第10話 森長の弟
「部屋を別にもらえたのは幸運だったな」
あの使者たちが去った直後に、ユーレイリアが文句を言う間もなく、ケールトナは別棟の客室に案内され、いくつかの広い部屋と設備を自由にして良いと言われ、専属の小間使いまで付けられたのだ。
一体何をこちらに期待しているのか、話とやらの内容が恐ろしくなるほどの待遇だが、ケールトナはすぐに気にするのをやめ、新たな環境を満喫することにした。
部屋の居心地より何より、あの甘やかされた小娘の相手をしなくてもいいのがよい。
旅路では煩わしくなれば姿を晦ますのも簡単だったが、城に入ってからはなんだかんだと喧しかった。隣家のお嬢さんだからと我慢はしたが、テオルーのようなものだ、などと気を逸らして相手をするのもほとほと飽きていた。
テオルーとは、やたらに凶暴で凶悪で、自分の何倍もある獰猛な肉食獣にすらギャンギャンと喧嘩を売る白黒斑の動物だ。魔物でもない、ただの動物だが、森の民や大型の動物、果ては魔物にすら喧嘩を売るので、どこか本能がおかしいのだろう。やたらに打ち倒すわけにもいかず、森の民としては、甚だ面倒くさい生き物だ。
静かに安眠を貪った翌日の昼過ぎに部屋を訪れた、ネクトルヴォイの領主カンタスは、テオルーとは真逆な、慎重で生真面目な印象の小太りの男だった。
やや過ぎるほどに丁重、かつ真っ当に隣人としての厚意と誠意を示してきたことから推測しても、この領主が跡取り娘に教育を施していないとはずはあるまい。
とすれば、あの小娘は、甘やかされたというよりは、与えられた教育を身につけることができない、愚か者だった、ということだ。
……ほら、同じではないか。
カンタスは娘の無礼についても気の毒になる程謝罪をしていた。
成人しているのだから、子といえど親の責任ではないのでは、とは思ったが、ユーラの計画のために必要そうな品を手に入れるのには、協力してもらいたい。そう申し入れれば、カンタスは大張り切りだった。
大変役に立ってくれそうだ。久しぶりの外界に対して懐疑的になりつつあったのだが、カンタスの気の良さに、ケールトナの擦れた心も、癒された。
「で、カンタス殿、リューセドルク王太子殿が、私と会いたいと?」
「はい、直接お会いして、大切なお話をさせていただきたい、と。ただ、その、説明が難しいのですが、城内の誰にも内密にお会いしたいと」
「王太子殿にとっては、父君と母君もまた敵ということかな?」
「ま、まさか!?」
カンタスは大慌てで否定するも、ちょっと心配するほどの汗をかいている。
「ははは、失礼。冗談です。もちろん、お会いしますよ。こうして、滞在し世話になっているのです。返礼はすべきでしょう。私もお話ししてみたいですしね」
軽く受け入れると、カンタスは感動したとばかりに目元を赤らめ、嬉しげに退出していった。まさか、そのままおおっぴらに王太子に報告に行くわけではないだろう。内密に、と言っているのだから。まさか。
心配しても仕方がない。ケールトナが今心配すべき存在は一人だけで、その姪は、昨日から食事のたびにしれっと部屋には帰ってくるものの、今もどこでなにをしているやら。
まあ、いいか。くあっと大きくあくびをして、ケールトナは寝椅子へ溶けるように寝そべり、小間使いに、客が来た時だけ起こすように伝えて微睡んだ。
夕刻、夕食の時間より早く、小間使いが迎えの訪れを知らせた時にも、姪はいなかった。
「お客様方は、城の中の見学を許可されております。その範囲はお客様によって様々ですが、竜を見たがるお客様も稀にいらっしゃるので、さして目立たないかと。ご案内いたします。行き先は泥がちですので、泥除けをおつけします」
使者に指示された小間使いに身支度を整えられ、だが、大袈裟な外套は断って、ケールトナはひょいひょいと案内について行った。客室の並ぶ棟から渡り廊下を通って城壁を通り抜け、大広場へ降りてそこをつっきり、ほか三方より背の低い西手の城壁へ向かい、やがてその両角に聳える塔を見上げつつ、二重の木戸が開け放たれた通用路をくぐり、城の裏手に出た。
そこは、切り立つ崖の上だった。
見渡すことのできるすべての方角に、雪の消えることのない山脈がぐるりと聳えている。
ちょうど、日が西の山にかかるところだ。空は反対側から、ゆっくりと濃く染まりつつあった。
城から崖まで広がる高台は、本来は何頭もの竜が飛び立ったり飛び降りたりとする場であろう。だがそこは今、静まりかえっている。
昨日ユーラが辿り着いた場所はここなのだろう。
「お呼び立てして申し訳ない。ルヴォイの森の客人とお見受けする」
王太子は、先にその場にいた。
数人を後ろに従え、足元に長い影を伸ばして立っていた。
華美ではないが端麗な衣装を纏う、艶のある黒髪に蒼い目の凛々しい青年だった。
初対面、だが、声には覚えがある。
ユーレイリアの元で声をかけてきたあの従者が、王太子本人であったことを確認して、さらにもう一度、頭の先からつま先まで、一瞬で眺めた。
姿勢が良い。声の響きも良い。これはおそらく、鍛えられた体幹によるものだ。
手も大きい。立ち姿を見れば、戦のない国の王族には珍しく、剣を使うのだろうと察せられた。
眼差しも強く真っ直ぐ。よい気配を纏っている。首には竜笛。——そうか、竜に乗るのだ。王族は竜との結びつきが強いとはいえ、騎乗をするのはまた別のこと。相応の訓練がいることだ。
うむ、とケールトナはひとつ頷いた。
結論はまだ出さないが、見込みはあるのではないか、と。
さて。
ここは非公式の場だ。王太子の口調も敬語ではない。であれば、ここは友人(仮)として返答するのが正解だろうか?
