第8話 ネクトルヴォイの領主
カンタスは、ようやく止まった馬車から降りようとして、目眩を感じて馬車の座席に逆戻りに座り込んだ。重たい尻の下で、座席がいやな悲鳴を上げた。
年に幾度か、森の実りに対する感謝の手紙と収穫物や良かれと思うものを贈り、返礼品と来年の豊かな年を寿ぐ手紙を返される。そんな、近くとも迂遠な付き合いをしていたルヴォイの森から、突然前例のない手紙を受け取ったのは、気の進まない王城への旅のため、屋敷の庭で最後の指示をしていた時だった。
王太子の妃選びに必ず娘を参加させろと、応じなければ自死も辞さないと、気の高ぶった妻から再三にわたって強請られ脅されて、やむなく出立しようとしていた朝。
森から巨大な白い梟がゆったりと舞うように飛んできた。
今は亡き父の膝の上で、戯れに語り聞かされたとおり、梟は男が二人で手を広げたよりも大きく両の翼を広げ、羽音もなく空を滑るように近寄って来て、そしてカンタスの頭上にポトリと小さな巻紙を落とすと、再び高度を上げて旋回を始めた。
手紙の内容は、ルヴォイの森の長に連なる者二名の訪問の知らせだった。迷うことなく承知と叫ぶと、梟は一声鳴いて帰っていった。
返答になったのだろうか。別に使者を立てた方が良いだろうか。と悩むうちに出立の時間が迫る。
カンタスは当然、娘に出立を遅らせて大切な客人を待つと伝えた。
だが聞き分けのない娘は、選ばれるはずもない妃選定に遅れたくはないと、勝手に馬車隊を出発させてしまった。使用人のうちの一部は、妻の元から送り込まれている。妻の意向を汲んで動くことが、当主であるカンタスに背くことになると、まるで考えていないようだ。
ネクトルヴォイの血を継ぐ者は娘ユーレイリアしかいない。王太子の妃になど、なれるはずがないのに。
だがいつも、カンタスは非情になり切れない。
ゆえに、舐められている。重々わかっている。それでも、二人の願いを叶えてやりたい気持ちは捨てられないのだ。
領地運営や政務のための王城行きではない。そもそもカンタスだって、この六年は王都に行っていない。ただの妻と娘のわがままに、領民からの税をあてるわけにはいかない。個人資産をやりくりし、一部の財産を売却してまで、なんとか整えた隊列だった。
娘一人を馬に乗せて送り出せるなら一番だったが、娘を送り出すならば侍女も護衛も必要になる。やれ服が布が、途中の食事が、と荷は増えるばかりで、馬車は連なり、大所帯となった。妻も娘も、この一往復でカンタスの資産が4分の3に目減りすることを、理解しているのだろうか。
考えていると物悲しくなるばかりだったが、それも、到着の目安もわからない客に対してやきもきするうちに霧散した。
それほどに、大切な客だったのだ。
隊列を送り出してほっとし、座り込むほどに疲れ果てていた使用人たちに頼み、客人を迎える準備を整える。そして室内を行ったり来たりと、無駄にうろついていたところへ。
先に発った娘の隊から、深夜になって便りが届いた。
ルヴォイの森からの客人だと言う二人が、王都へ同行することを希望したので、仕方ないから隊に加わることを許したが、礼儀に疎く気に触るので、もしかすると途中で追い出すかも知れないから、回収をしに来い、と——!!
