第7話 王太子の悩み

 自室に戻り、用意された温かな布で幾度が顔を拭けば、印象を薄めるための色粉が落ちて呼吸がしやすくなった。

 ふう、と息をついたリューセドルクに、使者の顔をしていた側近が、想定外でしたね、とそっと声をかけてきた。


 このルヴォサンタス王国は、いや、ルヴォサンタスとその隣の二国が建った広大な土地は、かつてその周囲と同じく、深い森だったという。木々は古く大きく、日差しは地面に届かず、昼なお暗い森は、四方を人の越えられぬ高い山脈に囲われて外と断絶し、魔物と獣が蔓延る厳しい世界だったと。

 その越えられぬ山を越えて、故郷を襲った災厄から逃げ延びてきた人々は、その過酷な森にて、あっというまに死に絶えそうになったそうだ。

 それを憐れんだ人型の神が天から降りたち、その森の主であった竜たちに、少しだけ土地を分けてくれるようにと願ったので、森の真ん中に人の暮らすための平地が拓けたと言う。竜たちにとっては少しの土地は、人にとっては余りある広さだったようだ。

 以来、人は森の恩恵を分けてもらいながら、土を耕し、動物を飼い慣らし、やがてその数を増やしてきた。

 神は、さらに人に竜の子を与えたという。竜は人と絆を結び、人を導いてくれると伝承は語る。

 人間は大切に竜を扱って歴史を営み、古くは一国だった土地も、平和的に三国になった。

 神は天には戻らず、人の中から希望したいく人かを従え、森に住まい、森と人との仲立ちとなったという。

 なぜその神が、かくも人に親身であられたのか、伝承は語らない。

 だが、森は今も人に多くの恵みをもたらし続け、竜は各国の王家と共に生き、どの国も、ゆえに竜と森とに敬意を払ってきたのだが——。


 ルヴォサンタスのみならず、人の国の三国全てで、竜の繁殖力が落ちていることが、五、六年前ごろから各王家を悩ませていた。リューセドルクの竜、ガゼオの生まれた後に孵った卵は三国合わせても僅かに6つ。無事に成長している個体はうちの三頭。

 文献にもそれらしき記述は見出せない。他国でも、程度に違いはあるが似た様子らしい。

 竜の病が疑われた。

 さらには、今年の冬の終わりを知らせる一際強い風が吹いた頃から、雄の竜達の様子がおかしいのだ。

 信頼関係を結んだ人間たちと目すら合わさず、たびたび苛立って吠え、脱走を試みる。性格が凶暴化して、竜番たちが近寄れないこともある。


 竜と竜とは戦わず、そして人の争いも厭う。

 それが、祖を一つとする三国が、戦をせずに外交をする文化を守り続けて来ることができた、大きな理由だ。この山々に閉ざされた世界で、戦が起こってしまったなら。人は誰もが今の安寧を失うだろう。

 だが、竜に代わる抑止力は、どこにもないのだ。

 竜が失われてしまったら。その後三国がどのような運命を辿るか。楽観できる根拠は何もない。


 そのため、ルヴォサンタスでは雄竜たちの異変は隠し、今回の王太子妃選定の裏側で、竜に詳しいと思われるルヴォイの森の民と、なんとか秘密裏に繋ぎをつけたかったのだ。

 ルヴォイの森には、長寿の民、叡智の民と呼ばれる、かつて神に付き従った人々の子孫がいまだに暮らしているのだと言う。だが、彼らは森の因果律の中に在り、人とは積極的に関わらず、森に行こうとも会うことはできない。

 唯一、古き時代の王が森の民と友好的な付き合いを保つことを義務として課したとされる領地、森の隣人と呼び習わされるネクトルヴォイの者であれば、仲立ちをしてもらえるかと期待をかけたのだが。


「かの姫はネクトルヴォイ領主の唯一の子のはずです。それがあの様子では、すでに、ルヴォイの森は伝承でしかなくなったのかもしれません」

「領主本人はどうしている」

「姫だけが先に着いたようです。まだ領主は入城していません」

「到着次第、速やかに面談の約束を取り付けよ。厳に内密に」


 国の一大事。そのはずなのだが、両親である国王と王妃には秘して進めなければならないことが、煩わしく、情けない。国王はこのところ、気を病んでいてかつての活力を失っている。実のある話が聞ければ、それを共有して同意を得ることはできるだろう。

 だが、王妃は。

 何度も考えてきた、解のない悩みに囚われそうになったが、今はそのことは後回しだと、リューセドルクはひとつ瞬きの間に切り替えた。


「あと、先程の男」

「気にされるほどの者でしょうか。ネクトルヴォイに期待が持てないとなれば、同行者を優遇する理由はなくなります。逆にかの姫は、身元の不明な怪しげな者を城内へと手引きしたということになります」

「姫の軽挙は、領主との会談で有効に使おう。今後あの姫を特別扱いする必要はない。だが男には別の部屋をあてがい、よくもてなせ。そしてなるべく優先して話をする機会を取りつけよ」


 諾の返事をしたものの、納得しがたい顔をしている腹心たちに、説明が必要なようだった。だが、珍しくリューセドルクは言葉をためらった。


「何故話をする必要があるかという説明が難しい。あえて言うなら、匂いだろうか。あの男から、竜の匂いがした気がしないか?」


 使者を演じた側近は首を振ったが、それは普段から竜に親しむわけではないからかもしれない。竜に近しい護衛たちは、戸惑いながらも、そう言われると、とあやふやながら肯定した。


「それに、ジュメとは『じゅめ』であるならば、古い書き付けにあった失われた言葉では、緑の宝石だ。神が最も好んだ高貴な石だと書いてあった。なにより、あの美貌は、只人ではない。——もし、ルヴォイの森か長寿の民に繋がる見込みが、わずかなりとあるのであれば。尾の先であれ、影法師であれ、必ず掴まえるのだ」





 だがこの日は、これ以上の進展は望めなくなった。

 ネクトルヴォイの令嬢を王子の使者が訪ねたことが、どこからか王妃へと知らされ、であれば、と他の令嬢たちにも順に同等の機会を作ることを強要されたからだった。

 もともと、ネクトルヴォイだけを優遇しているように見えないよう、全ての候補者宛に手紙は贈ったのだが。使者の数が違うだの、贈り物がなかっただのとねちねちと長く取り沙汰されることに辟易してしまったリューセドルクは、仕方なく、王妃の特に推薦する娘たちのみ、使者ではなくリューセドルク本人が時間をとって面談し、迎えの言葉をかけることで差別化することとした。

 王妃は、リューセドルクに令嬢個人と二人の時間を持つことを求めていた様で、人数が少ないと不満を表しつつ、引き下がった。

 どれほどあっさりと切り上げるとしても、最低限の礼儀を保つためには一人一人に一定の時間を割くことになる。

 結果、精神的な負担と気疲れに重たくなった体で、後に回され山積みとなった通常の政務を明方まで執り行うこととなり、一切余分な身動きが取れなくなったのだ。

 王妃自身は子への他意のない申し付けのつもりかもしれないが、そのせいで息子が擦り切れていくことには思い至らないらしい。やるせなさが、両肩をさらに重く押しつぶした。

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