森の古老が聞いたら青筋を立てるだろうなと思いつつ、面白い方をケールトナは取った。森はここから、遠いのだ。
「昨日ぶりだな。ルヴォサンタスの王太子殿とは気づかず、挨拶もせずに失礼をした。俺はルヴォイの森長、叡智のオクルオークスの弟、ケールトナ。部屋を手配してくれた礼を言う」
「……長殿の弟君だったとは。いや、どのような立場であれ、昨日は名乗りもせず礼を欠いたことをした。いかにも私がリューセドルク。王太子でもあり、昨日貴殿に声をかけた者でもある」
戸惑ったのはほんの一瞬。判断が早く、非を認めるのを嫌がらない。
「あの令嬢の前では話しにくい事情があったのだろう。致し方ないことであり、過ぎたことだ。挨拶を交わしたことだし、只今を我らの交流のはじまりとしようではないか」
「理解いただいてありがたい。私としても、願ってもないことだ」
ここで、リューセドルクは自らの側近を下げ、ケールトナを高台の端に誘った。
下方には王城の城下の街並み、そしてひろがる平原と森。濃く長い影が、すべてを強く浮き彫りにしている。振り返れば、夕日が眩く照らし出している城壁に張り付くように、石で組まれた堅牢な建物がふたつある。
その建物から、独特の腹に響く声が、時折り地を伝ってくる。
建物は竜舎で、そこに竜がいるのだろう。
だが。
空は橙と青が混じり合い、西の山の間際では花束のように金の光が束ねられている。
竜の多くは夕空をとても好むので、この時間帯には、刻一刻と色を変える夕の光を全身に浴びながら、寝そべって天を鑑賞するのが常だ。
だが、やはり、高台は静かで。
赤く色づく地面に、二人の影だけが長く伸びている。
「我がルヴォサンタスに竜をもたらしたのは森の民だと、古文書に聞く。その森の民たるあなたに教えを請いたい。竜達が、今、正常ではないのは、何か理由があるのだろうか」
「人の間では、竜は国家間の安定のために必須な存在だと聞くが。そうおおっぴらに不調だと聞かされるのは予想外だな」
「当初は、三国で報告をし合い、相談や竜番たちの意見交換も行ったのだが、この一年ほどは互いに距離を置いているところだ。まして、半年ほど前からは、若い竜たちの行動も目に見えておかしくなったのだが、我らは口を噤んでいる。
これが三国のどこでも起こっていることなのか、知る術はない。どの国も、竜たちに何かあった場合の、保身を考えている。確かに、こうして竜がおかしいと口に出すことは、国防上は危険なことかもしれない。
だが、……私も竜に乗る。私がその竜にガゼオという名を付け、孵化してからずっと一緒に育った。彼は、西日を浴びて、赤翠の体を燃えているかのように輝かせて一日を終えるのが常だったのに。
病であるなら、治せるものなら治してやりたい。国の事情と天秤にかけるものではないと、そう思っている。……特にあなた方の前では」
竜を痛いほどに案じる声は、演技ではなさそうだ。
しかしなるほど、ここまで事情をわかっていないのであれば、さぞ気を揉んでいることだろう。
「わかった。とはいえ、残念ながら俺は今すぐ答えを話すことができない」
「……答えを知らない、とは言わないのだな。どのように正常でないのかを問うこともない。もしや、これはあなた方にとっては既知のことなのか?」
察しがよい。
「王太子殿」
「リューセドルクと」
「リューセドルク。では俺のことも名で。……竜が卵を産みにくくなったのは、竜という種自体が近年疲弊してきたからだ。これは、長い間隔で竜たちに繰り返して起こることで、この国でも、近隣の国でも、そして森でも、等しく起こっている現象のはず。だが、その解決もまた、竜たちの中から自然と生じてくる。時間の問題だ」
蒼い目が、睨まれているのかと思うほど真剣にこちらを見据え、そして話の要点を飲み込んだのか、わずかに安堵を滲ませた。
卵や弱い幼体への対処方法もいくらかはあるのだと言えば、さらに息を吐いて、目を伏せた。竜相手に情が深いようで、加点が大きい。
「——だが、若竜たちに起こっていることは、それとは違う」
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