カンタスは、生まれて初めて、怒りと羞恥とで髪の毛が逆立つのを感じた。娘を教育し切れなかったことはいつも悔やみ嘆いていたのだが、それでもここまでとは。心が熱く煮えたぎる一方、虚しさが砂袋のように重く積み重なった。
怒りをあえて掻き立てて、馬に飛び乗る。
年齢を重ね、昔のように身軽とは口が裂けても言えない。馬に乗ったのも、勢いに任せてなんとかなったが、あわや反対側にずり落ちそうになって馬にしがみついて嫌がられた。馬丁にも心配をされ、護衛には馬車を勧められたが、承諾できるものではない。
馬車で移動していては、遅すぎる。
致命的な何かをやらかす前に、娘をこそ回収しなければ。
走らせ始めれば、昔の乗馬を体が覚えていたか、そこそこに走ってくれた。馬の方が、娘より賢いのではないか。腿はすぐに張り詰め、振動で腹が揺れて苦しいが、意地でも泣き言は言うまい。
カンタスは思い詰めた顔で、領地を発ったのだった。
それでも、出立に一日の差があっては、追い付くことは難しかった。
娘は途中の田舎宿を嫌ってか、馬車としては最速の行程で進んでいる様だ。さらには、カンタスたちは途中の町を通るたびに、通行証の記録から娘たちの隊を抜けた者がいないか確認をしていたために、差は縮まらない。
各地の門番が把握し切れるものとも思えないが、客人とすれ違ってしまうのが恐ろしい。
当の客人に関する情報を得なければ、探すこともおぼつかないので、まずは娘の一行を追うことを優先すべきなのだが。慣れない森の外で放り出され、途方に暮れる客人たちを想像してしまうと、確認せずにはいられないのが、カンタスなのだ。
祈る気持ちで着の身着のまま、汗と脂で髪が顔に張り付き、髭が道端の草ほどに生えた、ぼろぼろの状態になって、カンタスはようやく、ルヴォサンタス王城の膝下の町へと辿り着いたのだった。
行程は不眠不休の丸一日。娘たちの到着の翌昼のことだった。
流石にそのまま王城まで乗りつける格好ではないと、周囲に宥めすかされて、宿屋で身繕いをしたのち、ソワソワしながら王城へ入る手続きをし、さあいざ、娘を叱りつけ、大事な客人には謝罪を——と一歩踏み込んだところで。
「ネクトルヴォイ領主、カンタス殿。喫緊の要件のためご足労いただきたいとのこと。只今このまま御同行いただけますか」
そっと近寄ってきたお仕着せ姿の年若い侍従は囁いて、そっと右手の中のメダルを見せてきた。竜の頭に次期王位継承者であることを示す星。リューセドルク王太子の紋章だ。
「そのまま、居室に案内される体でこちらへ」
さっと人の目から逸れて、城壁内からおそらく城館へと入り、廊下と階段を通り抜け、タペストリーで覆い隠されていた細い入り口から薄暗い部屋へと連れ込まれた。
カンタスは、よい年齢の男として、領主としての意地を総動員して、平静を装いはしたものの、心臓は壊れそうに鳴っていた。狭い入り口に腹がつかえて行くも戻るもできなくなった時に、少年と思えぬ力で押し込んでくれた侍従が、ぴくりとも笑わないので、一層恐怖が勝っていた。
王城で、王太子に会うのに、なぜこのような隠し部屋に通されるのか。
脳裏を、今までは縁遠かった王城の愛憎もつれる人間関係の聞いたか聞いてないかもあやふやな噂が怒涛のように埋め尽くし、カンタスの背は着替えたばかりの服がぬるりと滑るほどに脂汗をかいた。
果たして、その部屋の奥に居たのは、端正な面立ちと、若く細身ながら鍛えられた体で堂々と佇む青年だった。
姿から見て、リューセドルク王太子であろう。
カンタスは、彼の立太子式典に参列し、領主として一言祝意を述べたことはある。六年前の当時は子供でしかなく、今や別人かと思うほどに成長しているが、確かに面影がある。
立派な青年となった王太子に、カンタスは深く礼をした。
だが、カンタスと王太子との接点など、その程度。
隠し部屋に呼び出される理由など、きっと良いものではない。
何か、粗相があったのだろうか。王城に先に入った娘が、何かしたのだろうか。
資産の四分の一を使って娘を送り出した結果がこれか、と、気が遠くなった。リューセドルク王太子の年齢が、娘と同じだと思い出してしまって、さらに凹んだ。
妃選定のことなど、頭によぎりもしなかった。
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