな紙片を取り出した。


「あ、あとですね、実は今回、森からの客人があるという知らせを受けまして。私も古参の家臣も、皆が初めてのことで要を得ず。ですが、どうやら、その、なんの因果か、娘と一緒にこの王城まで来られているようなのです。ですので私としては、娘が愚かなことをする前に、客人から娘を引き離したく……王太子殿下?」


 カンタスの指から紙片をするりと抜き取り、目を通した王太子は、ひと呼吸置いて、は、と鋭く息を吐いた。カンタスは思わず背筋を震わせたが、俯いた貴い顔はくしゃりと崩れ、くっく、と肩を揺らしていたので、なんとか叫ばずに済んだ。

 

「近頃にない愉快な気分だ! 礼を言う、カンタス。貴殿の日頃の務めの重要性と功績は大きいが、もっと尊いのは、おそらく貴殿のその在りようだ。それこそが、森の民との付き合いにおいて、良い風を運ぶのだろう」


 いきなり、最大限と言っていいほどに褒められて、カンタスは目を白黒させて言葉を失った。

 安心するといい、と王太子が穏やかな声で言った。

 カンタスを見る蒼い目もやわらかく、先ほどよりも何故か、少年の頃の面影を強く宿していた。


「その客人には、すでに一部屋与えて、貴殿の娘とは離してある。幸いなことだ。私の名の下に、丁重にもてなすことにしよう。お主も、ネクトルヴォイの領主として、客人にあらゆる便宜をはかってやってほしい。くれぐれも、城から逃れられないように頼む。私も、こうなれば最優先で挨拶に出向くことにしよう」

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